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過労死した国交省官僚、異世界で《万象鑑定》を得て辺境村のインフラを直したら交易都市の王になっていた件  作者: ぽんぽこライフ


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交易同盟の条件

 国交省時代、健悟は何十回もの省庁間調整を経験していた。財務省との予算折衝、国土交通省内の部局間調整、地方自治体との協議。すべての交渉に共通するのは——「双方が完全に満足する合意は存在しない」という真理だった。


 ロッテの宿、二階の会議室。朝の光がテーブルに差し込んでいる。木のテーブルの上に、マルテの帳面が三冊と、イレーネが持参した契約書の雛形が並んでいた。テーブルを挟んでイレーネとマルテが向かい合っている。昨日の初回交渉から一夜明け、両者とも数字を整理してきたはずだ。空気が張り詰めている。宿の一階ではロッテが朝食の後片付けをしている。皿が触れ合う音が、かすかに聞こえていた。


 イレーネが口火を切った。深紅のドレスの袖口を整え、姿勢を正す。


「昨日の提案——銀貨五百枚の出資で独占使用権。あなたの対案は三割の優先枠。これでは折り合えないわ。もう少し現実的な線を——」


「現実的なのはこちらよ」マルテが帳面を開いた。数字が三列に並んでいる。「独占使用権では河港が衰退する。使用者が限られれば荷が減り、荷が減れば港の維持費が賄えない。五年後にはあなた自身が損をするわ」


「だから十年の期限をつけた。十年あれば——」


「十年は長すぎるわ。三年よ。三年で見直し」


「三年では回収できない。五年」


「四年。それが限界よ」


「四年半」


「四年。譲らないわ」


 マルテの目が座った。商人の目だ。ロッテ譲りの——引かないときは引かない顔。イレーネが一瞬だけ目を瞬いた。この若い商人の成長を——改めて認識したのだろう。


 二人の間で数字が飛び交う。使用料の基準額、荷扱い量の予測、桟橋の分割使用ルール。健悟は黙って聞いていた。しかし頭の中では——別の計算が回っている。


 (イレーネの本音は独占じゃない。「安定した取引基盤」だ。ヴァッサー商会は街道交易で成長してきた。しかし河港ができれば物流構造が変わる。変化の波に乗り遅れたくない——それがイレーネの動機だ。独占権は交渉の道具であって、目的ではない)


 健悟が口を開いた。


「提案があります」


 全員の視線が集まった。リーゼの碧い目、マルテの鋭い目、イレーネの冷静な目。ガルドは壁際で腕を組んだまま目を閉じている。寝ているわけではない——聞いている。


「独占でも固定の優先枠でもなく——段階的な優先権という第三の選択肢はどうでしょうか」


「段階的?」イレーネの眉が動いた。初めて聞く言葉ではないだろうが——この文脈で使われることに興味を示している。


「初年度はヴァッサー商会の優先使用率五割。河港が軌道に乗るまでは最大の出資者の荷を優先する。これは合理的です——出資者がいなければ港は存在しないのですから。二年目は四割。三年目は三割。段階的に一般開放していく。四年目以降は他の商会と同じ条件になりますが——ここからが重要です。出資者として使用料の一割を還元する。永続的に」


 健悟はテーブルの上に指で線を引いた。見えない図表だ。国交省時代、会議で何度もやった手法——指先でグラフを描きながら説明する。


 テーブルの上に沈黙が落ちた。


 イレーネが目を細めた。計算している。五割から始まり、毎年一割ずつ下がる。しかし四年目以降は使用料還元がつく。河港の荷扱い量が増えれば——還元額も増える。短期は優先権で利益を確保し、長期は還元で持続的に回収する。


 マルテの鉛筆が止まった。数字を追っている。三年間の優先使用量と、四年目以降の還元額。計算が——マルテの帳面の中で確認されていく。


「面白い提案ね」イレーネが腕を組んだ。「——でも、五百枚出して優先権が三年で消えるのは——」


「消えません。使用料還元は永続です。河港が稼働し続ける限り——ヴァッサー商会には収入が入り続けます。しかも運営コストはゼロ。出資の回収を確実にする仕組みです」


 健悟は前世の「PFI——民間資金活用事業」のスキームを頭に浮かべていた。公共インフラに民間が出資し、利用料の一部を還元する。日本では橋梁や空港で使われた手法だ。


 マルテが帳面に数字を走らせている。鉛筆の音がカリカリと響く。


「一割の還元——年間の荷扱い量を試算すると……初年度で銀貨三十枚。三年目で五十枚。五年後には——」


「七十枚以上になるわね」イレーネが自分の手元の紙に数字を書き、計算を終えた。「七年で元が取れる。十年目には——純利益に転じる」


「独占権よりも確実に利益が出ます。しかも——他の商会を排除しないから、港が衰退するリスクがない」


 イレーネがテーブルに肘をつき、顎に手を当てた。深紅のドレスの袖が揺れた。商人の顔だ。数字で説得された商人が——認めるかどうか、最後の判断をしている。部屋の時計の振り子が揺れる音が、沈黙の中で響いていた。マルテの鉛筆を握る手が白くなっている。


