鶴嘴と汗——街道工事、始まる
旧街道の起点——村の東端から、テール川沿いに伸びる道の跡。古代の石畳が泥と落ち葉の下に眠っている区間と、完全に崩落して地形すら変わっている区間が入り混じっている。五日前の測量で全体像は掴んだ。問題は、その全体像があまりにも大きいことだった。
健悟は板を立てかけ、そこに炭筆で描いた図を広げた。縦軸に日数、横軸に工程。掘削、路盤整備、マギクリート舗装、排水溝設置、法面保護——五つの工程が並行して進む線表だ。
国交省時代、道路局で毎週のように眺めた工程管理表。あの頃はExcelで作っていた。今は板と炭筆だ。しかし本質は同じだ。どの作業がどの作業に依存し、どこがクリティカルパスになるか。
「健悟、それは何の呪文?」
リーゼが隣に立っていた。亜麻色の髪を束ね直しながら、板の図を覗き込んでいる。碧い目が横線の群れを追っている。
「工程管理表です。ガントチャートと言って——」
「がんと?」
「工事の予定表です。どの班が、いつ、何をするか。全部この一枚でわかるようにしたものです」
「ふうん。——文字が小さすぎて読めないんだけど」
「すみません。板が小さいので」
リーゼが目を細めて板を睨んだ。指先で横線をなぞっている。
「ここの赤い線は?」
「掘削工程です。これが終わらないと次の舗装に進めない。だから一番上に——」
「この線と線の間の隙間は?」
「余裕日数です。予定通りにいかない場合の緩衝期間ですね」
「つまり、うまくいかない前提で作ってるの?」
「工事は必ず遅れます。問題は——どれだけ遅れを想定して、どう吸収するかです」
リーゼが「ふうん」と唸った。腕を組んで、しばらく板を見つめている。理解したかどうかは怪しいが、考えようとしている。この村長の美点は、わからないことを放置しない姿勢だ。
(国交省では十三枚のシートに分かれたExcelファイルだった。あれはあれで読みにくかったが、少なくとも上司は線の意味を知っていた。ここでは——説明から始めなければならない)
朝の打ち合わせが始まった。
集まったのは十二人。掘削班のリーダーにトビアスを据えた。力仕事の経験と、堤防工事で培った指揮力がある。マギクリート製造班はドラガが率いる。鍛冶場で配合を管理しながら、現場への供給を指示する。警護班にはガルドと自警団の三人を充てた。旧街道沿いには岩狼の痕跡がまだ残っている。作業中の安全確保は——命に関わる。
「トビアスさん。掘削は古代の路盤を傷つけないように。八百年前の石畳は、状態が良ければそのまま基礎に使えます」
「了解です。健悟さんが印をつけた区間は、手掘りでやります」
「ガルドさん。警護班は二交代で——」
「わかっている。昼と夜で分ける。岩狼は夜行性だが、工事の音で昼間も出てくるかもしれん。油断するな——と自警団には伝えてある」
ガルドの声は落ち着いていた。冒険者時代の経験が、こういう場面で光る。野外作業の危険を、肌で知っている男だ。
「ドラガさん。マギクリートの生産ペースは——」
「一日に練れる量は限りがあるぞい。魔法石粉の在庫で計算すると、舗装に使える分は一日あたり十五メートル分じゃ。それ以上は——石粉が足りん」
「十五メートル。全区間が三キロメートルですから——」
「単純計算で二百日じゃな。ワシの寿命のうちには終わるが、人間の忍耐力が持つかのう」
村人たちの間に、低いどよめきが広がった。二百日。半年以上だ。
健悟はガントチャートを指した。
「全区間をマギクリートで舗装する必要はありません。古代の路盤が健全な区間はそのまま活用する。補修が必要な区間だけにマギクリートを使います。それで舗装面積を四割に圧縮できる」
「四割——八十日か」ドラガが顎鬚を撫でた。「まだ長いが、まあ現実的じゃな」
「さらに掘削と舗装を並行して進めれば、全体の工期は六十日に短縮できます」
板の上の線が、それを示している。掘削班が前方を切り開き、その後を製造班が追いかける。警護班が両方をカバーする。三つの班が連携して進む、移動式の工事現場だ。
(道路局時代、供用中の道路を片側交互通行にしながら補修工事を進める——あのイメージだ。ただし交通整理員の代わりに、岩狼を警戒する剣士がいる)
しかし、人手が足りなかった。
掘削班に最低六人は欲しい。製造班に三人。警護班に四人。それだけで十三人だ。村の総人口は五十人。子供と老人を除けば、働き手は三十人ほど。しかし畑仕事を止めるわけにはいかない。秋の収穫が近い。
「農作業と工事を両立するには——交代制にするしかありません。午前は畑、午後は工事。あるいは日替わりで」
