第6話 優しさを疑う少女
休憩を終え、二人は街道へ戻った。
ジノは歩きながら、何度も自分の指を曲げていた。
「どうした?」と、アレンは言った。
「さっきの感じ、忘れないように」
「また練習すればいいさ」
「うん。次は二つ、拾えるかな?」
「一つずつな」
ジノは笑った。
道が林へ差しかかったところで、アレンが足を緩めた。
腰からコンパスを取り出す。
先ほどまで定まらなかった針が、一方向を指していた。
「鍵?」と、ジノは尋ねた。
「ああ。感知できる距離に入ったらしい」
針は街道から外れ、右手の木立を指している。
アレンは言葉を継いだ。
「近いな」
二人は顔を見合わせた。
アレンが先に林へ入り、ジノが続く。
枝の間を抜けたところで、傾いた荷車が見えた。
片側の車輪が道端の溝にはまり、積んでいた袋や木箱が地面に落ちている。
人の気配はない。
「事故……かな」と、ジノは言った。
アレンは荷車へ近づき、膝をついた。
車輪の手前から、土を深くえぐった跡が続いていた。
「道を外れたんだな。急に脇へ寄せたらしい」
ジノは辺りを見回した。
荷車の下。
木箱の陰。
木々の奥。
地面には、新しい足跡が残っていた。
「誰か、いるの?」と、ジノは尋ねた。
葉が擦れた。
風は吹いていなかった。
ジノの指が、黒い鍵に触れる。
荷車の向こうから、一本の蔓が伸びてきた。
その根元は、倒れた木箱の陰に隠れて見えない。
緑の先端が、するりと持ち上がる。
「ジノ。そこで止まれ」と、アレンは言った。
蔓の先が、二人へ向いた。
*
「ジノ。そこで止まれ......」と、アレンは言った。
荷車の陰から伸びた蔓が、二人へ先端を向けていた。
葉の縁に、淡い緑の光がにじんでいる。
風は吹いていない。
それなのに、蔓だけがゆっくり持ち上がっていく。
「……植物、だよね」と、ジノは言った。
「動くなよ......」
アレンの手が、腰の革筒へ伸びた。
金色の持ち手を、指で確かめる。
蔓は、その動きを見ているように揺れた。
「その手、離して」
木箱の向こうから少女の声がした。
ジノは息をのむ。
「鍵から、手を離してって言ってるの」と、少女は続けた。
アレンは蔓へ目を向けたまま、ゆっくり手を上げた。
何も持っていない掌を見せる。
「わかった。これでいいか?」と、アレンは言った。
しばらく返事がなかった。
木箱の陰で、布が擦れる。
赤い髪の少女が、荷車の向こうから立ち上がった。
高く結んだ髪が、肩の上で揺れた。
赤茶色のフード付きベスト。生成りの服に、くすんだローズ色の短パン。
葉の刺繍が入ったブーツは、土で汚れている。
腰には、いくつもの細い道具を収めた革のポーチがあった。
ジノより少し小柄に見えたが、二人を見据える緑色の瞳に迷いはなかった。
「……金の鍵?」と、少女は言った。
その視線は、アレンの腰に止まっていた。
革筒から、翼を広げた鳥の持ち手が少しだけのぞいている。
アレンは動かなかった。
「あんたも、あいつらの仲間なの?」と、少女は尋ねた。
「あいつら?」と、アレンは尋ねた。
「とぼけないで」
蔓の先端が、アレンへ近づいた。
ジノは思わず一歩を踏み出した。
「待って! アレンは――」
足元を、細い影が走った。
乾いた音がした。
蔓が、ジノの靴のすぐ前で地面を打っていた。
ジノは言葉を継いだ。
「……っ」
「そこで止まって。次は当てるわよ!」と、少女は言った。
ジノは上げかけた足を、ゆっくり戻した。
*
「荷車を調べていただけだ。君、怪我はないか?」と、アレンは尋ねた。
「心配するふりはいいから。そこから動かないで」と、少女は言った。
ジノの目が、少女の左手へ動いた。
左の手首に、布が巻かれていた。
その端に、薄く血がにじんでいる。
少女はその手を身体の後ろへ隠した。
右手には、銀色の鍵を握っている。
蔓を絡めたような持ち手。
軸の周りには、銀の輪が触れずに浮いていた。
「その植物も、鍵現神なの?」と、ジノは尋ねた。
