堤防設計図——百年に一度の洪水に備えよ
ロッテの宿の食堂。大きなテーブルに紙を何枚も並べている。羽根ペンで描いた堤防の断面図、平面図、そしてテール川の流域図。上流偵察のデータと、マギクリートの試験結果を反映した第三版だ。
リーゼ、ガルド、マルテ、トビアス、ドラガ、ノルン——主要メンバーが全員揃っている。昼食後の時間帯。窓から差し込む光が紙面を照らしている。
「では——堤防の設計を説明します」
健悟は深呼吸した。国交省時代、何度も設計審査の場に立った。局長への説明、地元自治体への説明、住民説明会。しかしあの頃は、コンサルが作った資料を読み上げるだけだった。今回は——全て自分で描いた設計だ。
「まず、堤防の位置です。テール川の東岸、旧堤防があった場所から南に二百メートル延長します。全長四百メートル」
「四百メートル!」トビアスが声を上げた。
「長さだけではありません。堤防の断面はこうです」
断面図を指差した。台形の断面。底辺が四メートル、上辺が二メートル、高さが二・五メートル。内側に排水孔を三十メートル間隔で設置。基礎は地下一・二メートルまで掘り下げる。
「旧堤防の基礎は四十センチしかなかった。新しい堤防は一・二メートルです。増水で底から水が回り込む事態を防ぎます」
「排水孔は?」リーゼが図を覗き込んだ。
「堤防の裏側に水が溜まった時に逃がすための穴です。これがないと堤防自体が水を吸い込んで弱くなる——旧堤防が崩壊した原因の一つです」
「なるほど。——次は?」
「遊水池を二箇所設けます」
流域図を広げた。テール川の上流二キロ地点と、村の南五百メートルの低地。
「遊水池は——増水時に水を一時的に貯める池です。ダムのように水をせき止めるのではなく、溢れた水を逃がす場所を作る。川の水圧を分散させて、堤防への負荷を減らします」
「つまり——水の逃げ道を用意するってこと?」
「そうです。洪水を力で止めるのではなく、水の行き先を制御する。それが現代の治水の考え方です」
リーゼが頷いた。ガルドが腕を組んで図面を見ている。
「さらに——水制工を三箇所に設置します」
「スイセイコウ?」
「川の中に突き出す構造物です。水の流れを変えて、流速を調整します。上流の砂礫堆積を自然に押し流す効果もあります」
「それは——川の中に壁を作るということか」ガルドが聞いた。
「壁というより——水の流れを導く杭のようなものです。川全体を制御する仕組みの一部です」
ガルドが溜め息をついた。規模の大きさを実感しているのだ。
沈黙が落ちた。リーゼが設計図の隅に書かれた数字を見ている。必要資材の一覧。マギクリートブロック:推定三千個。砕石:四十トン。粘土:二十トン。木材(型枠用):百本。魔法石粉:ドラガの在庫の八割。
「三千個……」マルテが呟いた。
「必要な人工は——延べ二千人日です。村人五十人が全員参加して、四十日間。実際には農作業と並行するので——六十日はかかるでしょう」
「六十日——二ヶ月じゃないの。雨季に間に合うの?」リーゼの声に焦りが滲んだ。
「正直に言うと——ギリギリです。ノルンさんの見立てでは雨季の到来まで六週間。工期を詰めるために、作業を三班に分けて同時進行させます」
ノルンが薬草茶を啜りながら口を開いた。
「大仕事だねえ。こんな工事——この村では見たことがないよ」
「年寄りが心配してどうする」ドラガが鼻を鳴らした。「ワシは二百年生きとるが、マギクリートは初めてじゃ。初めてのことに怯えるのは——職人の恥じゃぞい」
「怖がってるんじゃないよ。感心してるのさ」
ノルンが穏やかに笑った。
しかし——空気は重かった。数字の重みが、テーブルの上にのしかかっている。三千個のブロック。四十トンの砕石。五十人の村人。この村には重機がない。トラックもない。全て人の手と足で運ぶ。
ドラガが設計図に太い指を置いた。水制工の位置を指差している。
「この水制工——マギクリートで作るのか」
「はい。石積みでは流速に耐えられません。マギクリートの成形自由度を活かして——水流に最適な形状に作ります」
「ふむ。面白い。——しかし、三千個のブロックを作るのに魔法石粉がどれだけ要る?」
「現在の在庫で——八割を使い切る計算です」
「八割か。ワシの手持ちをほぼ全部じゃな」
ドラガが顎鬚を撫でた。迷いはない。しかし——在庫を使い切ることの重みは感じている。鍛冶師にとって魔法石粉は命綱だ。それを堤防に注ぎ込む。
「足りなくなったら——北の山脈まで採りに行くまでじゃ」
「無理じゃない?」
