数字は嘘をつかない——提案書の骨格
朝。健悟は宿の二階の作業部屋で提案書の作成を始めた。前世の油性ペンはもう使えない。しかしフェリスが渡してくれた魔法ペンは——滑りが良く、文字が美しく書ける。道具が変わっても——文書を作る技術は変わらない。
(国交省時代の道路事業計画書。あの書式が——頭に浮かぶ。目的、現状分析、課題、提案、費用対効果、リスク分析、工程表。何百回も書いた。目を瞑っても書ける。しかし——あの時は上司に提出する計画書だった。今は——領主を説得する提案書だ。相手が違う。しかし構造は同じだ)
紙の上に骨格を描いた。
一、ハルベルト河港の現状分析
二、交易制限令の経済的影響
三、制限緩和時の予想効果
四、カッセル領全体への波及効果
五、リスクと対策
五つのセクション。国交省の計画書と同じ構成だ。官僚の武器は——論理と数字。それはどの世界でも変わらない。
窓の外を見た。朝日がテール川を照らしている。港の桟橋に停泊している船は——二隻だけ。先月は五隻が常時停泊していた。数字が——目に見える形で減っている。
しかし——数字の減少は、逆に武器になる。「制限令前」と「制限令後」の比較データが——制限緩和の論拠になるからだ。
午前。ロッテの宿の一階。大テーブルに全員が集まった。
テーブルに地図と帳簿が広げられている。ロッテが焼きたてのパンと温かいスープを出した。パンの香ばしい匂いが部屋を満たす。しかし今日は——食事ではなく、会議だ。
「まず交易データです。マルテさん」
「先月の交易額を基準にしたわ」マルテが帳簿を広げた。「制限令前の月間交易額——木材・石材・農産物の合計で銀貨四千二百枚相当。制限令後——同じ品目で銀貨千八百枚。五七パーセントの減少。原因は取扱制限ではなく、検閲税と検閲の遅延による商人の忌避」
「つまり——制限令の四条だけなら交易は維持できたのに、運用面の検閲が実質的なブレーキになっている」
「その通りよ。数字がはっきり示しているわ」
健悟がペンを走らせた。マルテの数字を提案書に書き込む。
「次に技術報告です。フェリスさん」
「マギクリートの生産量は月間百二十トン。うち港湾維持に必要な量は十五トン。余剰の百五トンは——外販可能です。ただし制限令により高付加価値品としての販路が制限されています」
フェリスの声は淡々としている。琥珀の瞳が数字を映している。百二十歳のエルフは——感情を交えずにデータを提供する。それが——提案書にとっては最も有用だった。
「ドラガさんの鋳造炉の稼働率は?」
「六割じゃ」ドラガが白い顎鬚を撫でた。「建材需要が減ったからのう。窯を冷まさんといかん時間が増えた。職人として——腕が鈍る。制限がなければ——フル稼働できる。いや、足りんくらいじゃ」
「六割——つまり四割の余力がある。その余力が、制限緩和時の即座の増産体制になる。すぐに対応できると伯爵に示せます」
ドラガが頷いた。「ワシの窯は——いつでも火を入れられるぞい」
健悟はデータを書き込みながら——官僚時代の感覚が蘇るのを感じていた。数字を集め、論理を組み立て、提案書にまとめる。この作業が——嫌いではなかった。前世では残業の果てにやっていたことだが。
トビアスが手を挙げた。
「あの——建設班の稼働率も報告していいですか」
「お願いします」
「現在の稼働率は三割です。港の維持管理だけで——新規の建設案件がないので。みんな手持ち無沙汰で——」
「三割。それは——もったいないですね」
「はい。腕は——鳴ってるんですけど」トビアスが大きな手を握り締めた。建設班棟梁の手だ。仕事を求めている手だ。
ロッテがスープのお代わりを注いだ。全員の椀に——温かいスープが満たされる。
「難しい話は分からないけどね」ロッテが言った。「この村のみんなが——前より暇そうにしてるのは分かるよ。仕事が減ったってことでしょう」
「そうです。制限令で——仕事が減っている」
「じゃあ早く制限を外してもらわないとね。ロッテのスープは——忙しい人に飲ませたいんだから」
全員が——少しだけ笑った。ロッテの言葉はいつも——場の空気を和らげる。
全てのデータが——一つの絵を描いている。ハルベルトには余力がある。人も技術も設備も——制限がなければ、もっと多くのことができる。その余力を数字で示す。伯爵に。制限令の前と後で何が変わったか。緩和すれば何が変わるか。未来を——数字で予測する。