「……悪くないわ。でも——条件を一つ追加してもいいかしら」


「どうぞ」


「ヴァッサー商会がハルベルトに常駐の代理人を置く権利。交易の現場に人を置いて、荷の動きを常に把握したい」


 マルテの目が鋭くなった。常駐代理人は——事実上の監視だ。ハルベルトの交易情報がヴァッサー商会に筒抜けになる。


「それは——」


「認めましょう」健悟が言った。マルテが振り返る。


「健悟さん! それは——」


「情報は共有する方がいい。ヴァッサー商会がハルベルトの交易を把握することで——需要に合った荷を的確に送ってくれるようになります。在庫の過不足も減る。情報の非対称は非効率を生む。対称にすれば——お互いの利益になります」


 (前世の経済学では『情報の非対称性』が市場の失敗を引き起こすと教わった。商人の世界でも同じだ。互いが何を持ち、何を求めているか——知っている方が取引は円滑になる)


 マルテが口を開きかけ——閉じた。帳面の数字を見直している。そして——小さく頷いた。


「……確かに。情報を隠しても——イレーネなら他の手段で調べるわよね」


「当然」イレーネが微笑んだ。「だから最初から開示してくれた方が——お互い楽でしょう?」


 マルテが唇を噛んだ。しかし反論はしなかった。商人として——合理性を認めている。


「では——」リーゼが前に出た。村長の声だ。「条件を整理しましょう。出資銀貨五百枚。優先使用権は五割から段階的に低減。使用料還元一割は永続。常駐代理人を認める。期間は——」


「見直しは三年ごと」健悟が補った。「双方が合意すれば条件変更可能。合意に至らない場合は現行条件を継続」


 イレーネが立ち上がった。手を差し出した。


「仮合意——で良いかしら。本契約は河港の着工後に。書面にしましょう」


 マルテが一瞬ためらった。イレーネの手を見ている。三年前、同じ手に握られて——不利な塩の契約を結んだ。今日は違う。今日は対等だ。


 マルテが手を握った。二人の商人の握手は——力強かった。互いの手のひらに、帳面のインクが移った。


「仮合意よ。本契約の条件は帳面に全部書くから——一文字も変えさせないわ」


「望むところよ。——あなた、三年で随分成長したわね」


「あなたに鍛えられたって——何度も言ったでしょう」


 二人が笑った。火花が散る笑いだった。しかしその奥に——互いを認める光があった。


 リーゼがほっと息を吐いた。亜麻色の髪をかき上げ、天井を仰いだ。


「交渉って——疲れるね」リーゼが肩を回した。「ガルドさんの方が楽かも。剣で解決する方が——」


「俺は交渉に剣は使わん」ガルドが壁際から低い声を出した。目を開けている。「だが——腹は減った」


 階下からロッテの声が聞こえた。「お昼よー!」


 タイミングが完璧だった。交渉の張り詰めた空気が——ロッテの声で一瞬にして解けた。全員が笑った。イレーネまでが——声を出して笑った。商人の仮面の下の、素の笑顔だった。


 しかし健悟は笑いながらも——一つだけ引っかかっていた。イレーネが常駐代理人を要求した本当の理由。交易情報の把握だけではない。ハルベルトの政治状況——伯爵との関係を、常に把握しておきたいのではないか。


 (イレーネは商人だ。利益のためなら——伯爵にも情報を流す可能性がある。信頼はするが、油断はしない。商人にとって最大の武器は——情報だ)


 窓の外でテール川が光っている。イレーネの船は岸に繋がれたまま——まだ帰らない。商人は利益の匂いがする場所に留まるものだ。そしてイレーネの鼻は——誰よりも利く。


 階下に降りると、ロッテが大鍋でスープを温めていた。


「交渉は上手くいったかい」


「仮合意まで行きました」


「そうかい。——あの女商人、目が鋭いね。うちの娘と良い勝負だ」


 ロッテが笑った。マルテを育てた母の目で——イレーネを評価している。認めた上で、娘の方が上だと信じている目だ。


 温かいスープの湯気が、宿の天井に立ち上っていた。交渉の疲れが——スープの温もりで溶けていく。しかし次の交渉——伯爵との交渉は、イレーネの比ではない。その準備を——今日から、始めなければならない。

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