第4話 大きな使命
集会所の石段へ、夕日が差していた。
ジノは器を両手で持ち、水を飲んだ。さっきまで乾いていた喉が、今は飲み込むたびに少し痛む。
広場から、木材を運ぶ声が聞こえた。
倉庫の周りには縄が張られ、村人たちが道へ散った板を片づけている。井戸の脇では、母と数人の女性が、使える石と割れた石を分けていた。
ジノも手伝おうとして、一度立ち上がった。
すぐに座らされた。
今は、妹が隣で見張っている。
「もう一杯いる?」
「フフ、大丈夫だよ」
「立たないでね!」
「……わかってる」
妹は空の水差しを持ち、母のところへ走っていった。
その姿を見送ったとき、石段に影が落ちた。
ガドだった。
脚には布と添え木が当てられ、両側から少年二人に支えられている。
「……隣、いいか?」
ジノは器を持ち直した。
ガドが腰を下ろすと、二人の少年は少し離れた。いつもなら、ガドの背中から何か言ってくる。今日は、靴先で土をならしていた。
ガドも、しばらく口を開かなかった。
「なんで、戻ってきたんだよ。あの時」
ジノは、器の中の水を見た。
「助けてって、言ってたから」
「そうじゃなくて......」
ガドの指が石段をこすった。
「俺、お前に……ずっとひどいことしてたのに」
ジノは黙っていた。
ガドと並んで座るのは、久しぶりだった。いつもは見上げるか、離れたところから様子をうかがっていた。
今は、同じ高さに肩がある。
「金、投げて、ごめん」
ジノは顔を上げた。
ガドの目は、まだ脚を見ていた。
「殴るふりしたのも。お前が嫌がってんの、わかってたのに」
拳が上がるたび、ジノは目を閉じていた。
当たらなくても、怖かった。
そのことを言おうとして、なかなか声が出なかった。ガドが先に続けた。
「もう、やらない」
「……本当に、やめてくれる?」
ガドが顔を上げた。
ジノは器を膝へ置き、両手を離した。
「嫌だったよ。ずっと」
ガドの口が動いたが、何も言わなかった。
やがて、小さくうなずいた。
「......うん」
離れていた二人も、こちらを見ていた。
「ジノ、俺たちも……ごめん」
「もう、しないから」
ジノは二人にも、うなずいた。
それですぐ、全部平気になるわけではなかった。ガドが手を動かすと、まだ少し身構える。
けれどガドは、今度はその手を膝へ戻した。
「ジノ、助けてくれて、本当にありがとう」
夕日が器の底に映っていた。
ジノはその赤い光を見ながら、返事を探した。
「……脚、早く治るといいね」
ガドは目に涙を浮かべ、もう一度うなずいた。
*
広場の端では、ルフが翼を畳んでいた。
運ばれる木材を避け、石の爪を少しずつ動かしている。その前でアレンが顔を上げると、ルフは首を低くした。
アレンの唇が動いた。
何か返事があったように、少し待ってからうなずく。
ジノは立ち上がらないまま、手を振った。
ルフの目が向いた。
石の頭が、ゆっくり下がった。
「……今、ぼくに?」
「ああ。ジノが無事だって、確かめてた」
アレンが金の鍵を回す。
ルフは翼を開き、光の中へ姿を消した。大きな影がなくなると、広場に残る壊れた井戸や散らばった板が、急にはっきり見えた。
アレンはジノのそばへ戻った。
「ルフと話せるんだね」
「気づいたか?」
「返事を待ってるみたいだったから」
アレンは石段へ腰を下ろした。
「鍵から呼び出す存在を、鍵現神と呼ぶんだ。金の鍵のものとは、呼んでいる間だけ言葉を交わせる」
「ぼくの腕も、鍵現神?」
「そうだ。声は聞こえた?」
ジノは首を振った。
「止まって、って思ったら止まってくれたけど」
「言葉を交わせなくても、思いは伝わる。それで動いてくれたんだ」
ジノは腰から黒い鍵を取り出した。
さっきまで、この先にあの腕がいた。
持ち手の閉じた飾りへ、親指を当てる。
「……ありがとう」
輪が、指のそばで回った。
アレンは少し笑った。
「次に呼んだとき、もう一度伝えてみるといい。閉じている間は、こっちの声も届かないんだ」
「ルフにも?」
「ああ。外を見ることも、自分から出てくることもできない」
ジノは鍵を見つめ、それから膝へ下ろした。
「じゃあ、次に」
石段の前を、村人が通りかかった。二人で抱えた板が、ジノたちの前へ長い影を落とす。
アレンは板が通り過ぎるのを待った。
「今日は、もう呼ばなくていいよ」
「……ぼく、また倒れちゃうかな」
「疲れているときは、誰だって無理をしやすい。意識を失えば、扉は閉じてしまうからな」
ジノは倉庫を見た。
あそこで座り込んでいたら、屋根を支える手も消えていた。
