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過労死した国交省官僚、異世界で《万象鑑定》を得て辺境村のインフラを直したら交易都市の王になっていた件  作者: ぽんぽこライフ


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商人の嗅覚——マルテ、隣町へ

 未完成の街道を歩く。掘削が済んだ区間は古代の石畳が露出していて歩きやすいが、まだ手つかずの区間は獣道同然だ。倒木を跨ぎ、泥濘を避け、草を掻き分けて進む。革の靴底に泥がこびりつく。商人の足ではない。しかしマルテは歩いた。


 背負い袋にはマギクリートのサンプル片が三つ。帳面が二冊。それから、健悟が描いた街道の完成予想図の写しが一枚。これが今日の武器だ。


 (利益が出るなら乗る。損するなら降りる。シンプルな話よ——でも、今回ばかりは、利益の形が見えにくい)


 イレーネの伝書が届いてから三日。健悟と相談した結果、マルテが先遣隊としてヴァッサーに向かうことになった。交渉は商人の仕事だ。健悟は現場を離れられない。リーゼは村長として村に残る必要がある。消去法でもあったが——マルテ自身、この仕事をやりたかった。


 堤防の上で焚き火を囲んだ夜。あの時マルテが語った「交易再開」が、今まさに最初の形を取ろうとしている。


 道中、何度か立ち止まった。健悟が測量時に打った目印の杭が、等間隔で並んでいる。赤い布を巻いた杭が「掘削済み」、白い布が「未着手」。赤が途切れ、白ばかりが続く区間に入ると——道と呼べるものが消えた。雑草が腰の高さまで伸び、蔦が絡み合っている。八百年前の石畳は、この緑の下に沈んでいる。


 (これを道に戻すのに六十日。人手が足りなければ百五十日——途方もないわね)


 しかし、マルテの足は止まらなかった。帳面を握りしめ、ぬかるみに革靴を突っ込みながら、前を向いて歩いた。


 ヴァッサーの港町が見えたのは、昼過ぎだった。


 テール川の下流に位置する町だ。川幅が広がり、水深が増す地点に小さな河港がある。木造の桟橋が三本。荷揚げ場にはい草の俵が積み上がっている。人口はハルベルトの十倍——五百人ほどだろうか。商家が軒を連ね、市場の喧騒が通りまで溢れ出している。


 マルテは市場を横目に見ながら、大通りを歩いた。干し魚の匂い。香辛料の匂い。焼き立てのパンの匂い。ハルベルトにはない匂いだ。村の食事は質素で、ロッテの料理が最上級だ。ここには——外の世界の豊かさがある。


 (この規模の町なら、建設資材の需要はある。マギクリートの強度を見せれば——食いつくはず。でも——それだけじゃない。この豊かさをハルベルトに引き込むことが、街道復旧の本当の意味よ)


 ヴァッサー商会の建物は、市場の裏手にあった。石造りの二階建て。窓枠に鉄の格子がはまっている。商家にしては堅牢な造りだ。金庫のような建物——それがマルテの第一印象だった。


 イレーネ・ファルケンベルクは、思っていたより若かった。


 三十代半ば。黒髪を短く切り揃え、細身の体に仕立ての良い上着を着ている。机の上には帳簿が五冊、封書の束が二つ。壁に掛かった地図には、交易路が色分けで描かれている。目が——鋭い。値踏みするような視線が、マルテの全身を一瞬で走査した。


「ベッカー商家の娘さんね。噂は聞いているわ。——小さな村で、随分と面白いことをしているそうじゃない」


「噂?」


「マギクリートという新建材。堤防を作って洪水を防いだ。今度は旧街道の復旧に着手した——隣町の商人から聞いたの。わたしの耳は広いのよ」


 イレーネが椅子の背にもたれた。指先で机を軽く叩いている。商人が考えている時の癖だろう。マルテにも似たような癖がある。そろばんを弾く代わりに、指先でリズムを刻む。


「で——提案というのは?」


「単刀直入ね。好きよ、そういうの」


 イレーネが身を乗り出した。


「ハルベルトの街道復旧——工事中の今だからこそ、先行投資する価値があると思っているの。完成してから手を挙げたのでは遅い。完成前に投資した者が、完成後の利益を得る。これが商売の鉄則よ」


「先行投資の中身は?」


「建設資材と人夫の貸し出し。ヴァッサーには木材と石材の在庫がある。人夫も——港の荷揚げ人が冬場は暇を持て余しているわ。それをハルベルトに回す」


 マルテの心臓が跳ねた。資材と人手。今の村に最も足りないものだ。健悟のガントチャートの、予定線と実績線の隙間を埋められる。


「その見返りは?」


「街道が開通した後の通行料免除。それと——ヴァッサー商会がハルベルトとの取引で優先権を持つこと。具体的には、マギクリートの優先仕入れ権」


 マルテは帳面を開いた。指が走る。資材費と人夫の日当を概算し、通行料免除の期間と優先取引権の経済的価値を天秤にかける。


 (資材と人夫——銀貨二百枚相当。通行料免除が五年間で——銀貨百五十枚の逸失利益。マギクリートの優先仕入れ権の価値は市場次第だけど——)


