水底の基礎工事
前世の港湾工事では、水中コンクリートに「トレミー管工法」や「ケーソン工法」を使った。いずれも大型の機械と膨大な予算が必要だ。この世界には——その代わりに魔法がある。
テール川の岸辺。冬の朝日が低く差し、川面が白く光っている。健悟、フェリス、ドラガ、グリュック、トビアスが岸に並んでいた。水辺の空気は身を切るように冷たい。吐く息が白い。
トビアスが建設班の八人を率いている。昨日のうちに木の足場を川岸に組み、資材の搬入路を確保していた。改良マギクリートのブロックが荷車で運ばれ、岸辺に積み上げられている。灰色の建材が朝日を受けて鈍く光っていた。
「さて——まずは水中の基礎を確認しましょう」
健悟が川岸に膝をつき、手を水面に浸した。冬の水が指先を刺す。《万象鑑定》が起動した。青い構造線が水中に伸びていく。川底の砂利を透過し、古代の岸壁基礎に到達した。
【古代岸壁基礎:深度0.8m〜1.5m】
【基礎幅:2.4m(現状露出部0.6m)】
【強度:設計値の67%(800年経過を考慮すれば極めて良好)】
【推奨:既存基礎の上に新規岸壁を構築可能。ただし接合面の処理が必要】
「基礎は使えます。古代の花崗岩が——八百年経ってもまだ六七%の強度を保っている」
「六七%——ワシのマギクリートなら百年で百三%まで上がるぞい」ドラガが腕を組んだ。「しかし、あの時代の石工の腕は認めざるを得んのう」
グリュックが川の中を覗き込んだ。赤い顎鬚が水面に触れそうだ。
「兄弟子。碑文の解読が終わったぞい。水中施工に関する記述——あったのう」
「何と書いてあった」
「古代語で『アクア・バインド』——水と結合する配合じゃ。通常のマギクリートとは逆の発想でのう。水を排除するのではなく、水そのものを硬化反応に取り込む」
ドラガの目が見開かれた。白い顎鬚がぴくりと動いた。
「水を——取り込む? 水は硬化の敵じゃぞ。魔力石粉が水に溶けて拡散するから——」
「じゃからこそ、逆転の発想なんじゃ」グリュックが胸を張った。弟弟子の嬉しそうな顔だ。師匠を驚かせることができるのは、弟子にとって最高の喜びだろう。「碑文によると——海藻灰を混ぜるらしい。海藻灰が水中の魔力を吸着して、魔力石粉の周囲に保護膜を作る。その膜の中で——水と魔力石粉が反応するんじゃ。水を敵ではなく、反応の触媒にする」
「海藻灰——」ドラガが呟いた。目が遠くなっている。職人の頭脳が——新しい可能性を計算している。白い顎鬚を何度も撫でている。計算が終わるまでの癖だ。
「海藻灰なら——ワシの工房に乾燥海藻の在庫がある。ヴァッサーの商人から防錆用に仕入れたものじゃ。灰にするのは半日。配合比率は——碑文に書いてあるのか」
「ある。魔力石粉六に対して海藻灰二、砕石二の比率じゃ」
「六対二対二——シンプルな配合じゃな。しかし焼成温度が鍵じゃぞ。海藻灰の品質は温度で変わる」
「試してみましょう」健悟が立ち上がった。「まず小規模な試験施工をします。岸壁の端の一メートル区間で——」
「試験施工——手堅いのう。ワシは一発で本番に行きたいところじゃが」
「失敗したら材料が無駄になります。国交省では——必ず試験施工をしてから本施工に移りました」
「官僚というのは——慎重な生き物じゃのう」
「慎重さが品質を保つんです。前世では、試験施工を省略して本施工に入った現場が——崩壊事故を起こしたことがあります」
健悟の声が低くなった。国交省時代に処理した事故報告書の記憶だ。手抜き工事の代償は——人命で支払われる。
「……分かったぞい。試験施工をやるぞ」ドラガが頷いた。職人の目が真剣になっている。「海藻灰のアクア・マギクリート——面白い名前じゃな。この名前で呼ぶことにするぞい」
午後。試験施工が始まった。
ドラガの工房で半日かけて海藻灰を焼成し、新配合のアクア・マギクリートが完成した。青緑がかった灰色の建材を型枠に入れ、川岸の試験施工場所に運んだ。
フェリスが川岸に立ち、右手を水面に向けた。銀髪が風に靡いている。琥珀の瞳が集中の色を帯びた。レオンハルトが少し離れた場所から見ている。査察官の目が——魔法の発動を記録している。
「——制御開始」
フェリスの手から銀色の光が放たれた。光が水面に触れ、円形に広がっていく。直径二メートルの範囲で——水流が止まった。川の水が、目に見えない壁に遮られて左右に分かれていく。施工箇所だけが、静かな水たまりのようになった。
「これは——」トビアスが目を丸くした。「水が……分かれた」
