かつての要衝——ハルベルトの記憶
二日目の作業は順調だった。ガルドに加え、ハンスとヨルグが参加し、総勢七人。根固めの石は四十五個まで配置が完了した。あと五個で東側橋脚は安定する。
しかし健悟が気になっていたのは、橋そのものではなかった。橋脚の洗掘を引き起こした原因——水の流れが変わった理由だ。それを知るには、村の歴史を知る必要がある。
ノルンは村の最高齢者で、リーゼの祖母の友人だった人物だ。薬草茶を淹れながら、暖炉の前で昔話をするのが日課だと聞いていた。
「あんたがリーゼの拾い物かい。話は聞いてるよ」
白髪を後ろで束ねた老婆が、皺だらけの顔で笑った。椅子に深く腰掛け、乾いた薬草の匂いが漂う部屋で、ノルンは健悟に薬草茶を差し出した。苦い。しかし体の芯から温まる。
「ノルンさん。この村の歴史を教えてください。特に——橋が建設された経緯と、村が衰退した原因を」
「ずいぶん真面目な質問だね。昔話でいいなら、いくらでも話すよ」
ノルンが語り始めた。暖炉の火が揺れる。影が壁に踊る。
「三百年ほど前——ハルベルトは街道の交差点だった。南北の街道と東西の街道がここで交わっていた。テール川に橋が架かり、対岸の肥沃な農地と結ばれて、この辺りでは一番の交易拠点だったのさ」
「交差点——ハブですか」
「なんだいそれは」
「……交通の要所、ということです」
「そう。まさにそれだよ。宿屋が七軒、商店が十二軒。鍛冶屋もパン屋も仕立屋もあった。人口は三百人を超えていたらしい。今の六倍だ」
三百人。今の五十人とは比較にならない規模だ。健悟は国交省時代に読んだ、日本の宿場町の人口推移データを思い出した。街道沿いの町は、交通量に比例して人口が増減する。インフラが人を呼び、人がインフラを維持する。その循環が途切れた時——町は死ぬ。
「そんな村がなぜ——」
「百年前に、上流に新しい橋が架けられたのさ。辺境伯の命令でね。新しい橋は大きくて立派で——商人たちはそっちを通るようになった。街道のルートが変わった。ハルベルトを通る必要がなくなったんだよ」
健悟の頭に、日本の高速道路が開通した後の旧街道沿いの町が浮かんだ。国道のバイパスが開通すると、旧道沿いの商店街はシャッター通りになる。東北でも四国でも九州でも、同じ光景を見た。同じ構造だ。交通インフラの変更が、地域の命運を決める。
「新しい橋ができて、商人が来なくなった。商店が閉まり、若者が出て行き、人口が減り——今に至る」
「そう。百年かけてゆっくり衰退して——五十年前の大洪水でとどめを刺された。テール川が氾濫して対岸の畑が流された。地下水路も壊れた。復旧する余力がもうなかった。若い男は出稼ぎに行って帰ってこなかった」
ノルンの目が遠くなった。
「私の若い頃は——まだ百人はいたよ。市が立つ日もあった。橋を渡って対岸の畑に行く人の列ができてねえ。あの橋は——この村の命だった」
「今もです。橋がなくなれば——対岸に渡れません。村は本当に終わります」
「だからあんた、直してるんだろう?」
「はい」
ノルンが棚から古い筒を取り出した。革の筒だ。中から——巻物が出てきた。黄ばんだ羊皮紙に、色褪せたインクで描かれた図。
「これは——地図ですか?」
「私の祖母が残したものさ。二百年以上前のハルベルトの地図だよ」
テーブルの上に広げた。羊皮紙は乾いていたが、インクの線はまだ読める。現在の村とは全く違う姿が描かれていた。整然とした街区。石畳の通り。噴水のある市場広場。そして——旧街道が村を東西に貫き、もう一本の街道が南北に走っている。交差点にハルベルトがある。
しかし健悟が注目したのは、街区の下に描かれた線だった。
「ノルンさん。この線は何ですか。建物の下を走っている」
「水路だよ。昔は地下に水路が通っていたらしい。上水と排水を分けてね。立派なものだったと聞いているよ」
地下水路。排水系統。二百年以上前に——この村には本格的なインフラ整備の概念があった。上水道と下水道の分離は、日本では明治以降の技術だ。それと同等の概念が、この世界にも存在していた。
「ノルンさん。この水路の線、橋の近くで合流しているように見えますが——」
「ああ。テール川に排水を流していたんだろう。橋の上流側にね」
橋の上流側。健悟の頭の中で——パズルのピースが嵌まった。
(水路が詰まった→排水が溢れた→地表を流れるようになった→橋脚基礎を浸食した。これが洗掘の根本原因だ)
橋を直すだけでは足りない。水路を直さなければ——また同じことが起きる。根本原因を潰さなければ、応急処置は応急処置のままだ。
