密使の綱渡り——ザインの賭け
ザインは一人で馬を駆っていた。ハルベルトを発って半日。伯爵城のあるカッセルの街まで、あと三時間ほどの距離だ。霧が深い。視界は十歩先までしか利かない。街道の両脇に立つ魔力灯の柱が、ぼんやりとした光を放っている。健悟たちが設置した灯だ。
(この灯がなければ——霧の中では馬を止めるしかなかった。しかし灯があるから、進める。たったそれだけのことが——道を変える)
帳面を懐に入れている。ハルベルトの現状報告——ではない。謁見の手配を求める嘆願書だ。ザインが自分の名で書いた。文官として伯爵に仕える身が、辺境の村の代弁者になる。それがどれほど危険なことか——理解している。
霧の中に、影が動いた。
ザインは手綱を引いた。馬が足を止める。街道の脇の茂みから、一人の男が現れた。革の外套を纏い、フードを深く被っている。顔は見えない。しかし——ザインにはわかった。伯爵が別ルートで派遣した監視者。「もう一人の目」だ。
「ザイン殿。お早いお出かけで」
低い声。名前を知っている。つまり——ザインの行動は、既に把握されている。
「定期報告のための帰城です。代官として当然の務めですので」
「定期報告——ですか。しかし次の報告期限は十日後のはず」
冷や汗が背中を伝った。この男は、報告の周期まで把握している。嘘は——通じない。
「急ぎの件があります。ハルベルトの交易制限令の影響について、伯爵に直接ご報告申し上げたいことが」
「影響——」
密偵の声が、わずかに揺れた。興味を持ったのか、それとも疑念を深めたのか。ザインには判断がつかなかった。
「失礼します」
ザインは馬を進めた。密偵の視線が背中に突き刺さる。しかし——振り返らなかった。振り返れば、怯えを見せることになる。文官の武器は、平静だ。
カッセルの城門が霧の向こうに見えたのは、正午を過ぎた頃だった。
城壁は高い。石造りの壁が灰色の空に聳え、旗が風に揺れている。ヴェルナー伯爵の紋章——鷲と剣の意匠が、霧に濡れた布に描かれていた。門兵に代官証を見せ、城内に入る。城門をくぐると、石畳の匂いが変わった。ハルベルトの石畳は土と草の匂いが混じる。ここの石畳は——磨き粉と馬糞の匂いだ。都市の匂い。
中庭を横切る。兵士たちが訓練をしている。槍の打ち合う金属音が響く。ザインは兵舎の横を通り、城の奥へ向かった。文官の控えの間は東棟の二階にある。階段を上がる時、すれ違った書記官が怪訝な顔をした。予定外の帰城は——それだけで注目を集める。
控えの間で三時間待たされた。
石壁に反響する靴音。磨き込まれた大理石の冷たさ。ザインは長椅子に座り、帳面を膝の上に置いていた。城内の空気は——ハルベルトとは違う。権力の匂いがする。高価な香油、磨かれた革靴、書類の山。ここは伯爵領の中枢だ。ザインがかつて憧れ、そして——疑問を持ち始めた場所だ。
扉が開いた。
顧問官のヘルマンが入ってきた。五十代の太った男で、額に汗を浮かべている。伯爵の側近の中でも——最も保守的な人物だ。変化を嫌い、現状維持を是とする。
「やあ、ザイン。急な帰城だと聞いたが——何用かね」
「ハルベルトの代表が、伯爵への直接謁見を求めています。交易制限令について、提案書を持参して——」
「提案書?」ヘルマンが太い眉を上げた。「辺境の村長風情が、伯爵閣下に提案書を?」
嘲笑が部屋に響いた。ヘルマンの笑いは——脂ぎった声だ。
「ヘルマン殿。ハルベルトの現状をご存知ですか」
「知っているとも。橋を直し、港を作った。それだけだろう。よくある辺境の自助努力だ」
「それだけ——ではありません」
ザインは帳面を開いた。ページをめくる音が静かな控えの間に響く。数字を並べる。交易額の推移。マギクリートの生産量。港湾の稼働率。街道の通行量。一つ一つの数字が——ハルベルトの変化を物語っている。
「月間交易額は制限令前で銀貨四千二百枚。制限令後は千八百枚に減少。五七パーセントの落ち込みです。この損失は上納金にも直結します」
「ふん。たかが辺境の一村の交易額が——」
「カッセル領の年間上納金に占めるハルベルトの割合は、制限令前の試算で四パーセントに達していました。辺境の一村としては異例の数字です」
ヘルマンの眉が動いた。四パーセント。それは——無視できない数字だ。カッセル領には百を超える村がある。一つの村が四パーセントを占めるということは——その村の経済規模が突出しているということだ。
