夜通しの石積み
橋の修繕から三日後。健悟はノルンの古地図を頼りに、地下水路の推定経路を歩いた。《万象鑑定》を地面に向けて使えるか——試してみると、足裏を通じて微弱な構造線が浮かんだ。地下一メートルほどの深さに、石組みの構造物が検出される。
「ここだ」
広場の南端、廃屋の裏手。地面に手を押し当てると——青い構造線が地下の水路を描き出した。
【構造物:石組み地下水路】
【築年数:推定250年】
【内径:幅60cm×高さ80cm】
【閉塞率:推定85%(土砂・落石による閉塞)】
【漏水箇所:4箇所(うち2箇所が橋脚基礎方向へ流出)】
水路は生きている。完全に崩壊したわけではない。石組みの構造自体は健全で——ただ土砂と落石で詰まっているだけだ。人間の血管と同じだ。動脈硬化で血流が悪くなっても、血管そのものが壊死しているわけではない。詰まりを除去し、漏水箇所を補修すれば——二百五十年前の水路は機能を回復できる。
「でも——地下を掘るのは大仕事だよ」
リーゼが腕を組んだ。水路の復旧は、橋の修繕とは規模が違う。地面を掘り、水路にアクセスし、詰まりを除去し、石組みを補修し、埋め戻す。
「全部を一度にやる必要はありません。まず——橋脚方向への漏水を止める。その二箇所だけ補修すれば、橋の根本原因は潰せます」
「二箇所なら——どれくらいかかる?」
「掘削と補修で——五日。人手は六人以上」
人手の問題は——橋の修繕で少し改善されていた。ガルドが加わり、ハンスとヨルグが手伝い、作業の成果を見た村人が何人か態度を軟化させていた。しかし——増水の兆候があった。
「健悟」
ガルドが朝の巡回から戻ってきた。顔が険しい。
「上流の様子がおかしい。山の方に黒い雲が溜まっている。——雨季の走りかもしれん。冒険者時代に何度も見た雲だ」
「増水ですか」
「この時期に大雨が来ることがある。テール川が増水すれば——橋脚の根固めが持つか分からんぞ」
橋の応急修繕は——増水を想定していない。根固めの石は静水圧なら耐えられるが、洪水レベルの水流が来たら押し流される可能性がある。
しかも——水路の漏水が続いている。増水で水路内の圧力が上がれば、漏水量が増える。橋脚基礎への浸食が加速する。
(最悪のタイミングだ)
増水が来る前に——漏水箇所を塞がなければならない。水の量が増えれば、工事自体が不可能になる。計画していた五日を、三日に短縮する必要がある。人手を倍にしなければ間に合わない。
「リーゼ。人を集めてください。できるだけ多く」
「何人必要?」
「十二人。三班に分けて昼夜交代で作業します」
リーゼの碧い目が大きくなった。
「昼夜交代って——夜も?」
「はい。増水が来る前に終わらせないと、橋の修繕が全て無駄になります」
リーゼは——一瞬だけ逡巡した。そして、走り出した。亜麻色の髪を揺らしながら、村中を駆け回った。一軒一軒、ドアを叩いて回った。
午後——広場に十四人が集まった。村の男衆のほぼ全員だ。中には、橋の修繕の時に嘲笑していた者もいる。橋の修繕を見ていた村人たちが、今度は自分から手を上げた。結果を見たからだ。あのよそ者が橋を直したのは事実だ。なら——水路の話も嘘ではないだろう。
ガルドが班を編成した。三班、各四人と補助二人。元冒険者の統率力が発揮された。
「一班は掘削。二班は石材搬入。三班は交代要員。四時間ローテーションで回す。夜間は松明を使う。俺が全体を見る」
「ガルドさん——助かります」
「礼はいらん。俺は自分の判断であの橋を守ると決めた。——あんたの指示に従うのは、あんたの方が橋を知っているからだ。それだけだ」
不器用な男だった。しかし——その不器用さが信頼に繋がっている。ガルドが動けば、村の男衆は動く。冒険者として命を懸けた過去が、言葉以上の説得力を持っている。
掘削が始まった。
地下一メートル。思ったよりも土が硬い。鍬を振り下ろすと、火花が散るほどだ。石混じりの粘土質の土が、道具の先端を弾く。トビアスが汗を垂らしながら鍬を振るう。ハンスとヨルグが掻き出した土を箕で運ぶ。泥と汗と鉄の匂いが立ち込める。
日が暮れても作業は止まない。松明の灯りが揺れる中、男たちが黙々と土を掻き出す。夜風が冷たい。汗が冷えて身体を震わせる。
健悟は鑑定で水路の位置を指示し続けた。
「あと三十センチ下。——左に十センチずれてください。石組みの端が見えるはずです」
「もう少し丁寧に掘ってください。水路の石を傷つけないように」
