折り畳み定規の限界——異世界の道具を求めて
先端を紙に押し当てると、かすれた線が走った。インクが残り僅かだ。国交省時代、机の引き出しにいつも十本は入っていた油性ペン。ここでは——これが最後の一本。いや、この世界に油性ペンは存在しない。二度と手に入らないものだ。
健悟はキャップを閉じた。大切に使わなければならない。測量の目印に使うのはもうやめよう。炭筆で代用できる場面では炭筆を使い、油性ペンは——設計図の最終版だけに限定する。
ポケットから折り畳み定規を出した。金属製、十五センチ。これも前世から持ち込んだものだ。泥まみれで、目盛りの一部が読めなくなっている。蝶番が緩んで、折り畳むと微妙にずれる。精度が落ちている。
(道路局時代、レーザー測量器とCADソフトがあった。ミリ単位の精度で設計図を描けた。今は——泥まみれの定規と炭筆だ)
工事現場に出ると、朝の冷気が頬を刺した。秋が深まっている。朝露が草の上に光り、吐く息が白く霞んだ。掘削が進んだ区間は百五十メートル。旧街道の石畳がところどころ顔を出し、八百年前の路面が朝日を受けて鈍い色を見せている。
ヴァッサーからの人夫はまだ到着していない。マルテの交渉から一週間。準備に時間がかかっているのだろう。到着すればペースは上がる。しかし、それとは別の問題が——資材の壁が迫っていた。
マギクリートの製造に必要な魔法石粉が枯渇しかけている。
ドラガの工房で、健悟は代替案を模索していた。魔法石粉の配合比率を下げたサンプルを三種類作り、《万象鑑定》で強度を測定する。
【サンプルA:魔法石粉比率50%(通常の半分)】
【圧縮強度:通常配合の62%。路盤用途にはやや不足】
【サンプルB:魔法石粉比率30%】
【圧縮強度:通常配合の41%。使用不可】
【サンプルC:魔法石粉比率50%+川砂10%添加】
【圧縮強度:通常配合の78%。路盤用途に使用可能】
「川砂を入れると——強度が上がる?」
ドラガが眉を上げた。顎鬚を引っ張りながらサンプルCを持ち上げ、表面を指で弾いた。澄んだ音が返ってくる。
「おお……こりゃあ……。砂を混ぜただけで、これか。——なぜじゃ」
「テール川の砂には、微量の魔力が含まれているんです。上流の鉱脈から流れ出した鉱物が砕かれて——砂粒に魔力が染み込んでいる。《万象鑑定》で見ると、川砂一粒一粒が微かに光っています」
「魔力含有砂か。——ワシの二百年で、そんな素材は聞いたことがないぞい」
「自然に分散した魔力は微弱すぎて、通常は気づかれません。しかしマギクリートに混ぜると、魔法石粉と共鳴して——効果が増幅されるようです」
ドラガの目が輝いた。新しい素材を発見した時の、職人の顔だ。
「つまり——川砂を採って混ぜれば、魔法石粉の使用量を半分にできるということか」
「はい。テール川の砂は——上流から無限に供給されますから、枯渇の心配もありません」
「素材が泣いとったのは——こういうことじゃったか。川底に宝が眠っておったんじゃな」
ドラガが小さく笑った。革のエプロンの紐を締め直す。やる気が戻った顔だ。
「ワシはこの川を毎日見ておった。水を汲み、顔を洗い、鍛冶の冷却水にも使っておった。その砂に——こんな力があったとは。二百年生きても、知らんことはあるのう」
「僕も同じです。前世で河川の管理をしていたのに——川底の砂に魔力があるとは思いませんでした」
「お主と出会わなければ——ワシは一生気づかんかったぞい。鑑定の目というのは、つくづく厄介な才能じゃな」
「厄介ですか」
「褒めとるんじゃ。ワシの国では、最高の褒め言葉は『厄介な奴じゃ』と言うのだぞい」
「……本当ですか」
「半分は冗談じゃ」
ドラガが歯を見せて笑った。白い顎鬚が揺れている。この老ドワーフの冗談は——いつも半分だけ本気だ。
午後、健悟はテール川の上流に向かった。
ガルドが護衛についてきた。岩狼の掃討以来、川沿いは比較的安全だが、一人で上流に向かうのは危険だとガルドが譲らなかった。「死んだら工事が止まる。護衛は保険だ」。合理的な理由をつけてくれるのが——この男の優しさだ。
川辺に屈み、手で砂を掬う。冷たい。指の間から水が滴り落ちる。砂粒が光を受けて、微かにきらめいている。《万象鑑定》をかけると、砂の中に青い点が無数に浮かび上がった。
【河床砂分析:魔力含有率0.3%(通常河砂の15倍)】
【主成分:石英65%、長石20%、魔力鉱物微片15%】
