第10話 信じたかった人
――回想:ベルカの町外れ・レグナーの家――一日前の夕方。
客用の部屋へ荷物を置いたあと、テオナは井戸の水を借りようと庭へ出た。
レグナーも、薪を取りに納屋へ向かっていた。
積み上げられた薪の横には、大きな樽が積まれてある。
その下へ、細い棒が挟まっていた。
レグナーが薪を抜いた拍子に、棒が外れた。
樽が傾く。
その瞬間、テオナは腰の銀の鍵を抜いた。
空中に光の鍵穴が浮かぶ。
「解錠!」と、テオナは声を上げた。
小さな光の扉が、井戸のそばに開いた。
「おっと……!」と、レグナーは声を上げた。
支えようとした男性の足が、濡れた地面で滑った。
その時、樽がレグナーの上に倒れこむ。
テオナ「危ない!!」
飛び出した蔓が、倒れる樽を巻き取る。
樽はレグナーの脚へ当たる寸前で止まった。
レグナーは尻もちをついたまま、目の前の蔓を見ていた。
「……これは!?」と、レグナーは言った。
父親が庭へ出てきた。
テオナは蔓で樽を起こし、壁際へ寄せた。
「大丈夫? 足、挟まなかった?」
「ああ。ありがとう……助かったよ」
レグナーの視線が、テオナの右手へ動く。
銀の鍵。その軸の周りに浮かぶ輪。
テオナは父親を見た。
父親の顔が、いつもより硬かった。
「テオナ。戻しておきなさい」と、テオナの父親は言った。
「……うん」と、テオナは言った。
逆へ捻る。
テオナは言葉を継いだ。
「施錠」
蔓が戻り、扉が閉じた。
レグナーは立ち上がり、服の土を払った。
「驚いたな。神律の鍵を持っているのかい?」
「ええ。娘の身を守るために、持たせています」と、テオナの父親は言った。
「なるほど。私まで守ってもらったわけだ」
笑い声が、庭へ響いた。
父親は笑わなかった。
「このことは、ほかの方には……」
「ああ。わかっているよ。物騒な話も聞くからね」
レグナーはテオナへ目を向けた。
「大事なものだ。なくさないようにね」と、レグナーは続けた。
テオナは鍵を腰へ戻した。
レグナーの声は、さっき仕事を褒めてくれたときと同じだった。
*
食卓には、煮込みとパンが並んだ。
テオナは両手で器を持った。
井戸水で冷えた指に、熱が伝わる。
「お口に合うかな?」と、レグナーは言った。
「……おいしい!」と、テオナは言った。
一口飲んでから、父親を見る。
父親も匙を持ち、ゆっくり食べていた。
レグナーは仕事の話を尋ねた。
古い錠前は直せるか。なくした鍵は作り直せるか。テオナはいつから手伝っているのか。
「小さいころから見てたけど、ちゃんと道具を触らせてもらったのは、もっと後よ」
「見ていないところで、よく触っていたがね」と、テオナの父親は言った。
「それ、今言わなくてもいいでしょ」
レグナーが声を上げて笑う。
父親も、つられて笑った。
テオナは器へ目を落とし、口元を緩めた。
今夜は、父親が重い鞄を持って歩かなくていい。
一緒に温かいものを食べて、屋根の下で眠れる。
泊まろうと言ってよかった。
そう思った。
*
――回想:ベルカの町外れ・レグナーの家――今日の夜明け前。
父親は、階下から響いた音で目を覚ました。
玄関の扉が開いた音だった。
客室の窓の外は、まだ暗い。
隣の寝台では、テオナが毛布を肩まで引き上げて眠っていた。
父親は上着を羽織り、部屋を出た。
階段を数段下りたところで、自分の娘のことを話す声が聞こえた。
「銀だ。確かに鍵の中央に浮いた輪もあった。この目で見たんだ」と、レグナーは言った。
父親の足が止まった。
階下の灯りが、壁へ人影を落としている。
レグナーの向かいに、もう一人いる。その男は両手に革の手袋をはめていた。
「娘は蔓を出していた。もう使い方を覚えているらしい」と、レグナーは続けた。
「父親の方は?」と、訪ねてきた男は尋ねた。
「ただの鍵職人だ。二人とも、まだ上で寝ている」
父親は手すりから指を離した。
「外の連中を裏へ回す。配置が済むまで、二人を下りてこさせるな」と、訪ねてきた男は言った。
「約束の金は?」
小さく、硬貨の触れる音がした。
「……残りも、忘れないでくれよ?」と、レグナーは続けた。
玄関の扉が開く。
父親は階段を引き返し、客室へ戻った。
すぐにテオナの肩を揺する。