「通行料免除は何年間を想定しているの?」


「十年」


「十年は長いわ。五年なら——検討できる」


「七年」


「五年。それ以上は飲めないわ」


 イレーネの目が細くなった。唇の端が微かに上がっている。値切られることを楽しんでいる目だ。


「優先取引権の範囲は? 全商品?」


「マギクリートと建設技術の指導に限定。それ以外は他の商人にも開放するわ。——独占はさせない。あたしの村を、一つの商会に握られるつもりはないもの」


「あなたの村?」


「そうよ。あたしが生まれ育った村。利益が出るなら乗るわよ。でも——村を売るつもりはないわ」


 マルテの声に力が入った。商人としての計算と、村の人間としての矜持。その二つが、今この瞬間、一つになっている。


 イレーネが沈黙した。指先が机を叩く音が止まった。


「面白い子ね」


「子じゃないわ。商人よ」


「——そうね。商人ね。いいわ、五年で手を打ちましょう。ただし、条件を一つ追加させて」


「何?」


「街道の工事を、わたしの目で確かめさせてもらいたいの。視察よ。マギクリートの品質を——この目で見たい」


「それは——構わないわ。見れば、わかるもの」


 マルテはマギクリートのサンプル片を机の上に置いた。灰色の塊。表面は滑らかで、角を叩いても欠けない。イレーネがそれを手に取り、重さを確かめ、爪で引っ掻いた。


「硬いわね。——石より?」


「通常の石積みの三倍の強度があるわ。自由な形に成形できるし、水にも強い。これで作った堤防が——雨季の大洪水を止めたの」


「三倍——」イレーネがサンプル片を光にかざした。灰色の表面に、魔法石粉の微かな輝きが散っている。「配合は?」


「企業秘密よ。見せるのは完成品だけ」


「抜け目ないわね」


「商人ですもの」


 イレーネの目が変わった。商人が利益の匂いを嗅いだ時の目だ。マルテには見覚えがある。鏡を見なくても——自分も同じ目をしているとわかる。


 交渉は二時間で決着した。


 通行料免除五年。マギクリートの優先仕入れ権。建設資材と人夫十名の派遣。細かい条件は書面にまとめ、村長リーゼの署名を経て正式合意とする。マルテは帳面に条件を書き込みながら、頭の中でガントチャートの線を引き直していた。人夫十名が加われば——掘削のペースは倍になる。工期は六十日に戻る。いや、もっと短縮できるかもしれない。


「マルテ。一つ忠告しておくわ」


 イレーネが玄関まで見送りに出た。港町の午後の風が、二人の髪を揺らしている。桟橋の方から、荷揚げ人の掛け声が遠く聞こえる。


「あなたたちの動きは——もうヴァッサーだけじゃなくて、もっと上にも届いているわ。辺境伯の耳にも入っているはずよ。街道の復旧は——ただの土木工事じゃない。人と物が動くルートを変える行為よ。それが何を意味するか——わかっているでしょうね」


「わかっているわ」


「なら、いいわ。——楽しみにしているわよ」


 帰路は遠かった。


 未完成の街道を戻る。日が傾き、影が長くなっていく。草むらの中を歩いていると、足元にふと目が止まった。


 蹄跡だ。


 馬のものではない。形が違う。大きさも——馬より一回り小さく、蹄の形が歪んでいる。二つの蹄跡が並んで、街道の方向に向かっている。新しい痕跡だ。昨日か今日のもの。


 マルテは商人だ。戦闘の心得はない。しかし——この蹄跡が普通ではないことくらいはわかる。


 (ガルドに報告しないと)


 歩く速度を上げた。革靴の泥が重い。背後の草むらが——風で揺れた。風か、それとも——。


 振り返った。何もいない。ただの風だ。しかし心臓が早鳴りしている。


 マルテは走り出した。帳面を胸に抱え、サンプル片の重みを背中に感じながら。商人の足は遅い。しかし今は——走るしかない。


 ハルベルトの灯りが見えた時、マルテは息を切らしていた。村の入り口でガルドが立っていた。腕を組み、こちらを見ている。


「遅かったな。——走ってきたのか」


「蹄跡があったの。街道の途中に——馬じゃない、何か別のものの」


 ガルドの表情が変わった。目が鋭くなる。冒険者の顔だ。


「どのあたりだ」


「村から二キロメートルほど。白い杭が並んでいる区間の手前よ」


「わかった。明日、確認に行く。——一人で歩くな、次からは」


 マルテは頷いた。交渉の成果を報告するのは明日でいい。今は——ただ、安全な場所に帰ってきた安堵感で膝が震えていた。


 未完成の街道は——安全ではない。道が繋がるということは、人だけでなく危険も通るということだ。商人として計算に入れていなかった変数が——帳面の外で動き始めていた。

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