総力戦——村人五十人の堤防工事
テール川の東岸。堤防予定地の最初の一メートルを、リーゼが掘った。宣言通りだ。村長が最初に泥まみれになる。亜麻色の髪を高く束ね、袖を捲り上げ、鍬を振り下ろす。力任せではない。しかし——覚悟のこもった一撃だった。
土が裂けた。湿った黒土が鍬の先にへばりつく。リーゼが鍬を引き抜き、土を脇に投げる。二撃目。三撃目。
「村長、もういいんじゃないですか。交代——」
「まだ。もう少し」
四撃目で、リーゼの額に汗が浮いた。五撃目で、息が上がった。しかし手は止めない。村人たちが——遠巻きに見ている。工事初日の朝、村長が自ら鍬を振るう姿を。
トビアスが駆け寄った。
「村長、ここからは俺たちがやります。——班分けの指示をお願いします」
リーゼが鍬を立てた。泥のついた手で額の汗を拭う。泥が額に筋を作った。
「うん。——じゃあ、頼んだよ」
トビアスが鍬を受け取り、声を張り上げた。
「掘削班、集合! 第一区画から始めるぞ!」
農夫の集まりだった若者たちが——建設班に変わった瞬間だった。
その日の朝の空気を、健悟は忘れないだろう。五十人の村人が堤防予定地に集まっていた。老人から子供まで。鍬を持つ者、荷車を引く者、水桶を運ぶ者。それぞれができることをするために来ていた。ノルンは帳面と筆を持って、日陰の切り株に腰を下ろしていた。「記録係は座って仕事するもんさ」と笑った。ロッテは大鍋を荷車に載せて来ていた。「腹が減っては戦はできないからね」——正論だ。
工事は三班体制で進んだ。健悟が立てた工程表に従い、朝から日暮れまで作業が続く。
第一班:掘削。トビアスが率いる十五人。堤防の基礎を地下一・二メートルまで掘り下げる。鍬と鶴嘴と手押し車。重機がない分、人の数で補う。土を掘り、運び、積む。単純だが過酷な作業だ。トビアスは休憩の取り方を覚えた。「十人ずつ交代で休め。全員が倒れたら工事が止まる」——健悟の助言を忠実に実行している。
第二班:資材運搬と砕石加工。ガルドが指揮する十人。川沿いの砕石を集め、ドラガが指定したサイズに割る。ガルドの力仕事は圧倒的だった。冒険者時代に鍛えた体は——鍬よりも石割り用の大鉈に向いている。一振りで拳大の石を正確に二つに割る。
「きっちり半分に割れるもんだな——」
「冒険者の頃は、魔物の角を割って素材にしてた。石くらい朝飯前だ」
隣で割った石を計量しているマルテが「それ規格外よ、もう少し小さく」と注文をつける。ガルドが「うるさい」と渋い顔をする。しかし次の一振りは——ちゃんとマルテの指定サイズに収まっていた。
第三班:マギクリート製造。ドラガが仕切る。五人が粘土を砕き、砂利と混ぜ、水を加えて練る。ドラガが魔法石粉を量り入れ、配合を管理する。型枠に流し込み、並べて養生させる。鍛冶場の周辺が——マギクリートの工場に変わった。
「粘土をもっと細かく砕け! ダマが残っておるぞ! 素材が泣いとるわい!」
ドラガの怒声が森に響く。職人の厳しさに村人たちが萎縮する。しかしドラガの指示通りに作ったブロックは——確実に硬く、確実に強い。品質に妥協がないのは、二百年の職人の矜持だ。
健悟は三班の間を巡回した。現場監督だ。国交省時代は現場監督を「下請け管理」と呼んでいたが、ここでは自分が下請けであり、元請けであり、設計者であり、監督である。全部一人だ。贅沢な話だ——と思うのは、たぶん感覚が麻痺しているからだ。
掘削の深さを鑑定で測り、マギクリートの養生状態を確認し、砕石のサイズが規格に合っているか検査する。
堤防予定地の地盤に手を当てた。
【地質:河岸段丘(東岸)】
【表層:腐葉土0.25m】
【第二層:砂質土0.6m(締め固め必要)】
【第三層:粘土質土(良好な支持層)】
【掘削深度推奨:1.2m(粘土層に到達)】
「掘削が粘土層に達すれば、そこが基礎の底です。粘土層は水を通さないので——堤防を支える地盤として最適です」
「あと四十センチくらいですね」トビアスが汗を拭きながら報告した。
「いいペースです。ただし——この先は粘土なので、鍬が効きにくくなります」
「了解です。鶴嘴に切り替えましょう」
トビアスの判断が速い。農夫から建設班リーダーへの成長が、日に日に目に見えてくる。力任せに掘るだけではなく、道具を選び、人を配置し、進捗を管理する。疲労の色が見えた村人には「休め」と言い、手持ち無沙汰な者には即座に仕事を振る。その目つきが——もう農夫のそれではなかった。