黒い鍵を、少し強く握る。
「ちゃんと、使えるようになりたいな」
言ってから、アレンの顔を見た。
「ガドの脚に落ちてきた太い木も、動かせなかったし。あの男を捕まえるときは、樽を壊しちゃった......」
「だが、屋根は支えた。俺に向かう剣も止めてくれた」
「でも、次にできるか、わからないよ」
アレンはすぐには答えなかった。
ジノの手元と顔を見て、何か考えている。
そのとき、道を近づく杖の音がした。
*
「その鍵を、見せてもらえるかの」
村長は母に腕を添えられ、石段の前へ立った。
ジノが差し出すと、村長は鍵を取らずに顔を近づけた。
黒い持ち手。触れずに浮く輪。
村長の指が、杖を握り直した。
「どこで、これを?」
「帰らずの門だよ。地下の部屋に、台座があって」
「……あそこに、あったのか」
村長は遺跡のある山を振り返った。
アレンが立ち上がる。
「この鍵について、ご存じなんですか?」
「実物を見るのは初めてじゃ。祖父から、話を聞いておっただけでな」
村長は鍵を掲げるジノへ、もう少し下げるよう手で示した。ジノの腕が疲れてきたことに、気づいたらしい。
「お前たちには、あの門へ入るなとばかり言ってきた」
「名前を呼ばれても、返事しちゃいけないって」
「うむ。危ない場所なのは、本当じゃ。しかし、もっと昔には、人々が集まる場所だったという」
ジノは、地下の壁を思い出した。
「絵があったよ。畑に水を流してる人とか、岩を持ち上げてる人。それから、真ん中に、大きな人がいて」
「あの遺跡を建てた者たちが、崇めていた神じゃろう」
村長は、言葉を確かめるように続けた。
「世界を創り、人間に鍵を授けた、神王。この村には、その名が残っておる」
アレンが腰の革筒へ触れた。
ジノはその動きを見てから、村長へ顔を戻した。
「この鍵も、その神様が?」
「神が、世界の人々が争わず、支え合って暮らせるように与えたもの。そう伝わる鍵を、神律の鍵と呼ぶのじゃ」
ジノは井戸の石を見た。
持ち上げれば、誰かの役に立つ。
投げつければ、家を壊してしまう。
空の上でアレンに言われたことが、今は目の前にあった。
「……さっきの男の人も、持ってたよ」
「そうじゃな」
村長の声が低くなった。
「人に託したものを、人がどう使うかまでは、神にも決められんかったのかもしれん」
風が吹き、集会所の戸が小さく鳴った。
村長は黒い鍵へ、もう一度目を向けた。
「祖父は、黒い鍵についても言っておった。『黒き鍵は、神王を護る者へ渡る』と」
ジノは顔を上げた。
「ぼくが?」
「言い伝えのとおりならな。ただ、それ以上は、わしにもわからん」
村長はアレンを見た。
「お前さんは、その名に心当たりがあるようじゃが......」
アレンが金の鍵を取り出した。
鳥の形の持ち手が、夕日に光った。
「俺の家にも、『神王を護る』という教えが残っています。この国の金の鍵と、一緒に受け継いできたものです」
「そうであったか」
「ただ、何をすればその使命を果たせるのか、完全にはわかっていません」
ジノは二本の鍵を見比べた。
台座に浮いていた黒い鍵と、家族から渡された金色の鍵。
同じ言葉が、その両方に残っている。
「……神王って、今もいるの?」
「わからない」
アレンは金の鍵を収めた。
「俺も、知っていることばかりじゃないんだ」
ジノは自分の鍵へ目を落とした。
村長の話を聞く前と、重さは変わらないはずだった。
けれど、持ち帰って引き出しへしまうだけでは済まなくなった気がした。
*
村長が集会所へ入ったあと、アレンはジノの前にしゃがんだ。
「俺は今、鍵を悪用する事件を調べてる。ほかの国の金の鍵の継承者にも会って、話を聞きたいと思っている」
「アレンみたいに、受け継いでる人?」
「ああ。それに、一緒に動いてくれる鍵使いも探してる」
ジノは顔を上げた。
アレンは崩れた倉庫を見た。
「ルフは人を運べるし、戦うこともできる。ただ、あの屋根を支えながら、別の場所を守ることはできなかった」
そこで、ジノへ視線を戻す。
「今日、ジノがいてくれて、助かったよ」
「でも、あれは……」
「腕の力だけの話じゃないよ」
アレンは、ジノが続きを話すのを待った。
ジノは口を閉じた。否定するための言葉ばかり、先に出そうになっていた。
「ガドのところへ戻ったのは、ジノだ。遺跡で俺を押しのけて落石から助けてくれたのも」
母が、少し離れて立っていた。
アレンはジノへ手を差し出した。
「俺と一緒に旅をしてみないか。鍵を悪用する奴らを止めるために、力を貸してほしい」
ジノはその手を見た。