「テオナ。静かに、起きなさい」と、テオナの父親は言った。
「……父さん?」と、テオナは尋ねた。
「ここを出る。靴と上着を。荷物は、腰の袋だけでいい」
声をひそめていたが、その顔を見て、テオナは寝台から下りた。
「何かあったの?」
「お前の鍵を狙う連中が来た。詳しいことはあとだ。急いで!」
父親は窓から庭を確かめた。
裏口の先には納屋があり、その向こうが林になっている。今なら、まだ誰もいない。
テオナが靴を履く間に、机の紙へペンを走らせた。
途中で手を止め、窓の外へ目を向ける。
また、短く書き足した。
娘を先に逃がしたあと、自分が追いつけなかったら。ここへ迎えに戻ってこないよう、理由を残さなければならない。
書き終えた紙を丸め、金属の筒へ入れる。
取り出した細い道具は、開いた革の道具入れへ戻した。
父親は腰の小さな道具袋だけを確かめ、大きな鞄は置いた。
「準備はできたかい?」
テオナがうなずき、枕元の銀の神律の鍵を取った。
父親はそれを受け取り、金属の筒と一緒に彼女の手へ押し込んだ。
「これを持って逃げなさい」
「父さんも、一緒よね?」と、テオナは心配そうに尋ねた。
父親は扉を細く開き、廊下を見た。
答えるより先に、テオナを手招きした。
*
階段の下は、玄関へ続く廊下と、台所へ続く通路に分かれていた。
父親は先に下り、台所へテオナを呼び込んだ。
玄関の向こうから、レグナーと男の声が聞こえる。
二人とも、今は表へ出ているらしい。
父親は裏口の錠を外した。
テオナも手を添えかけ、父親の指が止まったことに気づく。
庭の外側を、人影が横切った。
一人ではない。
家の脇の塀に沿って、男たちが裏へ回ろうとしていた。
父親は扉を閉めたまま、テオナの方へ向いた。
「私が、表へ戻る。連中がこちらを見ているうちに、納屋の奥へ走るんだ」
「二人で出ればいいじゃない!?」と、テオナは言った。
「このまま出たら、裏へ回ってくる連中に見つかる。先に、呼び戻す」
「あたしが蔓で止めるわ。そうしたら――」
「ここで力を使えば、どこにいるか、すぐにわかってしまう」
父親はテオナの右手へ目を落とした。
「今なら、まだ気づかれていない。見つからずに離れるんだ!」
表から足音がした。
玄関へ戻ってくる。
父親はテオナを裏口の横へ寄せ、自分は廊下へ出た。
「レグナーさん。鍵のことで、お話があります」
足音が止まった。
「……起きていたのか」と、レグナーは驚いた顔で言った。
「大事なものです。簡単には、お渡しできません」
父親は廊下の途中から声をかけた。テオナを隠している台所へ、二人を近づけないためだった。
レグナーが、表の男へ何かをささやく。
「裏の連中を止めろ。鍵は、父親が持っているらしい」と、訪ねてきた男は言った。
外へ声が飛んだ。
塀の向こうの足音が止まり、引き返していく。
父親は台所へ向けて、小さく手を振った。
行け。
テオナは、裏口を押した。
庭に人影はない。
けれど、足が動かなかった。
父親が、廊下から一度だけ振り返った。
「あとから追いつく。先に行きなさい!」
「……追いつくんでしょ?」と、テオナは言った。
「ああ。追ってくる奴がいたら、待たずに逃げるんだ」
テオナは手の中の筒を握り直した。
「これも持っていけ。落ち着いて隠れられたら、中を見なさい」
父親が近づき、頬へ一度だけ触れた。
仕事のあとも少しざらついている、いつもの手だった。
「行きなさい」と、テオナの父親は続けた。
今度こそ、テオナは庭へ出た。
背後で、父親の声がした。
「娘は、まだ寝ています。話は、表で」
父親の足音が、玄関へ遠ざかっていく。
テオナは振り返らず、納屋へ向かった。
*
納屋を回り、林へ入った。
数歩進んだところで、家の方から怒鳴り声がした。
足が止まる。
戻ろうとした。
けれど、父親が最後に触れた頬が、まだ温かかった。
テオナは木の陰へ身を寄せた。
林の入り口を見つめる。
今、出てくる。
もう少し待てば、父親が来る。
枝が揺れた。
テオナは一歩出かけた。
現れた男の顔を見て、止まった。
父親ではなかった。
短い外套を羽織った男が、庭から林を見回している。
