ヴァッサーの女商人
朝の巡回中のガルドが最初に気づいた。堤防の上から東を見ると、川面の向こうに白い帆が揺れている。一隻ではない。三隻の平底船が、列をなして上流に向かってきている。先頭の船の舳先に——商会の紋章を刻んだ旗が翻っていた。
「船だ。三隻——商船だな」
ガルドが自警団に伝令を飛ばした。街道からの来訪者には慣れたが、川からの来客は初めてだ。村に緊張が走った。
健悟が堤防に駆けつけたとき、先頭の船が岸に近づいていた。平底の川船だ。吃水が浅く、テール川のような浅い河川でも航行できる設計になっている。前世の利根川の高瀬船を思い出した。船員が竿で川底を突き、浅瀬を避けながら操舵している。腕の立つ操船だ——川の流れを読み、障害物を避け、最短の水路を選んでいる。船には樽や木箱がぎっしり積まれている。荷の量は——荷馬車十台分はありそうだ。
リーゼが駆けつけた。息を切らしている。
「船——川から来たの?」
「川船です。下流のヴァッサーから遡上してきたようです」
(川船の輸送力を——目の前で見せつけられている。荷馬車一台分が銀貨五枚の運送費だとすると、この三隻で——)
先頭の船の甲板に、一人の女性が立っていた。毛皮の外套を羽織り、亜麻色の髪を高く結い上げている。三十代半ば。鋭い目。口元に——余裕の笑みを浮かべている。
「久しぶりね、マルテ」
船から渡し板を伝って岸に降り立った女性が、村の入口に立つマルテに声をかけた。靴の革が泥を踏んだが、顔色一つ変えない。
マルテの表情が——固まった。帳面を握る手に力が入っている。
「イレーネ。——まさか、川を遡上してくるとは思わなかったわ」
「街道を二日もかけて来るなんて、時間の無駄でしょう。テール川は浅いけれど——平底船なら通れるわ。実際に確かめに来たの」
イレーネ・ヴァッサー。ヴァッサーの交易商会を率いる女商人。先代から商会を引き継ぎ、五年で取扱量を三倍に拡大した切れ者。マルテとは——ライバルであり、協力者であり、油断ならない相手だ。防壁工事の人夫を派遣したのもこの女だ。恩を売る形で、ハルベルトとの関係を築いてきた。
レオンハルトが歩み寄った。金色の髪の騎士が、商人を見下ろす。
「身分と目的を聞こう」
「ヴァッサー商会会長、イレーネ・ヴァッサー。目的は——交易協定の直接交渉よ。書簡のやり取りでは埒が明かないから」
イレーネの視線がレオンハルトの紋章に止まった。辺境伯の紋章だ。
「あら。伯爵の方がお先にいらしていたのね」イレーネの声に動揺はなかった。むしろ——面白そうな光が目に宿っている。「タイミングが悪かったかしら」
「悪くないわ」マルテが前に出た。「来るなら来るで——ちゃんと交渉しましょう。今度は面と向かってね」
昼過ぎ。ロッテの宿の一階が即席の会議室になった。
テーブルの中央にイレーネが座っている。毛皮の外套を脱ぎ、深紅のドレスの上に金糸の刺繍が光っていた。商会の格を示す装いだ。田舎の宿にはおよそ似合わない。
向かいにマルテ。帳面を三冊重ね、鉛筆を二本用意し、数字の武装を完璧に整えている。横にリーゼと健悟。リーゼは不安そうだが背筋を伸ばしている——村長としての矜持だ。ガルドは壁際に立ち、腕を組んでいる。商談には口を出さないが、「何かあれば」の構えは崩さない。ロッテが茶を運んできた。
「さて——本題に入りましょう」イレーネが茶に口をつけた。「おいしい薬草茶ね。レシピを教えて」
「交渉の後でね」ロッテが笑顔で切り返した。
イレーネの目が一瞬だけ細くなった。この宿の女主人は——ただの料理人ではない。情報が集まる場所の主だ。
「では」イレーネが姿勢を正した。「ハルベルト河港の建設について、ヴァッサー商会は出資を申し出ます。条件は——」
「先に金額を聞かせて」マルテが遮った。
「銀貨五百枚。河港建設費の七割を負担する用意があるわ」
リーゼが息を呑んだ。銀貨五百枚。ハルベルトの年間歳入を超える金額だ。
「代わりに——河港の独占使用権。期間は十年。ハルベルト河港を通過する全ての荷物に対して、ヴァッサー商会が優先取扱権を持つ」
マルテの目が鋭くなった。帳面を開くまでもない。この条件の意味は——瞬時に分かっている。
「独占使用権——つまり、他の商会は河港を使えないということ?」
「使えるわよ。ヴァッサー商会の荷を優先した上で、空きがあれば——ね」
「それは事実上の独占よ。荷の繁忙期には空きなんてないでしょう」
「だから十年の期限をつけているの。建設費の七割を出すのよ——相応の見返りがなければ出資する意味がないわ」
