第9話 震える手紙
ジノは鞄を持ち上げようとして、顔をしかめた。
「……見せて」
振り向くと、テオナがこちらを見ていた。
「何を?」と、ジノは尋ねた。
「背中。木箱にぶつけたでしょ?」
「平気だよ」
「平気なふり、しないで」
強い声だった。
テオナ自身も、驚いたように口を閉じる。
ジノは鞄から手を離した。
「……痛い。でも、歩けるさ」
「そう。最初から、そう言えばいいのよ」
アレンがそばへ来た。
背中を見てもいいかと尋ねられ、ジノはうなずいた。
服の裾を少し持ち上げる。皮膚は切れていなかったが、木箱の縁が当たったところが赤くなっていた。
アレンは、息をすると痛むか、腕を動かせるかと、一つずつ尋ねた。
ジノは動かしながら答えた。
「痛みが強くなったら、すぐ言ってくれ。荷物は俺が持つから、いいな?」と、アレンは言った。
「でも……」と、ジノは言った。
「今、持ち上げようとして止まっただろ」
ジノは、素直にうなずいた。
アレンは水筒ときれいな布を取り出した。
「テオナも、手の傷を見た方がいい。布と水、使うか?」
「……自分でできるわ」
「ああ。必要な分だけ使ってくれ」
布と水筒を木箱へ置き、アレンは追手の方へ戻った。
テオナは、しばらく置かれた布を見ていた。
やがて腰を下ろし、左手の包帯をほどき始める。
ジノは少し離れて座った。
「……来ないでって、言ったでしょ?」と、テオナは言った。
「......うん」と、ジノは言った。
「あたし一人だったら、あんたまで痛い思いをしなくて済んだのに......」
ジノは、自分の手を見た。
男の腕へしがみついた指先が、まだじんじんする。
「でも、あのままだと鍵を取られてた」と、ジノは言った。
「あんたには、関係ないじゃない」
「……お父さんが、渡してくれたものなんでしょ?」
テオナの手が止まった。
ジノは言葉を継いだ。
「逃げろって言って、持たせてくれたんだよね?」
彼女は答えなかった。
ジノは言葉を継いだ。
「それを、あの人たちに取られたくなかった」
テオナは、ほどいた布へ視線を落とした。
「……自分のことも、考えなさいよ」
ジノは少し迷ってから、うなずいた。
「うん。次は、ちゃんと助けられるようになりたい」
テオナが顔を上げた。
言い返しかけた口が閉じる。
それきり、包帯を巻き直すまで、彼女は何も言わなかった。
*
アレンが、追手から取り上げた紙を持って戻ってきた。
「ベルカって、近いの?」と、ジノは尋ねた。
「この街道を進んだ先の町だ。さっきの人に道を聞いた」と、アレンは言った。
「そこに、お父さんがいるのかな」
「まだ、わからない。こいつらへ道具を渡した奴がいるはずだ。それだけは手がかりになる」
テオナは顔を伏せたまま、話を聞いていた。
アレンは言葉を継いだ。
「この絵、見てもらってもいいか?」
紙を差し出され、テオナは少しためらってから受け取った。
銀の鍵を描いた絵を、目でたどる。
「鍵の形まで、知ってたんだね」と、ジノは言った。
「ああ。神律の鍵だとわかって、狙ってやがる」
「……しんりつのかぎ?」
アレンは腰の金の鍵を指した。
「俺たちが使っている、この鍵の呼び名だ。神律の鍵」
ジノも、自分の黒い鍵へ手を添えた。
アレンは言葉を継いだ。
「神が、世界の均衡を保つために人へ授けた。そう伝えられてる。村長の話にもあっただろ? 世界を支えるための力だって」
「うん」と、ジノは言った。
「その神の定めた秩序を、『神律』と呼ぶそうだ」
テオナの指が、紙の端をつまんだ。
「……神律の鍵を持ってるからって、誰もが世界の平和のことを考えてるわけじゃないわ」と、テオナは言った。
「そうだな」
返事は静かだった。
アレンは言葉を継いだ。
「人を助ける力でも、使い方を決めるのは持っている人間だ。だから、悪用されないようにしたいんだ」
テオナは、アレンの金の鍵を見た。
それから紙へ目を戻し、短く息を吐いた。
「……これは、父さんがあたしに持たせたものよ。返せって言われる筋合いなんかない!」と、テオナは言った。
「ああ。君からその鍵を取り上げるつもりはないさ」
「今は、そう言えても……」
そこで言葉を切った。
アレンは続きを求めず、紙を返してもらった。
