第7話 名乗ったその先に
パンをかじる音が、木々の間から聞こえた。
ジノは振り向かず、膝に置いた包みから、もう一口ちぎった。
隣で、アレンが水筒の蓋を閉じ、荷車へ届くように少し声を張った。
「俺はアレン。こっちは、ジノだ」
荷車のほうで、音が止まった。
「……聞いてたわ。さっきから、呼び合ってるもの」
ジノが顔を向けると、少女はパンを持ったまま、木箱の陰に座っていた。荷車と二人の間には、まだ淡く光る蔓が伸びている。
「君は?」
尋ねてから、ジノは少し待った。
少女はパンを飲み込み、包みの端を折った。
「……テオナ」
「テオナ、だね」
「呼んでいいってだけよ。ほかのことまで、話すつもりはないから」
「うん」
ジノはうなずき、名前を忘れないように、心の中でもう一度呼んだ。
テオナは食べ残したパンを包み直した。左手で布を押さえた途端、眉が寄る。
手首の包帯に、赤い色がにじんでいた。
「その布、替える?」
テオナが顔を上げた。
「……さっきの話、聞いてた?」
「事情を聞いたんじゃないよ。血がついてるから」
ジノは自分の袋へ目を落とした。
「きれいな布なら、あるんだ。自分で巻けるなら、渡すだけにする」
「あるわよ。自分のが」
「そっか」
ジノは、袋へ伸ばしかけた手を戻した。
テオナは銀の鍵を腰の留め具へ収め、道具袋を開いた。
鍵をしまっても、蔓は消えなかった。
袋の中には、細い金具が何本も並んでいる。先の曲がったもの、針のようなもの、小さなやすり。その奥から、テオナは畳んだ布を取り出した。
「それ、何に使う道具?」
「……今度は何?」
「あ、ごめん。何に使うのか、気になったから......」
テオナは袋の口を見た。
「鍵とか、錠前を直すのに使うのよ」
「テオナが直すの?」
「手伝いくらいだけど。父さんの仕事だもの」
言い終えたところで、布を広げる手が止まった。
アレンも目を上げたが、何も聞かなかった。
「お父さんも、荷車に乗ってたの?」
ジノの問いに、テオナは首を振った。
「乗ってない」
「じゃあ――」
「父さんのことは、聞かないで」
ジノは口を閉じた。
テオナは包帯をほどきはじめた。片手で結び目を外し、布を引く。傷に触れたところで一度止まったが、顔を上げずに作業を続けた。
「……ごめん」
返事はなかった。
アレンが水筒を少し持ち上げた。
「水もある。必要なら、あの石へ置いておくよ」
「それも、自分で持ってるわ」
「そっか......」
ジノは、残りのパンへ目を戻した。
次に何を聞けば話してくれるだろう、とは考えないようにした。
しばらくして、テオナが水筒を開ける音がした。
*
鳥の鳴き声が途切れた。
テオナが先に顔を上げ、続いてアレンが立った。
「……何か、いるの?」
ジノが尋ねたとき、林の奥で枝が折れた。
足音は一人分ではなかった。
テオナはパンの包みを袋へ押し込み、銀の鍵を抜いた。地面へ伏せていた蔓が、荷車の前で持ち上がる。
木々の間から、三人の男が現れた。
先頭は短い外套を着た男。その後ろに、肩幅の広い大柄な男と、頬に傷のある男が続いている。
三人とも、腰に剣を下げていた。
「……いたぞ!」
先頭の男は、テオナを見つけると足を止めた。
「面倒かけやがって。あんなもんで、ずっと足止めできると思ったか?」
テオナは返事をせず、立ち上がった。
荷台へ寄った左肩が、木の縁に触れる。
アレンはジノへ目配せし、荷車と三人の両方が見える位置へ進んだ。
「彼女を追っていたのは、お前たちか?」
外套の男が、初めてアレンを見た。
顔から腰へ、視線が動く。
革筒にのぞく、金色の鳥の持ち手で止まった。
「金の鍵使いか。ちょうどいい。その娘を押さえてくれ」
アレンは動かなかった。
「盗まれた鍵を取り戻しに来たんだ。こっちが近づくと、すぐ力を使いやがる」
「違う!」
テオナの声が、林に響いた。
「これは、あたしの鍵よ。あんたたちが――」
「騒ぐな!」
男が一歩近づく。
蔓の先が、その胸へ向いた。
男はそこで立ち止まり、声を落とした。
「父親の居場所を、知りたくないのか?」
蔓が止まった。
テオナの口が、わずかに開く。
さっきまで動かなかった銀の鍵が、胸元で揺れた。
「その話を聞かせてくれ」
アレンが言うと、男は片手を上げた。
「ああ。だから、先に娘から鍵を取り上げてくれ。話はそれからだ」
テオナがアレンを見た。
ジノは、テオナの右手に気づいた。鍵を身体の後ろへ引いている。父親の話を聞きたいのに、こちらへ背を向けることもできずにいる。
「……近づかないで」
淡い緑の蔓が、テオナとアレンたちの間へ伸びた。
「わかった。近づかない。鍵も取らないよ」
アレンは足を止めた。
ジノも、荷物のそばを離れなかった。
*
「話を聞いてなかったのか? そいつは盗人だぞ」
「聞いた。だから、確かめたいんだ」
アレンは外套の男を見た。
「どこで、誰から盗んだ?」
「俺たちが預かっていた鍵だ。返してもらえば済む」
「預けたのは誰だ」
「お前に関係あるのか?」
「彼女を押さえろと頼んだのは、そっちだろう」