「ほかに何に見えるの?」
「いや、その……」
「質問するのは、あたし。どうしてここがわかったの?」
アレンは上げていた手を、少しだけ下ろした。
「コンパスだ。見せてもいいか?」
「……ゆっくり」
アレンは外套から丸い道具を取り出した。
蓋を開け、少女にも針が見えるように傾ける。
針は、彼女の右手を指していた。
少女の口元がこわばった。
「やっぱり、鍵を探してたんじゃない?!」と、少女は続けた。
「探してる。でも、いきなり奪うつもりはない」と、アレンは言った。
「いきなりじゃなければ、いいってこと?」
「そういう意味じゃない」
ジノはアレンと少女を見比べた。
どう言えば、わかってもらえるだろう。
「ぼくたち、さっきまで河原にいたんだ。練習してて。それで、道に戻ったら――」と、ジノは言った。
「あんたも鍵使いなの?」と、少女は尋ねた。
ジノは口を閉じた。
腰に置いていた手へ、少女の視線が落ちる。
「……うん」と、ジノは言った。
「なら、その手も離して」
ジノは黒い鍵から手を離した。
「袋も、そこに置いて」と、少女は続けた。
「え?」と、ジノは尋ねた。
「中から何か出されると困るの。二人とも」
「わかった」
アレンが先に、旅の鞄を足元へ置いた。
ジノも肩紐を外した。
袋が思っていたより重く、片手から滑る。
「あっ」と、ジノは言った。
反射的に、前へ手を伸ばした。
蔓が動いた。
「わっ!」と、ジノは声を上げた。
手首へ一周だけ巻きつき、伸ばした腕が止まる。
袋は地面へ落ちた。
中で、何かが小さく鳴った。
「ジノ、そのまま」
アレンの声で、ジノは踏ん張りかけた足を止めた。
蔓は締めつけてこなかった。
引っ張りもしない。
ただ、手首を押さえている。
「……急に動かないでよ」と、少女は言った。
「落としそうになっただけだよ」と、ジノは言った。
「見えなかったの」
少女の右手は、鍵を握ったままだった。
左手は、まだ背中へ隠している。
蔓を振るような動きはしていない。
思い描いて、伝える。
河原で聞いたアレンの言葉を、ジノは思い出した。
それでも、巻きついた茎は、ジノの手首へぴたりと沿っていた。
強く締めれば、きっと痛い。
でも、痛くない。
ジノは蔓を見つめた。
自分が石を砕いてしまったときの音が、頭に浮かんだ。
「……上手なんだね」と、ジノは言った。
「何が?」
「蔓の力加減。痛くない」
少女は、一瞬だけ眉を寄せた。
「……暴れなければね」
*
荷車の上で、木が軋んだ。
傾いた木箱が、ゆっくり滑り始める。
「あ、落ちる」と、ジノは言った。
少女の視線が動いた。
別の蔓が、荷台の下から伸びた。
木箱をくぐり、底へ回り込み、地面へ下ろす。
中身が揺れる音はしたが、箱は倒れなかった。
ジノの手首を押さえている蔓は、その間も動いていない。
ジノは少女を見た。
「……何よ」と、少女は言った。
「ぼくなら、そっちに気を取られたら、こっちも動いちゃうと思う」
「……あんたの力は知らないけど。一つ動かすたびに、ほかまで動かす必要はないでしょ」
言ってから、少女は口を結んだ。
少し苛立ったように、木箱の陰へ視線を戻す。
木箱が下りた拍子に、隙間の奥で光が揺れた。
空中に、小さな扉が開いている。
細い光の線が輪郭を描き、暗い奥から何本もの蔓が伸びていた。
同じ扉から伸びた蔓を、少女は別々に動かしている。
彼女が半歩動き、扉と二人の間を塞いだ。
「近づかない。だから、少し話せないか?」と、アレンは言った。
「あたしは、話すことなんか……」
「荷車のそばに、何人分もの足跡があった。誰かに襲われたのか?」
少女は答えず、銀の鍵を握り直した。
アレンは、少し間を置いた。
「この荷車は、君のものか?」
「違う」と、少女は言った。
「持ち主は?」
「助けを呼びに行ったわ」
「どっちへ?」
少女は答えなかった。
アレンは、それ以上尋ねなかった。
「……途中まで、乗せてもらってたの」と、少女は言った。
声が少し低くなる。