イレーネの論理は明快だった。金を出す以上、利益を求める。商人として——当然の主張だ。
健悟は黙って聞いていた。国交省時代の経験が——この交渉の構造を読み解いている。
(イレーネの本当の目的は独占使用権じゃない。「拠点の確保」だ。ヴァッサーは街道の中継地として栄えてきた。しかし河港ができれば——物流の中心がハルベルトに移る可能性がある。イレーネは「競争相手になるなら、中に入って支配する」戦略を取っている)
マルテが帳面を広げた。数字が並んでいる。
「銀貨五百枚の出資——それは認めるわ。でも独占使用権は論外。代わりに優先使用権——全荷物の三割をヴァッサー商会の優先枠とする。残り七割は公開入札。期間は五年。再交渉条項付き」
イレーネの眉が動いた。想定外の切り返しだったのだろう。
「三割? 七割出して三割しか優先枠がないの?」
「建設費の回収後は使用料収入で運営するの。独占すれば使用料が下がって——結局あなたの損よ。多くの商会が使うほど荷が増え、優先枠の三割の実量も増える。計算してみて」
イレーネが——初めて、まじまじとマルテを見た。田舎の雑貨屋の娘だと侮っていたか。しかし目の前にいるのは——帳面を武器にする商人だ。
「なかなか——やるわね」
「あなたに鍛えられたのよ。三年前、塩の取引で散々やられたから」
二人の間に——火花が散った。しかし殺気ではない。商人同士の——敬意と競争心の交錯だ。
イレーネが腕を組んだ。深紅のドレスの袖が揺れた。
「条件は持ち帰るわ。——ただし、もう一つ確認したいことがある」
「何かしら」
「この河港計画——伯爵は知っているの?」
沈黙が落ちた。全員がレオンハルトの方を見た。金色の髪の騎士は——壁際から動かず、腕を組んだままだった。
「私は査察官だ。見て、報告する。——計画の許可については、権限の外だ」
「つまり——報告はするが、許可は出せない。許可が出る前に出資するのは——リスクが高いわね」
イレーネの目が光った。計算が回っている。出資のリスクと、機会の価値を天秤にかけている。
「だから今日は——確認に来たの。河港の技術的実現性と、政治的リスク。両方を自分の目で見ないと、判断できないわ」
健悟が口を開いた。
「明日、テール川の古代遺構を案内します。技術的な実現性は——現場を見ていただければ分かります。政治的リスクについては——事業計画書を作成中です。伯爵に正式に提出します」
「事業計画書——あなたが書くの?」
「はい。これでも——前の世界では事業計画書のプロでした」
イレーネが——初めて、健悟をまっすぐに見た。切れ者の商人の目が、異世界から来た官僚を値踏みしている。
「面白い村ね。——明日、川を見せてもらうわ」
イレーネが席を立った。ロッテが部屋に案内する。宿の最も良い部屋だ。「お客様は大事にするもんだよ」とロッテが笑った。
イレーネが去った後、マルテが深く息を吐いた。
「疲れた——あの女、やっぱり手強いわ」
「でもマルテは負けてなかったよ」リーゼが肩を叩いた。
「負けてないけど——勝ってもいないわ。独占を三割に削ったのは良いけど、出資額は向こうのペースよ。銀貨五百枚を最初に提示されたら——こっちから金額を下げるわけにはいかない。あの女、最初に大金を見せて主導権を握る手口は昔から変わらないわ」
「三年前の塩の取引と同じ手口?」
「そうよ。あの時は銀貨二百枚を提示されて——結局向こうの条件で契約したの。二度は同じ手に引っかからないわ」
健悟が頷いた。マルテの分析は正確だ。イレーネは最初から高い金額を提示することで、交渉の主導権を握ろうとしている。
(しかし——イレーネの存在は悪いことばかりじゃない。彼女が来たということは、河港の価値を認めているということだ。最大の商会が出資を申し出るほどの事業——伯爵への説得材料にもなる)
窓の外でテール川が冬の光を反射している。イレーネの船が三隻、岸に繋がれていた。白い帆が畳まれ、荷の一部がすでに荷揚げされている。船員たちが人力で樽を運び上げている。重労働だ。しかし荷馬車より遥かに多い荷が——水の上を運ばれてきた。
河港がなくても——川は既に使われ始めていた。あとは、それを効率化するインフラを作るだけだ。イレーネはそれを見抜いて来た。マルテも分かっている。二人の商人が認めた価値——それが河港の最大の推進力になる。
夕陽が川面を朱に染めていた。冬の風が窓ガラスを揺らした。交渉は始まったばかりだ。