「それじゃ工期が倍になるじゃない」マルテが帳面を捲りながら言った。
「そうです。六十日が百二十日に——」
「四ヶ月。冬に入るわ。冬の工事は効率が落ちる。資材費も嵩む」
マルテの計算は速い。商人の頭が、数字を即座にコストに変換していく。
「人手を外から——」
「それも考えましたが、今の村の財政では——」
沈黙が落ちた。金がない。人がいない。国交省時代なら予算要求書を書いて、財務省と折衝して、ゼネコンに発注すれば済んだ話だ。面倒ではあったが、仕組みがあった。ここでは——仕組みそのものを自分たちで作らなければならない。
リーゼが腕を組んで考え込んでいる。碧い目が、ガントチャートの線を追っている。
「方法はある——はずだよね。健悟なら、何か考えてるでしょ」
「考えています。ただ、まだ——具体的な形になっていません」
「じゃあ、動きながら考えよう。止まってたら何も始まらない」
その言葉に——健悟は少し救われた。
工事が始まった。
午後、トビアスの掘削班が旧街道の最初の区間に取り掛かった。五十年分の堆積物を剥がしていく。鶴嘴が泥を砕き、シャベルが土を掻き出す。汗が飛ぶ。秋の日差しは柔らかいが、掘削作業は重労働だ。
トビアスが鶴嘴を振り下ろすたびに、鈍い音が響く。泥の下から石畳が顔を出す。健悟が鑑定をかけると、青い構造線が石の輪郭を浮かび上がらせた。
【路盤構造:古代石畳(推定800年前)】
【表層:風化度中。上面5mmが劣化、下層は健全】
【基礎層:砕石+粘土の複合基礎。排水勾配あり】
【評価:表層研磨のみで再利用可能】
「この区間は使えます。表面を削るだけで大丈夫です」
「助かるなあ、健悟さん。掘るのと削るのじゃ、手間が全然違いますから」
トビアスが額の汗を拭いた。泥で汚れた顔に、白い歯が光る。
その隣で、若い農夫のカールが鶴嘴を持て余していた。柄の握り方が浅い。振り下ろすたびに泥が顔に跳ね返っている。
「カール、もっと腰を落として。鶴嘴の重みで掘るんだ。腕の力じゃなくて」
トビアスが手本を見せた。堤防工事で覚えた要領だ。カールが真似をすると、今度は泥が綺麗に飛んだ。
「おお——全然違う」
「コツがわかれば早いだろ。健悟さんに教わったんだよ、俺も最初はへたくそだった」
掘削班の連携が、少しずつ噛み合い始めている。一人ひとりの作業は遅い。しかし——呼吸が揃い始めると、全体の速度が上がる。組織が機能し始める瞬間だ。
日が傾く頃、健悟はロッテの宿に戻った。
食堂のテーブルに図面を広げ、今日の進捗を記録する。掘削は四十メートル。予定の六割だ。人手不足が響いている。このペースでは百二十日どころか、百五十日かかるかもしれない。
ロッテが温かいスープを置いてくれた。
「あの子たち——工事に出てる若い子たちね。初めて村の外のことで笑ったのよ」
「笑った?」
「街道が通ったら何が変わるか、って話をしてたの。隣町の市場に行ける、見たことない食べ物が来る、旅人の話が聞ける——って。ずっとこの村しか知らなかった子たちが、初めて外の世界に目を向けてた」
ロッテの声は穏やかだった。しかしその目に——光るものがあった。宿屋の女将として、この村の閉塞感を誰よりも感じてきた人だ。旅人が来ない宿。外の世界と繋がらない村。それが変わり始めている。
(道路は人を繋ぐ。国交省のパンフレットに書いてあった陳腐な文句だ。しかし——ここでは、それが実感として響く)
深夜。図面を見直していると、窓の外で鳥の羽ばたきが聞こえた。
健悟が窓を開けると、小さな鳥が止まり木に留まっていた。脚に筒が括りつけてある。伝書鳥だ。
筒の中から、巻かれた紙片を取り出した。封蝋にヴァッサー商会の紋章が押されている。差出人は——イレーネ。マルテが何度か名前を出していた、隣町の商会長だ。
文面は短かった。
「ハルベルト村の街道復旧計画について、直接お話がしたい。双方にとって利益のある提案がある。——ヴァッサー商会、イレーネ・ファルケンベルク」
健悟は紙片をテーブルに置いた。隣町の商会長が、わざわざ伝書鳥を飛ばしてくる。街道復旧の噂は——もう外に漏れている。マルテの行商が種を蒔いたのか、あるいはザインの報告が巡り巡ったのか。
(外の世界が——動き始めた。こちらの準備が整う前に)
窓の外で、虫の声が夜に溶けている。工事初日が終わった。まだ四十メートル。三キロメートルの道のりは、果てしなく遠い。しかし——最初の一歩は踏み出した。
炭筆でガントチャートに今日の実績を書き込んだ。予定線の下に、実績線を引く。二本の線の隙間が——解決すべき課題の大きさを示していた。