先ほどまで家の外で見張っていた男だ。玄関先で父親と話している男とは別人で、家の中へは一度も入っていない。
「こっちだ! 裏から出てる!」と、追手の男は声を上げた。
テオナは走った。
腰の道具袋が跳ねる。
枝が袖へ引っかかり、ほどこうとした左手を切った。
痛みを見る余裕もなかった。
後ろで足音が増える。
息が切れても止まれない。
父親の足音だけを、ずっと探していた。
*
木々の切れ間から、土の道が見えた。
テオナは幹へ手をつき、息を整えた。
すぐには出なかった。
追手の姿がないことを確かめ、道へ進む。
遠くから、車輪の音が近づいてきた。
荷車を引く男性が、テオナを見つけて足を緩める。
「どうしたんだい? けがをしてるじゃないか」と、荷車の持ち主は言った。
テオナは左手を上着へ隠した。
「……何でもないわ」
男性は荷車を止め、積荷から布を取り出した。
「水は飲めるか? 手も、洗った方がいい」と、荷車の持ち主は尋ねた。
テオナは男性を見た。
昨日も、同じように声をかけてもらった。
疲れているだろう。休んでいきなさい。
「いらない」と、テオナは言った。
男性は差し出した手を止めた。
「……そうか」と、荷車の持ち主は言った。
布を荷台へ戻す。
急かさずに水を一口飲むと、男性は街道の先を指した。
「俺は、あっちへ行く。疲れたなら、途中まで乗っていくかい?」と、荷車の持ち主は続けた。
テオナは道の後ろを見た。
誰もいない。
でも、いつまでも一人で歩き続けられる気がしなかった。
「……少しだけ」と、テオナは言った。
「ああ。袋の横が空いてる」
男性が積荷を寄せた。
手を借りずに、荷台へ上がる。
銀の神律の鍵と金属の筒がポーチに入っていることを、服の上から確かめた。
蓋を開ける気にはなれなかった。
家で何が起きたのか、父親がなぜ残ったのか。
考え始めれば、荷車を降りて戻ってしまいそうだった。
テオナは両膝へ手を置いた。
車輪が回り始める。
父親が街道へ追いついてくる姿を、何度も想像した。
*
――回想終わり:現在――街道沿いの林、壊れた荷車のそば。
手紙の端が、テオナの指へ食い込んでいた。
顔を上げると、ジノはまだ岩に座っていた。
こちらへ何か言いかけ、彼女が見たことに気づくと、口を閉じる。
「……聞かないの?」
「聞いてもいいなら、聞きたいけど」と、ジノは言った。
テオナは手紙を見下ろした。
少しずつ、指の力を抜く。
アレンもこちらを見たが、追手のそばからは動かなかった。
「泊めてもらったの。この人の家に」と、テオナは言った。
紙の名前へ指を置く。
テオナは言葉を継いだ。
「父さんと、一緒に」
ジノはうなずいた。
テオナは言葉を継いだ。
「でも、この人が……あたしの鍵を狙ってる連中に、知らせてたって」
声が途切れた。
喉を動かし、もう一度息を吸う。
テオナは言葉を継いだ。
「父さんは、あたしを逃がして、残ったの」
ジノは動かなかった。
テオナは、紙から目を離せなかった。
「あたしが、ここなら大丈夫だって言ったのよ」
「……うん」と、ジノは言った。
「父さんは、別の宿を探そうとしてた。なのに、あたしが……」
紙が揺れた。
テオナは言葉を継いだ。
「疲れてたから。父さん、ずっと、重い鞄を持ってたから」
ジノは、母親が自分の袋へ入れてくれたパンを思い出した。
家族のために、何かしたいと思うこと。
それなら、自分にもわかる。
「休んでほしかったんだね!」と、ジノは言った。
テオナの指が止まった。
ジノは言葉を継いだ。
「お父さんに」
テオナは唇を結んだ。
返事をしようとしても、声にならなかった。
ジノは、何かを続けるのをやめた。
風が葉を揺らす音だけが、二人の間を通った。
――第10話・終
第10話「信じたかった人」を読んでくださり、ありがとうございます。
親切だと思っていた相手に裏切られたことも、父親を残して逃げたことも、テオナの中では自分を責める理由になっていました。
ジノは、すぐには励ましの言葉を重ねませんでした。
「お父さんに休んでほしかった」という、彼女が最初に願っていたことを受け止めました。
正しい言葉を探すより、そばにいて話を聞く。
そんな時間も、この旅の中に描いていきたいと思いました。