「そこは——違います。もう少し手前。はい、そこです」
声が嗄れた。喉が痛い。しかし——指示を止めるわけにはいかない。自分の目——《万象鑑定》の目がなければ、水路の正確な位置は分からない。暗闇の中で地下構造を見通せるのは、この世界で健悟だけだ。
手が震えている。疲労だ。リーゼが「交代して」と言ったが——鑑定は交代できない。スキルの代わりは存在しない。
夜が更けた。一班が交代で仮眠を取る。穴の縁に腰掛けて空を見上げる者、地面に横たわってすぐに眠りに落ちる者。疲労の色は濃いが——誰も文句を言わなかった。
ロッテが温かいスープと毛布を担いで来た。この年齢で夜中に重い荷物を運ぶのは容易ではないはずだ。
「あんたたち。無理しすぎだよ」
「無理しないと間に合わないんです。ロッテさんこそ——こんな時間に」
「飯を作るのは私の仕事だよ。あんたたちが穴を掘るのと同じさ。——ほら、スープ飲んで。冷めないうちに」
ロッテのスープが身体の芯まで染みた。根菜と肉の切れ端が入っている。普段の食事より豪華だ。きっと——特別に用意してくれたのだろう。寒い。夜風が吹くたびに松明の火が揺れ、影が踊る。
ガルドが健悟の隣に座った。スープのカップを手にしている。
「あんた」
「はい」
「前の世界でも——こうやって夜通し働いていたのか」
「……ええ。ただ、前の世界では一人でデスクに向かっていただけです。こうやって仲間と一緒に土を掘ったことはありません」
「デスク?」
「机です。机の上で——書類を書いていました」
ガルドが怪訝な顔をした。
「机の上で橋を直すのか。——よく分からん世界だな」
「ええ。僕もそう思います」
二人で——松明の下で笑った。ガルドが初めて——声を出して笑った。短い笑い声だったが、武骨な顔が少し柔らかくなった。
「あんたは嘘をつかない目をしている。——だから俺はここにいる」
その言葉は——健悟の胸に深く刺さった。前世では——誰にもそんなことを言われたことがなかった。「土師は信頼できる」と言った上司はいたが、それは書類の精度に対する評価であって、人間に対する評価ではなかった。
松明が爆ぜた。夜空に火の粉が舞った。遠くで梟が鳴いている。星が見えた。こんなにも美しい夜空の下で——泥だらけになって穴を掘っている。前世の自分が見たら「何をしているんだ」と呆れるだろう。しかし——前世の自分より、今の自分の方がずっと生きている。
午前二時。掘削深度が水路の天端に達した。石組みの上面が露出した。鑑定すると——石組みは予想以上に良好な状態だった。天端の石が一部崩落して詰まっていただけだ。崩落した石を除去し、代替の石で塞げば——水路は復活する。
「見えた。水路の石組みです。状態は良い」
泥だらけの健悟の声に——男たちが集まった。松明の灯りに照らされた穴の底に、二百五十年前の石組みが姿を現している。整然と積まれた石。精密な勾配。排水のための微妙な傾斜。
「……美しい」
健悟は思わず呟いた。二百五十年前の技術者が——この水路を設計した。名前も知らない技術者が、この村のインフラを支えていた。国交省にも——明治時代に橋を設計した無名の技術者がいた。彼らの仕事は百年後も人々の足を支えている。インフラとは——そういうものだ。作った人間が忘れられた後も、黙って人々の生活を支え続ける。
男たちが穴の底を覗き込んでいる。松明の灯りに照らされた石組みは——泥を被っても整然としていた。
「これを——直すのか」
ハンスが呟いた。
「直します。このまま詰まりを除去して、崩落箇所を新しい石で塞ぎます。水の流れを本来の経路に戻せば——橋脚への漏水が止まります」
「やれるのか」
「やります。ここまで掘ったんです。あとは——石を積むだけです」
ガルドが立ち上がった。泥だらけの手で背中を叩かれた。痛い。しかし——その痛みが温かかった。
「休め。二時間後に交代する。——俺が見張っている」
「しかし——」
「戦場で無理をして死ぬ馬鹿と同じだ。使えなくなってからでは遅い。寝ろ」
有無を言わさぬ声だった。元冒険者の命令は——国交省の上司の指示よりも絶対的だった。
毛布にくるまって横になった。地面が硬い。しかし——目を閉じた瞬間、意識が落ちた。二時間後にガルドに起こされた時——東の空が薄桃色に染まり始めていた。二日目の夜明けだ。水路の復旧は——まだ半分。しかし、増水の前に間に合わせる。間に合わせなければならない。




