第25話 反撃の糸口
屋敷の脇の通路で、銀の神律の鍵がひねられた。
玄関の横を、細い緑の光が走った。
庭の塀を越えた蔓が、窓枠へ伸びる。
――絡蔓のアンペロス。
「ジノ! アレン!」と、テオナは声を上げた。
ジノが振り向いた。
屋敷の脇へ続く通路から、赤い髪が見えた。
その後ろに、大きな肩。
ドルガンは亀を見た瞬間、足を止めた。
「……おいおい。なんで、そいつが!」
「鍵を奪われた! レグナート卿は、中だ!」と、アレンは声を上げた。
「ご夫婦は、救護所の職員と、手当てをしてくれた兵士にお願いしてあるわ!」と、テオナは声を上げた。
ドルガンの顔から、笑みが消えた。
甲羅の上のバートを見る。
それから、屋敷へ。
「先に、中の人を出すわ!」
テオナは庭を横切らず、来た通路を戻って裏へ回った。
屋敷の使用人が、厨房の裏口を開ける音がする。
ドルガンはゴーグルを目元へ下ろし、銀の鍵を抜いた。
「解錠!」
巨大な槌が、庭の上へ現れた。
――震槌のミョルニル。
黒鉄の溝を、青い光が走る。
「アレン! 上を取れるか!」と、ドルガンは声を上げた。
「ああ!」
アレンは息をのんだ。
ルフが、再び飛んだ。
ミョルニルは、甲羅の正面へ。
ジノは掌を低く構え、亀と屋敷の間を守る。
屋敷の前は、ジノが塞ぐ。
その間に、ルフが上から、ミョルニルが正面から迫った。
どちらかの攻撃で、バートを甲羅の上から追い出せれば。
バートが、ルフを見上げた。
「卿の出動には、何度も同行しました。どう身を守り、どう向きを変えるのか。それは、よく覚えています」
鍵を手にしたばかりでも、目の前の鍵現神を知らないわけではなかった。
アスピドケロンが、脚を曲げた。
石の頭が引っ込み、甲羅の縁へ隠れる。
ミョルニルが、落ちた。
ガァンッ!
甲羅の斜面に当たった槌が、横へ弾かれた。
ジノは、顔をかばった。
石の粉が、庭へ散る。
ルフの爪が甲羅の頂へ迫ったとき、バートはもう、反対側へ滑り下りていた。
「また……!」と、アレンは声を上げた。
ドルガンは、弾かれた槌を宙で止めた。
その瞬間、アスピドケロンの頭が突き出た。
甲羅の前縁をかすめるルフへ、下から突き上げるように。
石の鳥は自ら翼を打ち、身体をひねった。
太い顎が、その脚のすぐ下を通る。
ジノは、巨人の掌を差し込んだ。
ルフの代わりに、石の頭を受ける。
ズンッ!
巨人の手が、後ろへ押された。
その手首が、屋敷の玄関脇へぶつかった。
壁の端から、石が落ちる。
「……っ!」
ジノは息をのんだ。
掌を、戻せない。
ここを空けたら、アスピドケロンが屋敷へ届く。
バートの姿が、甲羅の陰から現れた。
「鍵使いを狙うなんて、それくらいは、こちらも承知しています」
バートは、三人を見下ろした。
「守らせておけば、来る方角は限られる。力がいくつ増えても、扱う者が動きを読まれていては、同じことです」
ドルガンは、槌を構え直した。
青い光が、また走る。
だが、振り下ろさなかった。
向こうには、屋敷がある。
大門の外のように、思い切り地面を叩くことはできない。
それを、バートも見ていた。
*
客間では、担架が床へ広げられていた。
医師が頭を支え、使用人とセオルが、レグナート卿の身体を慎重に移す。
テオナは厨房の裏口から入り、廊下を抜けて客間へ来た。
「手伝うわ。どこを持てばいい?」
「そちらの、足の側を。頭は私が支えます」と、医師は言った。
テオナはうなずいた。
セオルは父親の肩へ、毛布をかけた。
窓が震えた。
庭の方で、壁の崩れる音がする。
セオルの手が止まった。
「セオル!」
セオルが顔を上げると、テオナがまっすぐに見つめていた。
「この先、どっちへ行けばいい?」
セオルは、厨房へ続く廊下を見た。
その向こうの道を、頭の中でたどる。
細い通り。
角を二つ曲がれば、荷物を運ぶための水路沿いへ出る。
ドルガンの、修繕仕事を手伝ったことがある場所。
「水車の修繕小屋へ。川沿いの、使ってない方です」と、セオルは言った。
「ドルガンも知ってる?」
「はい。裏の通りを北へ行って、石橋の手前を曲がれば……」
「わかった。まずは、そこまで運びましょ。アレンたちには、あたしが知らせる」
セオルは、握った担架の柄を見下ろした。
担架の頭側を使用人が、足側をセオルが持つ。テオナはセオルの隣から枠を支え、重さを分けて受けた。