午後。健悟はザインの仮宿舎を訪ねた。
窓を閉め切った暗い部屋。蝋燭が一本だけ灯されている。揺れる光がザインの顔を照らした。文官は帳面を閉じ、声を潜めた。
「提案書を作っていると——聞きました」
「はい。伯爵を数字で説得するために」
「数字は——有効です。しかし一つ、知っておくべきことがあります」
ザインが蝋燭の光に目を細めた。息遣いが静かな部屋に響く。
「伯爵が真に恐れているのは——経済的損失ではありません。秩序の崩壊です」
「秩序——」
「カッセル領の統治秩序。伯爵は三十年かけて領内の均衡を築いてきました。辺境の小村が急速に発展すれば——その均衡が崩れる。他の領民が不満を持つ。『なぜあの村だけが』と。伯爵は——ハルベルトの成長そのものではなく、成長が引き起こす政治的な不均衡を恐れているのです」
(省庁間調整と同じだ。国交省が道路を作りたくても、財務省は均衡を気にする。一つの事業を特別扱いすれば、他の省庁から批判が出る。「なぜ道路だけに予算を」と。予算委員会で追及される。——伯爵の懸念は、その財務省の論理と全く同じだ。領内の均衡を守ること。特定の村だけの優遇は——他の領地からの不満を生む)
「つまり——提案書に必要なのは、ハルベルトだけの利益ではなく」
「カッセル領全体の利益を示すことです。ハルベルトの発展が——他の領地にも波及する仕組みを提案すれば——伯爵は受け入れやすくなります」
健悟は頷いた。提案書の四番目のセクション——「カッセル領全体への波及効果」。ここが核になる。
「ザインさん。もう一つ聞きたいことが」
「何でしょう」
「伯爵の査察が——早まる可能性があると聞きました」
ザインの目が一瞬だけ鋭くなった。誰から聞いたのか——察したのだろう。しかし問い返さなかった。
「可能性は——あります。代官からの報告次第です。私は——できる限り正確な報告を上げるつもりです。正確であることが——皆さんにとっても、伯爵にとっても、最善です」
ザインが蝋燭を吹き消した。暗闇の中で——文官の足音が遠ざかっていく。この青年は——伯爵の代官でありながら、ハルベルトに賭けている。なぜか。伯爵のためか。自分のためか。それとも——この村の可能性を信じているのか。
夕方。リーゼの家の縁側で、提案書の草稿をリーゼに見せた。
夕焼けがテール川を染めている。港湾のシルエットが逆光に浮かんでいる。遠くで子供たちの声がする。穏やかな時間だ。しかし——その穏やかさの裏に、制限令の圧力がある。
「健悟。これ——全然わかんない」
リーゼが碧い目で草稿を見つめ、眉をひそめた。
「どのあたりが——」
「全部。『波及効果の定量的推定』って何。『上納金の限界収益逓増構造』って何。村人の誰も読めないよこれ」
(……国交省時代の上司にも同じことを言われた。「健悟くん、これ大臣が読むんだぞ。大臣は道路工学の専門家じゃない」。あの時も——専門用語を並べすぎた)
「すみません。書き直します」
「ううん、書き直すんじゃなくて——二つ作ったら? 伯爵に出すやつと、村のみんなに説明するやつ。伯爵は難しい言葉でいいけど、村人には——」
「平易な言葉で」
「そう。みんなが『あ、これは自分たちのためになるんだ』って思える言葉で」
リーゼの指摘は——的確だった。前世でも同じ失敗をした。技術者向けの報告書と、住民向けの説明資料は——別物だ。
「提案書を二種類作ります。伯爵向けの政治文書と、村人向けの説明書」
「うん。それがいいと思う」
リーゼが笑った。夕焼けに染まった碧い目が——穏やかだ。
「でもね——健悟。一つだけ」
「はい?」
「提案書は大事だけど——伯爵に会う前に、村のみんなにも話して。みんなが納得してないと、伯爵の前で——ばらばらになっちゃうから」
「村民への事前説明——」
「うん。前に上水道の時にやったみたいに。広場で。みんなの前で」
リーゼの目が——真剣だった。この村長は——難しい言葉は知らない。しかし——人の心を束ねる力を、本能で理解している。提案書は伯爵を動かす武器だ。しかし——村人の結束こそが、その武器を支える土台になる。
テール川の水面に夕焼けが溶けていく。提案書を二種類。伯爵向けと村人向け。前世では一種類しか書かなかった。上に向けてだけ。下には——説明しなかった。それが——官僚の限界だった。ここでは——違う道を行く。