「しかし——それは伯爵閣下が判断されることだ。村長が直接来ても、門前払いになるだけだぞ」
「一つ、お伝えしたいことがあります」
ザインは声を低めた。これが——最後の切り札だ。健悟から聞いた言葉を、自分の言葉に変換する。
「ハルベルトが整備した街道は——魔物防衛にも転用できます。魔力灯による夜間視界確保、マギクリートの防壁構造、通信用の中継塔ネットワーク。辺境の防衛ラインとして——領軍の展開速度を大幅に上げられます」
ヘルマンの顔色が変わった。
魔物防衛。それは——伯爵が最も気にしている課題の一つだ。辺境の村々は常に魔物の脅威に晒されている。防衛コストは領の財政を圧迫し続けている。もしハルベルトのインフラが防衛に使えるなら——それは交易の話ではなく、安全保障の話になる。
「……謁見の手配は、私が取り次ぐ」
ヘルマンの声が、初めて真剣になった。嘲笑は消えていた。
「ただし——十日以内だ。それ以上は待てん。伯爵閣下のご予定が立て込んでおる」
「十分です。感謝します」
ザインは頭を下げた。控えの間を出る。長い回廊を歩く。自分の足音だけが石壁に反響する。
回廊の角を曲がった時——人影とすれ違った。
革の外套。フードを目深に被った男。朝、街道で会った密偵と——同じ匂いがした。革と土埃の匂い。男はザインの横を通り過ぎながら、一瞬だけ視線を向けた。目が合った。灰色の瞳。感情のない、観察者の目だ。
ザインは歩を緩めなかった。背筋を伸ばし、帳面を胸に抱え、城門に向かった。心臓が耳の中で鳴っている。見られていた。城内での会話を——どこまで聞かれていたかわからない。
城門を出た。
霧はまだ晴れていなかった。午後の陽が薄い膜のように白く滲んでいる。馬に跨り、手綱を握る。指先が震えている。革の手綱が汗で滑った。ザインは拳を握り締めた。
(俺は——文官だ。報告書を書き、帳面をつける。それが仕事だ。しかし——帳面に書く数字は、人の暮らしそのものだ。ハルベルトの数字を見ていれば——わかる。あの村は正しいことをしている。伯爵に仕える義務と、正しいことを支える義務。二つが矛盾する時——どちらを選ぶのか)
答えは、もう出ている。街道を一人で駆けた時点で——答えは出ていた。
帰路の街道は長かった。馬の蹄の音だけが街道に響く。霧が次第に薄れ、夕暮れの空が見えた。ハルベルトの魔力灯が遠くに光っている。あの光を目指して——馬を駆る。密偵の視線を背中に感じながらも、ザインの足は前を向いていた。
夜。ハルベルトに戻ったザインは、ロッテの宿の二階で健悟と向かい合っていた。
魔力灯の光が二人の顔に影を落としている。ザインの服は埃にまみれ、顔には疲労の色が濃い。しかし目だけは——鋭かった。
「謁見の許可を取りました。十日以内です」
「十日——」
「はい。ヘルマン顧問官を説得しました。決め手は——街道の軍事転用です。魔物防衛に使えるという一言で、態度が変わりました」
健悟は頷いた。予想通りだ。伯爵にとって最大の関心事は秩序の維持——そして秩序を脅かす最大の要因は魔物だ。経済の論理だけでは動かない相手も、安全保障の論理なら——耳を傾ける。
「しかし——一つ、報告があります」
ザインの声が低くなった。帳面を閉じ、膝の上に置いた。
「密偵に気づかれた可能性があります。城内での行動を——見られていました」
沈黙が部屋を満たした。魔力灯の光が揺れる。
「ザインさん。無理をさせてすみません」
「いいえ。これは——私が選んだことです」
ザインが立ち上がった。帳面を懐にしまい、扉に向かう。振り返らずに——一言だけ言った。
「十日です。提案書を完成させてください。私は——自分の仕事をします」
扉が閉まった。足音が階段を下りていく。
健悟は窓の外を見た。夜のテール川が、魔力灯の光を映している。十日。提案書を二種類完成させ、村人への説明を行い、交渉団を編成し、伯爵城まで移動する。そのすべてを——十日で。
(国交省の予算要求も——毎年、締め切りとの戦いだった。しかしあの時は——数十人のチームがいた。ここには——片手で数えられる仲間しかいない。だが——その仲間は、官僚よりも信頼できる)
魔力灯の下で、提案書の草稿に再びペンを走らせた。




