資材の壁——マルテの交渉術
「砕石が足りないわ」
マルテが帳面を突きつけた。昼休みのロッテの宿。テーブルに資材の在庫表が広げてある。赤い線が引かれた数字が——残酷な現実を示している。
「川沿いの砕石は、使える分は全部集めました。残りは——あと三日分しかありません」
「三日分?」
「堤防の完成まであと四十日。必要な砕石は——現在の在庫の十倍以上よ」
健悟は図面を見直した。マルテの計算は正確だ。川沿いで拾える砕石には限りがある。そもそも天然の砕石は形が不揃いで、マギクリートの骨材としては加工が必要になる。加工の手間も馬鹿にならない。
「採石場が必要ですね。しかしこの村の周囲には——」
「ないわよ。だからあたしが行くの」
マルテが立ち上がった。小柄な身体に——商人の気迫が漲っている。
「隣町のグリューネンに採石場があるって聞いてるわ。馬車で半日の距離。交渉して資材を確保してくる」
「マルテ、一人で行くのか」ガルドが眉を寄せた。
「一人で十分よ。交渉に腕力は要らないもの」
「しかし——」
「あたしは商人よ。商人にとって交渉の場は——冒険者にとっての戦場と同じ。自分のフィールドよ」
ガルドが口をつぐんだ。マルテの目が本気だったからだ。
「ただし——」マルテが健悟を見た。「交渉材料が必要なの。向こうが『売ってもいい』と思うような何かが」
「お金は——」
「お金はないわよ。この村に余剰資金なんてあるわけないでしょ。だから——物々交換か、将来の利益を担保にするしかない」
(担保。国交省時代に何度も聞いた言葉だ。公共事業の担保は税収の見込み。ここでは——何が担保になる?)
「マルテさん。堤防が完成すれば、ハルベルト村は洪水から守られます。そうなれば農地が安定し、収穫量が増え、交易の基盤ができる」
「それはわかってるわよ。でも向こうは——まだ堤防もできてない辺境の村の『将来の利益』を信じると思う?」
「信じさせるんです。そのために——マギクリートのサンプルを持って行ってください」
健悟が完成したマギクリートブロックを一つ取り出した。灰色の直方体。叩くと澄んだ音がする。
「これを見せて説明してください。石積みの三倍の強度を持つ新建材。この素材の独占製造権がハルベルト村にあること。堤防が完成すれば——この素材を使った建設事業が始まること。隣町の建設需要も、この素材で満たせる可能性があること」
マルテの目が光った。商人の計算が走っている。
「つまり——砕石の代金を、将来のマギクリート供給で返すってわけね」
「はい。先物取引のようなものです」
「サキモノトリヒキ?」
「将来の商品を約束して、今の取引を成立させることです」
「……あたしの言葉で言えば、『ツケ払い』ね。でもツケが利くのは信用がある相手だけよ」
「だからサンプルを持って行くんです。百聞は一見に如かず——実物を見せれば、信用は生まれます」
マルテが顎に手を当てた。目が細くなる。計算が終わったらしい。
「いいわ。やってみる。——ただし、条件は厳しくするわよ。向こうの言い値で買うなんて、商人の恥だもの」
翌朝、マルテは馬車で出発した。ロッテが弁当を持たせ、ガルドが護衛の必要はないかと聞いたが、マルテは「あたしの交渉を見張るつもり?」と跳ね返した。
マギクリートのブロックを一つ、布に包んで荷台に積んでいる。重い。しかしマルテは「これが今日の武器よ」と笑った。
マルテが去った後、工事は続いた。砕石の在庫が尽きかけている中、ドラガは型枠の改良に取り組んだ。「素材がなくても道具は磨ける」と言って、型枠の内側に油を塗り、脱型しやすくする工夫を加えた。職人は——手が空くと道具を改良する。その習性は種族を超えて共通だ。
健悟は工事現場で掘削班の監督をしながら、マルテの帰りを待った。
グリューネンは街道沿いの小さな町だ。人口は三百人ほど。採石場と製材所がある。マルテは町に着くと、まず市場を回った。物価を確認する。砕石の相場。木材の価格。運搬費。情報を集めてから交渉に臨むのが——マルテ流だ。ロッテの娘だが、商才は父親譲りだとノルンは言う。父親は行商人で、マルテが十二の時に病で亡くなった。以来、マルテは一人で帳簿をつけ、村の物資管理を担ってきた。
採石場の主人は、ヘルマンという太った中年男だった。禿げ上がった頭に汗を光らせ、そろばんを弾いている。
「ハルベルト? ああ、あの寂れた村か。——で、砕石が欲しいと?」
「二十トン。三回に分けて納品できる?」
「二十トンか。金はあるのか」
「現金はないわ」