「水流制御魔法です。学院で百年研究していたテーマの、実践応用ですが——」フェリスの額に汗が浮いている。「維持できるのは四十分が限界です。急いでください」
ドラガが配合したアクア・マギクリートを、グリュックが型枠に流し込む。通常のマギクリートよりも粘度が低い。水のように——いや、水を含んだまま流れていく。海藻灰の青緑色が、灰色の建材に不思議な色合いを与えていた。
「硬化が始まった——」
健悟が《万象鑑定》を発動した。青い構造線が型枠の中に走る。
【硬化反応:進行中】
【硬化速度:通常マギクリートの2.3倍】
【水分吸着率:87%(海藻灰膜が水分を建材内部に取り込み中)】
【推定硬化完了時間:35分】
「三十五分——フェリスさんの制御時間内に収まります」
「急いでくれると助かります」フェリスの声が——わずかに震えていた。魔力の消耗が顔に出ている。銀髪の下の額が、汗で光っている。百二十年のエルフでも——この規模の水流制御は楽ではないのだ。
トビアスが建設班を指揮し、型枠への打設を加速した。二人がかりでバケツリレーのように建材を運び、グリュックが型枠の中で均している。ドラガは次の配合を準備しながら、硬化の進行を目で追っている。
三十二分後。
「——硬化完了」
健悟が宣言した。《万象鑑定》の数値が安定している。
【アクア・マギクリート:試験体】
【圧縮強度:改良マギクリートの89%】
【水密性:良好(透水係数:0.001以下)】
【特記:水中環境での自己修復機能を確認。微細亀裂に水が浸入→海藻灰が再反応→自動補修】
「水中で自己修復する——」健悟の声が震えた。「フェリスさん、これは——」
「想定以上の結果です」フェリスが水流制御を解除した。川の水が再び流れ始める。フェリスの膝が——わずかによろめいた。健悟が肩を支えた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です。——魔力が少し、減っただけです」
淡々と言っているが、顔色が白い。銀髪が汗で額に張り付いている。それでも——琥珀の瞳には満足の色があった。
ドラガが慎重に型枠を外した。全員が息を止めて見守っている。型枠の板が一枚ずつ剥がされていく。そして——水中で硬化したアクア・マギクリートが姿を現した。
青緑がかった灰色の建材。通常のマギクリートより色が深い。海藻灰の成分が独特の色合いを与えている。表面が滑らかで、水の痕跡を感じさせない。まるで最初から——水の中にあるべきもののように見えた。ドラガが指先で表面を叩いた。硬い音が返ってきた。
「ワシの目に狂いはなかったぞい」ドラガが建材の表面を撫でた。「この子は——水を敵にせず、味方にした。素材が喜んどるわい」
グリュックが両手を叩いた。赤い顎鬚が揺れている。
「やったのう! 兄弟子、これは——古代の技術の復活じゃ!」
トビアスの建設班が歓声を上げた。岸辺に集まっていた村人たちも——何が起きたか正確には分からないまま、釣られて拍手している。ノルンが茶を配りながら「何ができたんだい」と首を傾げていた。
健悟は冷たい川の水で顔を洗った。冬の水が頬を刺す。しかし頭は冴えている。
(水中硬化——クリアした。古代の知恵と現代の技術が、また一つ融合した。あとは本施工のスケジュールを組むだけだ。しかし——フェリスさんの負担が大きい。水流制御の範囲を広げれば、魔力の消耗も増える。連続作業は——限界がある)
フェリスがロッテの差し入れた薬草茶を飲んでいた。色が戻り始めている。
「明日から——本施工に入れますか」
「二日休ませてください。魔力の回復に——」
「もちろんです。無理はしません」
「無理はしません——が、三日以上は待てません。早く実物を見たいので」
フェリスの口元に——かすかな笑みが浮かんだ。研究者の顔だ。成果を前にした学者の、抑えきれない期待。百二十年の学究生活で——初めて理論が実物になった瞬間を、フェリスは味わっている。
テール川の水が、夕陽を映して金色に輝いていた。水面の下に——古代の港が眠っている。そしてその港を、今の技術で蘇らせる手段が——今日、生まれた。
レオンハルトが岸辺を歩いていた。金色の髪が夕陽に光っている。試験施工の全過程を——黙って見ていた。報告書に何を書くのか。健悟にはまだ分からない。しかし——騎士の目に嫌悪はなかった。むしろ——技術者たちに対する静かな敬意のようなものが、一瞬だけ見えた気がした。古代の技術が蘇る瞬間を——騎士もまた、目撃していたのだ。