医師はレグナート卿の頭のそばを歩き、様子を確かめながら、揺れを小さくするよう声をかける。
「……持ち上げます」と、セオルは言った。
担架が、床を離れた。
セオルは言葉を継いだ。
「ゆっくり。そこに、段差がありますので」
廊下から厨房を抜け、裏口の敷居を越える。
薄暗い通りへ、夕日の残りが差していた。
父親の身体を揺らさないように、セオルは歩幅を合わせた。
最初の角を曲がれば、屋敷の庭からは見えなくなる。
そこまで運んでから、医師の指示で、担架をゆっくり地面へ下ろした。
「ここで、少し待っていて。三人にも逃げてもらわなきゃ」と、テオナは言った。
「……うん。行き先は、石橋の手前の修繕小屋だ。ドルガンなら、知ってる!」
テオナはうなずき、屋敷の脇の通路へ引き返した。
*
庭では、巨人の手が、まだアスピドケロンの頭を押さえていた。
ジノの息が、短くなっていた。
門で、人を運んだ。
そのあとも、何度も腕を動かしている。
指先を止めているだけなのに、脚から力が抜けそうだった。
「ジノ! こっちを見ろ!」と、ドルガンは声を上げた。
ゴーグルの奥から、声が飛んだ。
「亀の頭、左へ流せ! 押し返すな!」と、ドルガンは声を上げた。
ミョルニルが、掌の横へ滑った。
殴るのではない。
巨大な槌の頭を、アスピドケロンの顎の横へ差し入れる。
ジノは掌を少し傾けた。
アスピドケロンが前へ押す力を、横へ。
石の頭が、庭の空いた方へ逸れた。
ジノは息を吸った。
ほんの少し、屋敷の壁から離れた。
そのとき、塀の上へ蔓が伸びてきた。
蔓の先が、玄関脇の柱へ二度触れる。
屋敷の脇の通路で、テオナがドルガンを手招きしていた。
アレンも、その姿に気づいた。
「ドルガン、話を聞いてくれ。ここは、俺とジノで持たせる」
ドルガンはミョルニルをアスピドケロンの顎の横へ残し、通路へ数歩下がった。
テオナが陰から近づき、彼だけに聞こえる声で伝える。
「みんな、裏へ出たわ。角の陰で待ってる。行き先は、石橋の手前の修繕小屋。あたしは、担架を運ぶのに戻るから」
「おっし、わかった。そっちは任せるぞ!」と、ドルガンは声を落として答えた。
テオナは蔓を戻し、裏へ引き返した。
ドルガンはアレンのそばへ戻り、行き先を短く伝える。
アレンは、屋敷を見た。
客間の窓。
開いた玄関。
もう、そこを守り続ける必要はない。
「ジノ、下がるぞ!」と、アレンは声を上げた。
「でも、鍵が……!」と、ジノは声を上げた。
「今、ここでは取り戻せない! 全員で戻る!」
甲羅の上で、バートが顔を動かした。
テオナが去った通路の入口を見ている。
アレンはルフへ、甲羅の頂をかすめる動きを思い描いた。
石の翼が、バートの頭上を覆った。
バートが身を伏せる。
その間に、ドルガンが、ジノの肩へ手をかけた。
「ジノ! お前も無事に逃げるんだ!」
大きな革手袋が、強く押した。
屋敷の脇の、狭い通路へ。
ジノは、走った。
巨人の腕を戻す。
ドルガンもミョルニルを戻し、そのあとへ続いた。
アレンはルフの動きでバートを牽制しながら、二人を追った。
背後で、生垣が潰れる音がした。
アスピドケロンが向きを変えている。
けれど、大きな甲羅は屋敷と塀の間へ入れなかった。
アレンは角を曲がる前にルフを戻し、通路を駆け抜けた。
角の先で、担架を囲んで待つセオルたちと合流した。ドルガンが足側の持ち手をセオルから引き継ぎ、一行は水路沿いの修繕小屋へ急いだ。
ジノは、振り返らなかった。
振り返ったら、足が止まりそうだった。
*
使われていない修繕小屋は、水路の脇にあった。
表の通りからは、板塀と低い屋根に隠れている。
ドルガンが戸を開け、医師と使用人の指示に合わせて、担架を中へ運び込んだ。
テオナは近くの通りへ出て、追ってくる人影がないか確かめる。
アレンは戸口に立った。
「あいつは亀を戻して、追ってくる。兵士にも捜させるはずだ」と、ドルガンは言った。
「長くは、いられないな」
「ああ。ここも、俺が仕事に使ってた場所だ。あいつの部下に知られてねえとは限らねえ」
ドルガンは、担架のそばの医師へ向き直った。
「先生。ここでは、何をすればいいですか?」
「傷を手当てし直します。水と、清潔な布を。処置が済んだら、次の場所へ運ぶ準備をしてください」と、医師は言った。
使用人が小屋の水桶を確かめ、ドルガンは棚から修繕用の未使用の布を取り出した。