ジノは、腰の黒い神律の鍵を見た。
村で出会った男も、アレンも、テオナも、同じように扉を開く力を持っている。
それでも、することは違う。
今日会ったばかりの少女が、鍵を握りしめて誰も近づけようとしなかった理由を、ジノはまだ知らなかった。
*
テオナは荷車の陰へ移り、父親の革の道具入れを開いた。
細い金具が並んでいる。
使い込まれて先が丸くなったものも、父親が自分で削って形を変えたものもある。
見慣れた道具は確かにここにあるのに、父親の行方はわからないままだった。
革を畳み、自分のポーチへ入れようとした。
指先が、硬い筒へ触れる。
テオナは動きを止めた。
掌ほどの長さの、金属の筒だった。
今朝、父親と別れる直前に渡されたものだ。
「これも持っていけ。落ち着いて隠れられたら、中を見なさい」と、テオナの父親は言った。
銀の鍵と一緒に、手へ押し込まれた。
父親は扉の方を何度も見ていた。
なぜ一緒に来ないのか。何が起きているのか。
尋ねても、急げとしか言ってくれなかった。
テオナは裏口から逃げた。
しばらくして、背後から足音が追ってきた。
林へ入り、道を変え、街道で荷車に乗せてもらった。
ようやく追手を振り切ったと思ったところで、また見つかった。
筒を開ければ、父親と別れたときのことを考えなければならない。
怖くて、先延ばしにもしていた。
テオナは筒を握り直した。
今は、追手は縛られている。
荷車の持ち主も戻ってきた。
アレンと石の鳥が、こちらを見張ってくれている。
逃げ出してから初めて、後ろを確かめずに座っていられた。
テオナは蓋へ指をかけた。
回して、一度押し込み、少しだけ逆へ戻す。
父親が作った、見慣れた仕掛けだった。
パカン。
蓋が外れる。
いつもは細い道具が入っている筒に、今日は紙が一枚、丸めて収められていた。
「……父さん」と、テオナは言った。
取り出すと、見慣れた文字があった。
『テオナへ。』
その下の一行を読んで、指が止まった。
『私を捜しに、あの家へ戻ってはいけない。』
続いて、人の名前が書かれている。
レグナー。
道に迷った父娘を家へ迎え、温かい食事を出してくれた男性の名前だった。
『レグナーが、お前の鍵のことを追手へ知らせていた。私は、彼と連中が話しているのを聞いた。』
紙の端が、小さく震えた。
自分が、その人を信じた。
父親が宿を探そうと言ったのに、ここなら大丈夫だと、自分が言った。
テオナは続きを読むことができなかった。
追手が来る前の、穏やかな食卓が浮かぶ。
父親の前へ差し出された椅子。
冷えていた指に、温かかった器。
笑っていた、男の人の顔。
テオナは言葉を継いだ。
「……あたしが」
声が、かすれた。
「テオナ?」
顔を上げると、ジノが離れた岩のそばから、こちらを見ていた。
近づいてはこない。
それでも、さっき男の腕へしがみついた、その姿が重なった。
背中をぶつけても、手を離さなかった。
父親も、裏口の扉を開けたあと、自分だけがあの家に残った。
テオナは紙を握りしめた。
「……また、あたしのせいで」
ジノは口を開きかけ、止めた。
テオナはうつむいた。
手紙の文字が、もう見えなかった。
*
ジノは岩のそばに立ったまま、テオナを見ていた。
父親の字を見つけたとき、彼女は少しだけ顔を上げた。けれど、読み進めるうちにうつむき、そのまま動かなくなってしまった。
何が書いてあったのか、ジノにはわからない。
「……そこに、座っててもいい?」と、ジノは尋ねた。
指したのは、テオナのそばではなく、今いる岩だった。
返事はなかった。
ジノはしばらく待ってから、ゆっくり腰を下ろした。
アレンは追手たちを見張っている。ルフの石の羽が、木々の向こうでわずかに動いた。
テオナは手紙へ視線を戻した。
レグナー。
その名前を見ただけで、昨日の声が耳へ戻ってきた。
*
――回想:エルディア王国・ベルカの町外れ――一日前の午後。
「……また、この橋」
川にかかる小さな石橋の前で、テオナは足を止めた。
橋のたもとには、片方の耳が欠けた犬の像がある。
さっきも、その前を通った。
父親は手元の紙を広げ、道と見比べていた。
「父さん。もしかして、道、わからなくなってる?」と、テオナは尋ねた。