【採取可能量:推定200トン以上(河床全域)】
【品質評価:マギクリート添加材として優秀】
「二百トン——」
声が出た。魔法石粉の在庫が残り二十日分で悩んでいたのが——嘘のような数字だ。川底に、街道を何本も舗装できるだけの資源が眠っている。
(国交省時代、骨材の確保に苦労した案件がいくつもあった。河川から砂利を採取するには許可が必要で、環境影響評価を出して——ここでは、川は川だ。許可を出す役所はない。いや——リーゼに許可を取ればいいのか。村長が行政だ)
川辺の石に腰を下ろした。ワイシャツの袖をまくり上げると——ボタンがなかった。三つ目のボタンが、いつの間にか取れていた。残ったボタンは四つ。前世から持ってきたワイシャツの、ボタンが一つずつ減っていく。糸が劣化しているのだ。この世界の洗い方——川の水と石鹸草で手洗い——に、工業製品の縫製は耐えられない。
健悟は取れたボタンの跡を見つめた。小さな穴が二つ、布に残っている。
(この世界に、ボタンを付け直す糸はある。しかし——同じボタンはない。プラスチックのボタンは、この世界に存在しない素材だ。いずれ全部取れるだろう。その時は——この世界のボタンをつける。骨か、木か、金属の留め具か)
ワイシャツは——もう日本のワイシャツではなくなりつつある。泥で染まり、袖口が擦り切れ、ボタンが取れて——異世界の服に変わっていく。健悟自身が、少しずつこの世界に染まっていくように。
それは——喪失感ではなかった。変化だ。適応だ。しかし——どこかで、小さなものを手放している感覚がある。
(油性ペンがなくなったら、炭筆で描く。定規が壊れたら——この世界の道具を使う。前世の道具に頼れなくなる日は近い。その時、僕は——まだ設計ができるだろうか)
ガルドが少し離れた場所で、川面を見ていた。何も言わない。しかし——健悟がワイシャツのボタンの跡を見つめていたのを、気づいているかもしれない。
考えを振り払うように立ち上がった。川砂のサンプルを革袋に詰め、工事現場に戻る。
帰り道、ガルドが言った。
「ドラガに頼めば、留め具くらい作ってくれるだろう」
「——何のことですか」
「服の留め具だ。取れてるだろう、三つ目が」
やはり気づいていた。健悟は苦笑した。
「ありがとうございます。——頼んでみます」
「この世界のものを使え。いつまでも前の世界の道具にしがみついていても仕方がない」
ガルドの声に、説教めいた響きはなかった。ただの事実。冒険者として、何度も装備を更新してきた男の、実感のこもった言葉だった。
現場の入り口で——見覚えのある人影が立っていた。
中背の男だ。旅装束に身を包んでいる。外套の下に軽い革鎧を着ている。腰に短剣。背中に筒状の革ケース。目が——鋭い。しかし敵意のある鋭さではない。観察者の目だ。何かを記録するために見ている目。
ガルドがその男の前に立っていた。腕を組み、相手を見下ろしている。身長差が頭一つ分ある。
「名前は」
「ザイン・ヴァルトと申します。辺境伯ヴェルナー閣下の命により、改めて参りました」
健悟の足が止まった。
ザイン。辺境伯の文官。橋の修繕の後に一度来た男だ。「また参ります」と言い残して去った、あの男が——戻ってきた。
ザインの目が健悟を捉えた。会釈する。丁寧な所作だ。文官らしい礼儀正しさ。しかしその目は——工事現場を、掘削された路盤を、積まれた資材を、トビアスたちが動かしている土砂の量を、隅々まで見ていた。観察し、記憶し、後で報告書にまとめるための目だ。
(その目は——知っている。視察に来る上級庁の職員が、まさにこういう目をしていた)
「お久しぶりです、鑑定士殿。——随分と、大きなことをなさっているようですね」
革ケースの中から、巻かれた書簡が覗いていた。封蝋に——辺境伯の紋章が押されている。
ガルドが健悟の横に並んだ。腕を組んだまま、ザインを見据えている。敵意はない。しかし警戒がある。前回の訪問で「悪い奴ではない」と判断しつつも、辺境伯の使者であることへの緊張感は消えていない。
秋の風が、工事現場を吹き抜けた。掘り返された泥の匂いと、マギクリートの石灰の匂い。健悟は川砂の入った革袋を肩に背負ったまま、ザインの前に立った。
「お待ちしていたわけではありませんが——来ると思っていました」
ザインが薄く笑った。微かに——好意的な笑みだった。しかしその懐の書簡が何を含んでいるかは——まだ、わからない。