レグナート卿は、目を閉じていた。
医師が呼びかけると、かすかに返事がある。
セオルは、担架の横へ腰を下ろした。
ジノも、壁へ背中を預ける。
手が、震えていた。
巨人の腕。
あれだけの力があっても。
「……鍵、取り戻せなかった......」と、ジノは言った。
セオルは顔を上げなかった。
ジノは言葉を継いだ。
「ごめんね、セオル」
床に、ぽたりと汗が落ちた。
医師と使用人が処置を続ける間、ジノたちは言葉を探した。
外で、水車の回る音がした。
使われていないこの小屋ではなく、水路の少し上流にある、別の水車の音。
セオルが、ゆっくり顔を上げた。
「……父さんを、外へ出せた」
ジノは、セオルを見た。
セオルは言葉を継いだ。
「僕だけじゃ、運べなかった。あそこで止めてくれなかったら、ここにも来られなかった」
セオルの目は、赤くなっていた。
ジノは何も言えず、うなずいた。
ドルガンが、その隣へ膝をついた。
「お前らが止めたから、卿を運べた。それだけでも上出来だ。鍵を取り戻すのは、これから考えようぜ!」
大きな手が、二人の間の床へ置かれた。
ドルガンは言葉を継いだ。
「次に、どうする?」
セオルは、腰の帳面を取り出した。
角が折れ、表紙には、父親を支えたときについた水の跡があった。
少年は、それを開いた。
街と、水路の地図。
ジノは、そのページを見た。
セオルの指が、一本の細い線をたどる。
大通りから離れ、街の西へ回り込む、水路。
「アスピドケロンは大きい」と、セオルは言った。
アレンが振り向いた。
セオルは言葉を継いだ。
「だから、あの通路には入れなかった。屋敷を回るにも、向きを変えなきゃいけなかった」
鉛筆を持つ指が、止まる。
セオルは言葉を継いだ。
「僕たちが、どこを守るかは、向こうに見られてた」
今度は、帳面から顔を上げた。
「だったら……バートが、どこを通るかも、考えられるかもしれない」
「狭い道を避けさせるだけなら、鍵現神を戻して逃げられるぞ」と、アレンは言った。
「……うん。だから、甲羅の上にいれば安全だと思わせて、乗ったまま船着き場まで来させたいんです」
鉛筆の先が、地図の上を行き来した。
まだ、答えではない。
それでも、相手の力を見上げるだけでは、なくなっていた。
修繕小屋の外で、水の音が続いていた。
セオルは、地図の上へ小さく丸をつけた。
*
街の西側を流れる水路。
その脇を通る道が、石橋の先で、少しだけ広くなっている。
「そこに、何かあるの?」と、ジノは尋ねた。
「昔、荷物を積み下ろすのに使っていた場所です。今は、ほとんど使われていなくて」と、セオルは言った。
「ああ。石壁のある、古い船着き場か!?」と、ドルガンは言った。
アレンが、地図へ顔を寄せた。
「ここなら、屋敷を巻き込まずに戦えるかもしれません」と、セオルは言った。
ジノは、地図をのぞき込んだ。
屋敷の庭で、アスピドケロンに押し戻された巨人の掌を思い出す。
「でも、あの甲羅は硬かったよ。どうやって止めるの?」と、ジノは尋ねた。
セオルは、鉛筆を握り直した。
「……アスピドケロンと、正面から戦わなくてもいけそうなんです」
「どういうことだ?」と、アレンは尋ねた。
「父さんの鍵を使っているのは、バートです。だったら、アスピドケロンではなく、バートを捕まえれば……」
「鍵を取り戻せる?」と、ジノは尋ねた。
セオルは、うなずいた。
「屋敷では、父さんたちを守るために、僕たちが動ける場所を限られていました。でも、船着き場なら、みんなが別の方向から動けます。甲羅の陰へ逃げても、その先に誰かが待っていれば……」
「バートを捕まえて、鍵を取り戻せる」と、アレンが言った。
セオルは、小さくうなずいた。
――第25話・終
第25話「反撃の糸口」を読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、相手を倒すためではなく、みんなで生きて逃れるための戦いでした。
前を支える人、怪我人を運ぶ人、逃げ道を伝える人。
それぞれの動きが、退避につながっています。
逃げた先では、セオルが次の道を考え始めました。
怖さも疲れも残る中で、それでも自分にできることを探しています。
一人で答えを出さなくてもいい。
そのことを、彼は仲間たちと知っていくのかもしれません。