「この角を曲がれば、宿通りへ出るはずなんだが......」と、テオナの父親は言った。
「それ、さっきも言ってたわよ」
「……そうだったかな」
テオナは肩を落とした。
町の中心へ向かう道が工事で塞がれ、迂回路の札を頼りに歩いてきた。けれど、いつの間にか家の数が減り、川沿いの細い道へ出ていた。
朝から歩き続けて、脚も重い。
父親は、道具の入った大きな鞄を持ち直した。
持ち手が、掌へ深く食い込んでいる。
「少し、持とうか?」と、テオナは尋ねた。
「大丈夫だ。お前も荷物があるだろう」
そう言ったあと、父親は片方の肩をゆっくり回した。
テオナはその動きを見て、口を結んだ。
木の扉を叩く音がした。
ガンッ。ガンッ。
橋の向こうの家で、男性が扉を引いている。
外へ出たいのではないらしい。半開きの扉が閉まらず、何度引いても同じところで止まっていた。
父親がそちらを見た。
「父さん。宿」と、テオナは言った。
「少しだけだ」
「……絶対、そう言うと思った」
父親は苦笑し、家の前へ向かった。
「失礼。錠が引っかかっているんですか?」
「ん?......ああ、そうなんだ。無理に閉めたら、今度は開かなくなりそうでね」と、家の主人は言った。
「見せてもらっても良いですかな?」
「直せるのかい?」
「鍵と錠前が仕事です。テオナ、小さいやすりを」
テオナは腰の道具袋を開いた。
父親へやすりを渡すと、自分も扉の下へしゃがむ。
「錠だけじゃないわ。こっち、擦れてる」と、テオナは言った。
「本当だな。先に蝶番を見よう」
二人が作業を始めると、男性は嬉しそうに椅子を運んできた。
「座ってくれ。通りすがりに、悪いね」と、家の主人は言った。
「いえ。これも仕事ですから」
テオナは、父親が椅子へ腰を下ろすのを見て、少しほっとした。
*
――回想:ベルカの町外れ・男性の家――一日前の夕方。
カチリ。
父親が鍵を回した。
押すと開き、引けば、扉は枠へぴたりと収まる。
テオナは内側からも鍵を回し、うなずいた。
「うん。もう引っかからないね!」
「助かったよ。今夜は戸締まりもできないかと思った」と、家の主人は言った。
男性は銅貨を数え、父親へ渡した。
それから、家の奥を指した。
「食事もしていかないか。二人分増えたところで、困りはしない」と、家の主人は続けた。
「そこまでしていただくわけには。宿を探している途中なので」と、テオナの父親は言った。
「今からか? 町中へ戻るころには暗くなるぞ。空いている部屋なら、うちにもあるんだ」
テオナは父親を見た。
鞄を持ち上げようとした指が、一度開かれた。赤くなった掌を、父親がズボンへ擦りつける。
「父さん。今夜くらい、ゆっくりしてもいいんじゃない?」と、テオナは言った。
「だが……」と、テオナの父親は言った。
「錠前だって直したんだし。明日の朝、出ればいいじゃない」
男性が笑った。
「娘さんの言うとおりだ。私はレグナー。この家には一人で住んでいる。遠慮はいらないよ」と、家の主人は言った。
「……あたしは、テオナ」
「テオナか。さっきはありがとう。お父さんと、いい仕事をするんだね」と、レグナーは言った。
テオナは少し目を見開いた。
父親がこちらを見ていることに気づき、慌てて道具袋の蓋を閉じた。
「まだ、手伝いだけよ」と、テオナは言った。
「手伝いができるなら立派なものだ」
父親は困ったように笑った。
「では、一晩だけ。お世話になります」
テオナは、父親の鞄へ手を伸ばした。
「それ、部屋まで運ぶくらいは、あたしが持つ」
「重いぞ」
「知ってるわよ」
鞄を受け取る。
思ったより重くて、両腕に力を入れた。
父親も手を添え、結局、二人で運んだ。
――第9話・終
第9話「震える手紙」を読んでくださり、ありがとうございます。
ジノの怪我には気づけるのに、自分のつらさはなかなか話せない。
テオナが人を遠ざけようとしながらも、誰かを気にかけてしまうところを感じてもらえたらうれしいです。
父親の文字を見つけた彼女の心に、旅の記憶が戻ってきました。
仕事をし、食事をして、父親を休ませたいと願った時間。
今のテオナへつながる出来事を、次回もたどっていきます。