橋のなかった岸でも、同じように差し出された手だった。
「……ぼくでもいいの?」
「ジノに、頼んでるんだ」
遠くの道が、頭に浮かんだ。
空から見えた、丘の向こうへ続く道。
あそこへ行くことを、自分が選べるのだろうか。
「でも、またあんな男がいたら」
「危険はある。今日より、厳しいことだってあると思う」
アレンは手を下ろした。
「今、決めなくていい。今夜は村長の家に泊めてもらうから、家族と話してくれないか?」
ジノは母のほうを見た。
妹が母の服を引き、何か話している。
あの二人を、村へ残していく。
胸の中で広がりかけたものが、そこで止まった。
「……うん」
ジノは石段から立ち上がった。
*
夜、村長の家には明かりが残っていた。
アレンは村長の卓へ、銅の鍵と、男から取り上げたコンパスを並べた。
捕らえた男は石造りの蔵へ入れられ、大人たちが交代で見張っている。町へ出した使いが、衛兵を連れて戻る手はずだった。
「鍵を預かっていれば、獣は呼べんのじゃな」
「はい。神律の鍵は、持ち主が変われば、扱う人間も変わります。元の持ち主だけが使えるものではありません」
村長は卓へ手を置き、重く息を吐いた。
「それなら、金目のもの以上に狙われるわけじゃ」
アレンは銅の鍵を、自分のコンパスの縁へ当てた。
針が鍵から離れ、次の方角を探す。
登録を終えた鍵を布で包み、革筒へ収めた。
「衛兵の方への説明を、お願いできますか。起きたことは、今のうちにお伝えします」
村長は紙を引き寄せた。
「聞こう。わしも、ただの物盗りとは思えん」
*
ジノの家では、卓の上に旅袋が開かれていた。
ジノは着替えを畳み、袋へ入れた。
少しして取り出し、向きを変えて入れ直す。
「まだ、返事はしてないんだろ?」
母に声をかけられ、ジノは手を止めた。
「……うん」
片づけているだけ、と言うつもりだった。
袋を見れば、すぐわかる。
母は向かいに座り、焼いたパンを置いた。隣の部屋から、眠った妹の小さな寝息が聞こえる。
「行きたいんだろ?」
ジノは答えず、卓の木目を見た。
「けど、ぼくがいなくなったら、水とか、薪とか……」
「そうだね。手は減るよ」
母は、何でもないようには言わなかった。
「寂しくもなる。あんたが無事か、毎日考えるだろうね」
ジノは袋の口を閉じかけた。
その手へ、母の手が重なった。
「でも、今は、あんたがどうしたいかを聞いてるんだよ」
ジノは顔を上げた。
母は続きを言わずに待っていた。
ジノは黒い鍵を卓へ置いた。
「ちゃんと、使えるようになりたい」
母がうなずく。
「今日は助けられたけど、次はわからないんだ。あんなに大きいのに、何をしたらいいかわからなくて……それが、嫌だった」
屋根の下で、ガドに逃げろと言われた。
あの手があっても、もう一度、大人たちに助けてもらった。
「アレンと行きたい。ぼくにもできることがあるなら、やってみたいんだ」
母は卓の鍵ではなく、ジノを見ていた。
「今日、あんたが倉庫へ走っていくのを見てた」
「……うん」
「呼び止めようと思ったよ。危ないから、こっちへ来なさいって」
母の指が、ジノの手の傷へ触れた。
「でも、あのときのあんたは、自分で行くって決めてたんだね。とても力強い眼差しで、母さんうれしかったよ」
ジノは小さくうなずいた。
「今も、同じ顔をしてるわ」
「どんな顔?」
「自分のやりたいことを、ちゃんと見つけた顔だね。それに、人から必要とされることはとても大切にしなきゃいけないことなんだよ」
母の目元が緩んだ。
ジノは返事を探したが、言葉にならなかった。
母がパンを布で包み、旅袋へ入れた。
「行きたいんだろ、あの男の人と。行っておいで!」
袋の底に、パンが収まる。
母の手が離れてからも、ジノはそこを見ていた。
「うん。ありがとう、お母さん」
黒い鍵を手に取り、持ち手を胸へ寄せた。
「ぼくはどうしても、行かなきゃいけない気がするんだ」
明日、あの人へ返事をする。
誰かに連れていかれるのではなく、自分から。
――第四話・終
第4話「大きな使命」を読んでくださり、ありがとうございます。
ガドの謝罪で、これまでの怖さがすぐに消えるわけではありません。
「本当に、やめてくれるの?」と伝えるジノの言葉も、大切にしたいと思いました。
そして、初めて自分の進むべき道を見つけた息子と、それを受け止める母親。
寂しさも心配もある中での「行っておいで」が、ジノの背中を押してくれました。
次回、いよいよ村の外へ。
見送る人たちにも、目を向けてもらえたらうれしいです。