「でも、あたしを追ってた奴らが、道をふさいだの。あの人が慌てて馬を脇へ寄せたら、車輪が溝にはまって……」
少女は傾いた荷台を見た。
「あの人には、先に逃げてもらったわ。親切に乗せてくれただけなのに、巻き込みたくなかったから」
「追ってきた奴らは?」と、アレンは尋ねた。
「蔓を木に絡ませて、道をふさいだの。あいつらは、それを避けて林の奥へ回っていったわ。でも、いつ戻ってくるか……」
言葉を切り、銀の鍵を握り直す。
ジノは荷車を見た。
散らばった荷物。
傷の入った板。
溝にはまった車輪。
「じゃあ、一人でここに……」と、ジノは言った。
「少し休んだら、出ていくつもりだったの」
少女が木箱へ手をついた。
片膝が、わずかに揺れる。
すぐに背筋を伸ばしたが、息はまだ浅かった。
「ずっと、蔓を出してたのか」と、アレンは言った。
「平気よ」
返事は早かった。
「二人とも、もういいでしょ。行って。ここにいたら、あんたたちまで……」
少女は口を閉じた。
アレンは少し考え、コンパスの蓋を閉じた。
「わかった」
「アレン……」と、ジノは言った。
アレンはジノを見て、小さく首を振った。
それから、少女へ向き直る。
「手を、離してやってくれ」と、アレンは言った。
少女の目がジノへ移った。
手首の蔓が緩む。
するりとほどけ、木箱の陰へ戻っていった。
ジノは手を下ろした。
痕は残っていなかった。
*
ジノは袋の前へしゃがんだ。
落ちた拍子に、口紐が緩んでいる。
布の包みが一つ、のぞいていた。
母親が昨夜、入れてくれたパンだった。
ジノは包みを手に取り、少女を見た。
「……これ、置いていってもいい?」
「何?」と、少女は尋ねた。
「パン。食べられるなら」
少女の目が、包みへ動いた。
すぐにジノへ戻る。
「いらない」と、少女は言った。
「......そっか」
ジノは包みを開けた。
中の一つを割り、小さくちぎって自分の口へ入れる。
アレンが、その様子を見ていた。
ジノは残りを包み直した。
「ぼくたちも、少し食べるんだ。よかったら、その分だけでも」
「いらないって言ったでしょ?!」と、少女は言った。
「……うん」
置きかけた手を止める。
ジノは包みを戻そうとした。
少女の腹が、小さく鳴った。
誰も動かなかった。
「……今のは」と、少女は言った。
ジノは包みを見た。
少女は目を逸らした。
「……そこなら、置いてもいいわ」
指さしたのは、二人と少女の間にある平たい石だった。
ジノはうなずき、包みを置いた。
そのまま近づかず、袋のそばへ戻る。
細い蔓が伸びてきた。
布の端を引っかけ、持ち上げる。
包みが、少女の足元まで運ばれた。
ジノは、また見入ってしまった。
「……見ないでくれる?」と、少女は尋ねた。
「ごめん」と、ジノは言った。
慌てて、袋の口紐を結び直した。
「街道のところで少し休む。助けが必要になったら、呼んでくれ」と、アレンは言った。
少女が顔を上げた。
「……あたしを見張るつもり?」
「歩いてきて、こいつも疲れてる。荷車には近づかないさ」
少女はジノと、足元の袋を見た。
「……そこより離れて。道は塞がないでよ」
「ああ」
二人は荷物を持ち、街道との境にある岩まで下がった。
葉の間から荷車は見えるが、互いに手の届かない距離だった。
ジノが座り込むと、肩紐を外した腕がじんと痛んだ。
アレンは隣へ腰を下ろし、水筒を取り出した。
しばらくして、布を開く音がした。
――第6話・終
第6話「優しさを疑う少女」を読んでくださり、ありがとうございます。
ジノたちが出会ったのは、助けようと近づく人にも警戒を向ける少女でした。
差し出す側には親切でも、受け取る側がそう感じられるとは限りません。
アレンとジノは、彼女のそばへ無理に踏み込まず、離れて待つことにしました。
その距離も、この出会いでは大切にしています。
少女は何を守ろうとしているのか。
次回も、彼女の言葉を聞いていただけたらと思います。