子供たちも手伝った。掘り出した小石を集めてドラガのところに運ぶ仕事だ。ミーナが先頭に立って、籠いっぱいの小石を運んでいる。「鑑定士さん、この石は使える?」と聞いてくる。健悟が手を当てて「使えます」と言うと——嬉しそうに走っていく。村の全員が、何かの形で参加している。
昼休み。木陰で弁当を食べる。ロッテとノルンが作った握り飯と漬物。簡素だが——体を使った後の飯は旨い。
「ノルンさんの漬物が最高です」
「お世辞はいいよ。——で、進み具合はどうなんだい」
「基礎掘削は予定の八パーセント。マギクリートの製造は一日四十個ペース。計画では五十個必要なので——少し遅れています」
「四十個じゃ足りんのか」ドラガが握り飯を三個目に手を伸ばしながら言った。
「養生時間を短縮できれば追いつきますが——品質を落とすわけにはいきません」
「当然じゃ。品質を落とすくらいなら——人を増やせ」
「人は増やせません。五十人で全員です」
ドラガが唸った。マルテが帳面を見ながら口を挟んだ。
「ねえ健悟。型枠の数を増やしたらどうなの。今は五つしかないけど——十個あれば、一日に練れる回数が倍になるでしょ」
「……その通りです。型枠がボトルネックになっている」
「じゃあ作ればいいじゃない。トビアス、型枠をあと五つ——」
「了解です! 明日の朝までに!」
トビアスが即答した。マルテの指摘は的確だった。生産工程のボトルネックを見抜く目は——商人ならではだ。
(国交省の生産管理課にマルテがいたら、日本のインフラ整備は三割速くなったかもしれない)
午後の作業が再開された。日差しが強くなる。汗が噴き出す。掘削班の作業は、粘土層に入って鈍くなった。鶴嘴が粘土に食い込み、引き抜くのに力がいる。
ガルドが掘削班に合流した。大柄な身体で鶴嘴を振り下ろす。一撃で——トビアスの三倍の土が剥がれる。
「ガルドさん、そのペースだと疲れますよ」
「冒険者をなめるな。この程度で疲れる体はしていない」
トビアスが苦笑した。しかしガルドの参加で掘削速度が上がったのは事実だ。安全管理を兼ねて、各所を見回りながら——力が必要な場面で自ら手を動かす。それがガルドのスタイルだった。
夕方。日が傾き始めた頃——作業終了の鐘が鳴った。ガルドが鳴らしたのだ。「日が暮れてからの作業は怪我のもとだ」と言って、全員を集合させた。安全管理の鬼。しかしその判断は正しい。疲労した体で暗がりの中で鍬を振れば——足を踏み外す者が出る。
健悟は堤防予定地の端に立って、今日の成果を見渡した。
溝が掘られている。まだ五十メートルほどだが——まっすぐな溝が、川に沿って伸びている。溝の底は粘土層の茶色い土が露出している。その脇に——養生中のマギクリートブロックが百二十個並んでいる。三日分の製造量だ。灰色の直方体が、夕日を浴びて淡い影を落としている。
リーゼが隣に来た。泥だらけの手で髪をかき上げている。
「どう? 順調?」
「初日としては上出来です。掘削が少し遅れていますが——型枠を増やせばマギクリートの製造は追いつきます」
「健悟。——みんな頑張ってるよね」
「はい」
「あの人たちが動いてくれたのは——健悟が設計図を描いたからだよ。数字と図面で見せてくれたから——村の人たちは信じられた」
「設計図だけでは人は動きません。リーゼさんが一軒一軒回って話したから——」
「二人の手柄ってことにしておこうよ」
リーゼが笑った。泥のついた顔で笑うと——少女のように見えた。二十歳の村長。この村の未来を背負い、最初に鍬を振るった若い女性。
テール川が夕日に光っている。穏やかな流れだ。しかしこの川が暴れる日が——必ず来る。その日までに、この溝がマギクリートの堤防になっていなければならない。
(工期六十日。初日終了。残り五十九日——いや、雨季の兆候次第ではもっと短いかもしれない)
掘削班の若者たちが道具を片付けている。ドラガが型枠の点検をしている。ガルドが見回りから戻ってくる。ノルンが帳面に今日の作業を記録している。マルテが明日の資材リストを書いている。
全員が動いている。村が一つの現場になった日。
ロッテが大鍋で作った温かいスープが振る舞われた。疲れた体に染み渡る。村人たちが座り込んで、スープを啜りながら今日の作業を語り合っている。誰が一番深く掘ったか。誰が一番大きな石を割ったか。笑い声が上がる。疲労の中に——充実感がある。
五十人の小さな村が——洪水に立ち向かうための最初の一日が、静かに終わった。明日もまた、同じ朝が来る。同じ鍬の音で始まる。