男の口が閉じた。
アレンは、腰の剣へ目を落とさず続けた。
「彼女の父親の居場所を知っているなら、先にそれを教えてくれ」
「娘がおとなしくすれば、会わせてやる」
「……生きてるの?」
テオナが尋ねた。
男は返事の代わりに、腰の袋へ手を入れた。
蔓が、その手を追う。
「見せたいものがあるだけだ」
取り出されたのは、畳まれた革の道具入れだった。
端が黒く焦げ、留め紐の一部が細くなっている。隙間から、銀色の道具がのぞいていた。
テオナの左手が、腰の道具袋へ触れた。
「……父さんの」
「見覚えがあるだろ?」
「どこで、それを?」
「鍵を置いて、こっちへ来い。そうすれば返してやる」
テオナが一歩、踏み出した。
「それを持っているだけでは、父親に会った証拠にはならないな」
アレンが静かに言った。
「どこにいるのか、まだ答えてもらっていない」
「余計な口を出すな」
男がアレンをにらむ。
テオナは道具入れから目を離せなかった。
「あたしが行けば、会わせてくれるんでしょ?」
「その約束が本当か、一緒に確かめる必要がある」
「あんたには、わからないわよ」
テオナの顔が上がった。
「もし、本当に父さんが待ってたら……」
アレンは口を閉じた。
ジノは道具入れを見た。
テオナは、自分で父親の仕事を手伝うと言っていた。あの革も金具も、ジノには知らないものだが、テオナには見慣れたものなのだろう。
目の前にあるのに、父親だけがいない。
「あの......」
外套の男が、ジノへ顔を向けた。
ジノは袋のひもから指を離した。
「お父さんは、テオナに何か言っていましたか?」
「何だ?」
「会ったんなら、伝えてほしいこととか……あったんじゃないかと思って」
男の指が、革を握り込んだ。
「ああ。鍵を返して、戻ってくるようにと言ってたなあ」
テオナの眉が動いた。
「……父さんが?」
「そう言ってるだろ」
テオナは銀の鍵を胸へ引き寄せた。
「父さんは、これを持って逃げろって言ったのよ?」
「状況が変わったんだ」
「何が変わったの? 父さんは、どこにいるの?」
男は答えず、道具入れを袋へ戻した。
その後ろで、大柄な男が動いた。
*
大柄な男は正面から荷車へ向かい、頬に傷のある男は、その脇へ回っていった。
二人の視線は、テオナから離れない。
背後には傾いた荷台がある。左右から近づかれたら、テオナは後ろへ下がれなくなる。
「そこで止まれ!」
アレンが言った。
二人は足を止めなかった。
外套の男が、剣の柄へ手を置いた。
「手荒にするな。鍵ごと連れていく」
テオナが一歩下がった。
ジノたちを遮っていた蔓が、地面へ下りる。今度は迫る二人へ向き直ったが、テオナの目は、まだアレンの動きも追っていた。
アレンが金の神律の鍵を抜いた。
「ジノ、荷物のある岩へ下がっていてくれ」
ジノが離れるのを確かめ、アレンは空中へ鍵を差し出した。
「解錠!」
木々の間の開けた場所に、光の扉が現れた。
灰色の翼と石の嘴。金色の目が、荷車の前へ向く。
――石翼のルフ。
大柄な男が走りだした。
アレンは、テオナへ翼を当てないよう、ルフが翼を畳んだまま二人の間へ下りる姿を思い描いた。
ドンッ。
荷車の前へ、石の爪が下りた。
大柄な男が急停止する。
目の前に、自分よりはるかに大きな鳥が立っていた。
アレンは鍵を抜き、革筒へ戻した。
だが、頬に傷のある男は止まっていなかった。
荷車の脇から、テオナへ迫る。
「そっちも、来ないで!」
光る蔓が二本、草の上を走った。
一本が、抜いたばかりの剣を持つ右手首へ。もう一本が左足首へ。
「チッ!」
男の腕が上へ引かれ、足が止まった。
ジノは岩のそばで、三人の位置を追った。
正面の大柄な男は、ルフが止めている。
荷車の脇の男は、テオナが押さえている。
残る外套の男が、アレンへ剣を向けた。
「盗人を守るっていうのか? 金の鍵使い様ともあろうものが......」
「話を聞こうとしていただろ。剣を先に抜いたのは、お前たちだ!」
男が踏み込んだ。
アレンが短剣を抜き、刃を斜めに合わせる。
ガキンッ。
剣先が横へ流れた。
男はすぐ下がり、荷車へ続く道をふさいだ。アレンがテオナへ向かおうとすると、また刃が伸びてくる。
追い払おうとしているのではない。
アレンを、ここへ留めようとしている。
ジノが荷車へ目を戻すと、テオナの膝が、わずかに曲がっていた。
張っていた蔓の一本が、地面へ触れた。
――第七話・終
第7話「名乗ったその先に」を読んでくださり、ありがとうございます。
少女の名前は、テオナ。
名前を教えてもらえたからといって、すぐに心まで近づけるわけではありません。
それでも、知らなかった相手を名前で呼べるようになるのは、小さな変化ですね。
そこへ現れた追手たち。
彼らの言うことと、目の前にいるテオナの様子。
その両方を前に、ジノとアレンはどう動くのか。
穏やかな食事の時間から、一転して緊張の続く回になりました。
次回はこの緊迫した場面がどう動くのか、見守っていただけると幸いです。