「石畳は——今も地下に埋まっている可能性がありますね」
「そうだろうね。誰も掘り返したことはないけれど」
健悟は地図を食い入るように見つめた。この地図が正しければ——現在の泥道の下に、石畳が埋まっている。水路が詰まっているだけで、構造自体は残っているかもしれない。
(インフラが死ねば地域が死ぬ。逆に言えば——インフラを生き返らせれば、地域も生き返る可能性がある)
日本の限界集落を見てきた経験が、重なった。
国交省時代、過疎地のインフラ維持について何度も議論した。「人がいないのにインフラを維持する意味があるのか」。財務省の査定官がよく言う台詞だ。健悟はいつも反論した。「インフラがなくなるから人がいなくなるんです。順番が逆です」と。
しかし——反論するだけで、何も変えられなかった。予算は削られ、橋は落ち、道は崩れ、集落は消えていった。書類の上で「廃止」のハンコを押す。それが自分の仕事だった。
ここでは——違う。
自分の手で直せる。橋を直し、水路を直し、道を直せば——この村は蘇る可能性がある。二百年前の交易拠点としての潜在力が、地下に眠っているのだ。
「ノルンさん。この地図——お借りしてもいいですか」
「いいよ。もう誰も見やしないからね。——でもあんた、橋を直すだけじゃ済まなさそうな目をしてるねえ」
「……まず橋です。橋を直して、次に水路を確認して、石畳を掘り出して——」
「一度にやろうとすると死ぬよ。前のリーゼの父さんもそうだった。あの人も——やりたいことが多すぎて身体を壊した」
ノルンの目が鋭くなった。老婆の目ではない。人を見抜く目だ。
「あんた。前の世界で——働きすぎて死んだんだろう」
息が止まった。
「……なぜ分かるんですか」
「薬師を六十年やってりゃ分かるよ。あんたの手——マメの出来方が不自然だ。力仕事をしたことがない手に、急に負荷をかけた跡。でも目の下のクマは消えている。つまり——最近まで別の種類の疲労を抱えていた。それが突然消えた。身体が若返るなんて普通じゃないからね」
薬師の観察眼は侮れなかった。
「……ここには来て三日ですが——やることが見えています。この村にはまだ希望がある。三百年前の橋が——それを証明しています」
「希望ねえ」
ノルンが薬草茶を啜った。暖炉の火が爆ぜた。
「この村には——もう何十年も希望なんてなかった。リーゼの父さんが最後の希望だった。あの人が死んでから——皆、諦めた。リーゼだけが諦めなかった。だからあの子が村長をやっている。二十歳で」
「リーゼは——強い人ですね」
「強くなるしかなかったんだよ。弱い人間が強くなるのは——辛いことさ」
ノルンがもう一杯茶を注いだ。
「期待しすぎると裏切られるよ。——でもまあ、期待しないよりはましかもしれないね。あんたがここに来たのは偶然かもしれないが——偶然が村を救うこともある」
宿に戻る道、見上げた空に星が瞬いていた。手には古地図の写し——ノルンに羊皮紙と炭筆を借りて、重要な部分だけ転写した。原本は傷むからとノルンが言ったのだ。
夜風が冷たい。しかし頭の中は熱い。水路の存在。橋脚洗掘の根本原因。石畳の地下埋設。情報が一本の線で繋がった。
橋の修繕は明日で三日目。根固めはほぼ完了し、明日は支保工の設置だ。しかし——橋は始まりに過ぎない。水路を直さなければ橋は再び劣化する。根本治療が必要だ。
宿の前でリーゼが待っていた。
「遅かったね。ノルンのところ?」
「はい。面白い地図を見せてもらいました。——リーゼ、この村の地下に水路が埋まっている可能性があります」
「水路? 地下に?」
「二百年前のものです。それが——橋を壊している原因かもしれない」
リーゼの碧い目が大きくなった。月明かりに照らされた亜麻色の髪が、夜風に揺れている。
「……橋を直して、水路も直すの?」
「はい。橋だけ直しても、原因を潰さなければまた壊れます」
「健悟って——やりたいことが次々出てくるよね」
「すみません。職業病です」
「謝らないでよ。——嬉しいんだから」
リーゼが笑った。今度は——目も笑っていた。
(まず橋。次に水路。一つずつだ。一つずつ直していく。国交省では予算の制約で一つも直せなかったインフラを——ここでは自分の手で直せる)
部屋に入り、泥だらけのブーツを脱いでベッドに横たわった。古地図の写しを枕元に置いた。
国交省の年度末に比べれば——やりがいは百倍だ。明日、橋の応急修繕が完了する。