マルテが呟いた。計算の結果を見て——現実を突きつけている。
「一日五十個のブロックを作って六十日。でも砕石の運搬だけで一日十人は取られるわ。粘土の採掘にも人がいる。型枠を作る大工仕事もある。全部足したら——人が足りないわよ」
「マルテさんの計算は正確です。だから工程を最適化する必要があります。朝の涼しい時間帯にブロック製造、日中に堤防の基礎掘削、夕方に資材運搬——三交代ではなく、三工程を一日の中で回す」
「それでも——」
「それでも足りません。だから——」
健悟はリーゼを見た。リーゼの碧い目が、健悟を見返している。
「村全員の協力が必要です。老若男女、全員。できることは人それぞれ違いますが——全員が何かの形で参加しなければ、この工事は成り立ちません」
沈黙。ガルドが腕を組んだまま動かない。マルテが帳面のペンを止めている。トビアスが拳を握っている。ノルンが茶碗を置いた。
リーゼが立ち上がった。
「わかった」
短い言葉だった。しかし——声に迷いがなかった。
「私が村長として——村人全員に話すよ。この堤防がなければ、次の洪水で村が沈む。三年前より酷いことになる。だから全員でやる」
「しかしリーゼ、畑の作業もある。全員が工事に出たら——」
「畑は午前中だけ。午後は全員堤防工事。それで足りなければ、夜も灯りをつけてやる」
「体を壊すぞ」ガルドが言った。
「壊れた体は治せるけど、流された家は戻らないでしょ」
リーゼの声が強くなった。亜麻色の髪を束ねた若い村長が——覚悟を見せている。
「それに——村長が最初に泥まみれになるよ。私が一番に穴を掘る。それで誰がついて来ないか見てみよう」
ドラガが低い笑い声を上げた。
「いい覚悟じゃ。——ワシも手伝うぞい。マギクリートの製造はワシが仕切る。配合も品質管理も任せろ」
トビアスが手を挙げた。
「俺が建設班をまとめます。掘削も運搬も——若い連中を集めますよ」
マルテが帳面を閉じた。
「資材の調達と予算管理はあたしがやるわ。足りないものがあれば——隣村と交渉する」
ガルドが最後に口を開いた。
「俺は安全管理だ。怪我人を出すわけにはいかん。——それと、夜間の見回りも引き受ける」
ノルンが茶碗を持ち上げた。
「年寄りでもできる仕事をちょうだいね。料理番でも、子守でも——何でもやるよ」
「ノルンさんには記録をお願いします。工事の進捗、天候の変化、問題の記録——データは後で必ず役に立ちます」
「あたしの帳面が役に立つのかい」
「百年分の洪水記録がなければ、この設計図は描けませんでした。記録する力は——いつか必ず誰かを助けます」
ノルンが目を細めた。皺の奥に——温かい光がある。先々代の村長が遺した帳面が、百年後の堤防設計に使われる。記録は時を超える。
翌日から、リーゼは村を回った。一軒一軒、戸を叩いて歩いた。堤防の話をした。洪水の記録を見せた。設計図の数字を——健悟に教わった平易な言葉で説明した。
反応は様々だった。すぐに賛同する者、渋る者、「そんな大工事をして意味があるのか」と疑う者。しかしリーゼは粘り強く説いた。「三年前の洪水を覚えているか」と聞けば——誰もが黙った。羊が死に、家屋が壊れ、畑が沈んだ記憶は、まだ生々しい。
三日で、五十人のうち四十三人が参加を表明した。残る七人も——完全な拒否ではなく、「体が悪い」「子供が小さい」という事情だった。それでも後方支援は可能だ。
ハルベルト村が動き出した。五十人の小さな村が——百年に一度の洪水に立ち向かうために。健悟はテーブルの上の設計図を見つめた。紙の上の線が、明日から現実になる。
(国交省では、設計図が予算査定の壁を越えるまでに三年かかった。ここでは——三日で人が集まった。どちらが健全な社会なのか、考えるまでもない)
窓の外で、風が木々を揺らしていた。南からの湿った風。雨季が近づいている。テール川の水面が——昨日より少しだけ、暗い色をしていた。
しかし、この村は動いている。止まっていた村が——今、動き始めた。それだけで、設計図の線は意味を持つ。紙の上の理想が、泥と汗にまみれた現実に変わる日が来る。
健悟は羽根ペンを取り、工程表の作成を始めた。六十日間の作業計画。一日ごとの工程、人員配置、資材の使用量。これは——国交省時代に嫌というほど作った書類だ。しかし今は、書類の向こうに——顔がある。リーゼの覚悟。ドラガの誇り。トビアスの拳。ノルンの帳面。ガルドの義理堅さ。マルテのそろばん勘定。
全員の力を合わせて、洪水に立ち向かう。それは——国交省の局議室では決して味わえなかった、生々しい高揚感だった。