ヘルマンの眉が上がった。
「金がないのに砕石を売れと? 商売舐めてんのか、嬢ちゃん」
「嬢ちゃんじゃなくてマルテ・ベッカーよ。——ハルベルト村唯一の商人。で、これを見て」
マルテが布を解いた。マギクリートのブロックが現れる。テーブルに置くと——ずしりと重い音がした。
「何だこりゃ。石か?」
「石よ。——人が作った石。石積みの三倍の強度で、自由な形に成形できる新素材。名前はマギクリート」
「人が作った石? 馬鹿言え。石は山から掘るもんだ」
「叩いてみて」
ヘルマンが拳でブロックを叩いた。澄んだ音がした。ヘルマンの顔が変わった。
「……硬いな」
「硬いわよ。あなたの採石場の花崗岩より硬い。しかも——防水性がある。水を弾くの」
マルテがブロックに水をかけて見せた。水は表面を滑り落ちる。ヘルマンの目が丸くなった。商人の勘が——この素材の価値を嗅ぎ取っている。
「で——何が言いたい」
「砕石二十トンの代金を、マギクリートの優先供給権で返すわ。堤防が完成したら、グリューネン向けにマギクリートを製造する。建物の基礎、道路の舗装、水路の護岸——何にでも使える。あなたの採石場の商品ラインナップに、この新素材が加わると思って」
ヘルマンがそろばんを弾いた。長い沈黙。商人と商人の間に、無言の駆け引きが流れる。
「……いくらで売るつもりだ、そのマギクリートとやらを」
「それは——堤防完成後に改めて交渉するわ。今は砕石の話よ」
「先に価格を決めないと、俺がどれだけ得するかわからんだろう」
「だから今は損しないの。砕石の原価分を最低保証で返す。それ以上の利益は——マギクリートの需要次第で青天井よ」
マルテが畳みかけた。ヘルマンの表情が揺れる。採石場の主人として、新素材の将来性は見える。しかし——相手はまだ堤防もできていない辺境の村だ。
「仮に——仮にだぞ。砕石を出すとして、運搬はどうする」
「そちらの馬車で三回に分けて。運搬費も含めて、マギクリート供給権で清算するわ」
「虫のいい話だな」
「利益が出る話よ。虫がいいのは——当然じゃない」
マルテが笑った。商人の笑みだ。自信と計算に裏打ちされた、余裕のある笑み。ヘルマンがそろばんを置いた。
「……一つ条件がある。マギクリートの製造を見せろ。この目で確かめる」
「いいわよ。来週、ハルベルト村に来て。ドワーフの親方が直接説明してくれるわ」
「ドワーフだと?」
「ええ。ドワーフの鍛冶親方が——うちの村にいるの」
ヘルマンの態度が変わった。ドワーフの職人がいるという事実は——商人にとって最大の信用保証だ。ドワーフの名前は、この大陸では品質の代名詞なのだ。
「……わかった。砕石十トンを先に出す。残りの十トンは、製造を見てからだ」
「十五トンよ。最初に十五。残り五は見てから」
「……ぐっ。十二トンだ」
「十三。これが最終ラインよ」
ヘルマンが唸った。マルテの目は——一歩も退かない。
「……十三トンだな。握手だ」
二つの手が握り合った。太い手と細い手。採石場の主人と辺境村の若い商人。マルテの手は小さいが——握力は強かった。
夕方、マルテは馬車でハルベルト村に戻った。空のブロックは置いてきた。ヘルマンが「見本として置いておく」と言ったからだ。サンプルが向こうの手元にあるのは——むしろ都合がいい。見れば見るほど欲しくなる。それが良い商品というものだ。
宿に戻ると、健悟とリーゼが待っていた。
「どうだった?」
「十三トン確保。最初の納品は五日後。——そのかわり、ヘルマンを製造現場に招待するわよ。ドラガに説明を頼んで」
「十三トン——やりましたね」
「やったわよ。あたしを誰だと思ってるの。利益が出るなら乗る——それが商人よ。ただしね——」
マルテが真面目な顔になった。
「あたしは今日、この村の信用を担保に取引したの。堤防が完成しなかったら——あたしの信用が潰れる。あたしだけじゃない。ハルベルト村の信用が潰れるわ」
リーゼが頷いた。
「完成させるよ。——絶対に」
マルテが微笑んだ。疲労の色はあるが——目は輝いている。商人として、初めて「自分の村」のために交渉した日。
ドラガがエールを一杯差し出した。
「よくやったぞい、嬢ちゃん」
「嬢ちゃんじゃなくて——」
「マルテ・ベッカーじゃな。覚えておくぞい」
マルテがエールを受け取った。一口飲んで——咽せた。ドラガが笑った。ロッテが「うちの娘に強い酒を飲ませないでおくれ」と叱った。
砕石十三トン。マルテ・ベッカーの商才が勝ち取った、堤防の命綱だった。




