第24話 奪われた誇り
玄関から、急いだ足音が戻ってきた。
使用人に続き、鞄を持つ年配の医師が客間へ入る。
「救護所へも、伝えました。お二人は、怪我人を中へ運んでから、すぐに戻ると......」と、屋敷の使用人は言った。
「救護所から参りました。頭を打った方は、こちらですね?」と、医師は言った。
アレンは場所を譲り、経緯を短く伝えた。
医師が傷と呼吸を確かめ、使用人へ水と布を頼む。
その指示が聞こえて、ようやくセオルの肩が少し下がった。
「……お願いします」と、セオルは言った。
セオルが立ち上がり、ジノとともに机の脇へ下がった。
机には、警備隊が持ち込んだ書類が残っていた。
獣の目撃を記した報告。
日付と、場所と、届けた人の名前。
アレンは、廊下と窓の外へ目を配りながら、それを一枚めくった。
部屋への入り口を、確かめている。
ジノも、開いた客間の扉を見た。
今度は、ここを守らなければ。
門の前で広げた掌を、思い出した。
そのとき。
ドンッ。
床が、低く鳴った。
水差しの破片が、触れ合った。
「……何?」と、セオルは尋ねた。
もう一度。
今度は、窓の桟が震えた。
アレンが、庭に面した窓へ寄る。
玄関の方から、使用人の声が上がった。
「門の外に……何かが!」と、屋敷の使用人は声を上げた。
ジノは、窓のそばへ駆けた。
庭の向こう。
開いていた屋敷の門が、巨大な影で塞がれている。
積み上げられた岩のような、丸い背。
その下で、石の脚が地面を踏んだ。
生垣が、低く沈む。
巨大な亀だった。
けれど、荷車を何台も並べたより大きい。
甲羅を覆う石の板が、一枚ずつ、夕日を受けていた。
セオルの手が、窓枠へ触れた。
「……アスピドケロン!」と、セオルは言った。
声は、ひどく小さかった。
ジノはセオルを見た。
セオルの視線は、庭の向こうから動かなかった。
セオルは言葉を継いだ。
「父さんの鍵現神だ!」
巨大な石の頭が、屋敷へ向いた。
その甲羅の上に、人影が立っていた。
顔を布で隠し、片手に鍵を持っている。
石の亀をかたどった、持ち手。
夕日に照らされ、金色に輝いていた。
石の鍵現神の上の人物が、ゆっくり腕を下ろす。
その動きに合わせるように、巨大な脚が、庭へ入った。
「窓から離れろ!」と、アレンは声を上げた。
ジノは、セオルの肩を引いた。
背後には、治療を受ける父親がいる。
さっきまで、この家を守っていた人。
その人から奪われた力が、今、こちらへ向かっている。
石の脚が、もう一歩、踏み出した。
*
窓の外で、石の頭が持ち上がる。
その奥に、山のような甲羅。
アスピドケロンの前脚が、庭の石畳を踏んだ。
ズンッ。
床が揺れ、机の上から紙が滑り落ちた。
医師が、レグナート卿の頭を押さえる。
「父さん!」と、セオルは声を上げた。
「セオル、先生のそばにいてくれ! ジノ、俺と外へ!」
ジノの手は、もう黒い鍵を握っていた。
窓から一歩離れ、客間の出入口へ向き直る。
背後では、セオルが父親を呼び続けていた。
*
玄関を出ると、影が降ってきた。
アスピドケロンの甲羅が、庭の向こうの夕日を隠している。
ジノは、その大きさに足を止めかけた。
門の外で襲ってきた黒い獣とは、違う。
石の脚一本が、ジノの背よりも大きかった。
「解錠!」と、アレンは声を上げた。
庭の上へ、石の翼が広がった。
ルフは現れるなり、屋敷と亀の間へ降りた。
アレンとジノは玄関の右脇へ寄った。二人の前でルフが亀を止め、その背後に客間と玄関がある。
屋敷の右側には、裏口へ続く、人が二人ほど並べる細い通路があった。
翼を開き、頭を低くする。
アレンは甲羅の上を見た。
「その鍵を返せ!」
顔を布で覆った男は、答えなかった。
片手に持つ金の鍵が、光った。
アスピドケロンの頭が、ルフへ向く。
「解錠!」と、ジノは声を上げた。
光の扉から、巨人の腕が伸びた。
ジノは掌を立て、石の亀の胸元へ差し入れた。
ここから先へ、来させない。
巨人の掌が、硬い石に触れた。
ズッ、と足元の土が鳴った。
アスピドケロンは、止まらなかった。
「……え?」と、ジノは尋ねた。
巨人の指が、石の身体を押している。
それなのに、掌の方が後ろへ動いていた。
ジノは歯を食いしばった。
もっと、強く。
屋敷へ近づけないように。
巨人の前腕に力がこもり、掌がわずかに亀を押し返した。
その瞬間、甲羅の上の鍵使いが身を低くした。
石の亀の前脚が、地面を強く踏む。
身体が斜めに向いた。
丸い甲羅の縁が、巨人の指を横へ押し流した。
「うわっ!」
思いどおりに止まらない掌を追うように、ジノは前のめりになった。
アレンが腕をつかむ。
「まっすぐ押し返さないほうが良さそうだ! 向きを変えられるぞ!」
巨人の腕が横へ逸れ、庭木の枝が折れた。
亀の身体が、その空いた場所へ入ろうとする。
ルフが、自ら前へ踏み込んだ。
石の翼を肩のように当て、亀の頭を屋敷と反対側へ押す。
重い石の擦れる音が、庭に響いた。
ジノは息をのみ、巨人の掌を戻した。
今度は、押すためではなく。
屋敷との間を、塞ぐために。
*
アレンは、甲羅の上へ目を凝らした。
神律の鍵を奪った相手を、止めなければならない。
甲羅を砕く必要はない。
あそこにいる鍵使いへ、届けばいい。
ルフへ、上を取る動きを思い描く。
石の鳥が亀の頭から離れ、翼を打った。
甲羅の上へ。
鍵使いは、空へ顔を向けた。
金の鍵を腰へ収め、両足を開く。
アスピドケロンが、首を引いた。
前脚を曲げ、身体全体を低くする。
ルフが甲羅の頂へ爪を伸ばしたとき、鍵使いは突き出た石板に手をかけ、屋敷と反対側の斜面へ身を伏せていた。丸い甲羅が、その身体をルフの爪から隠す。
「裏へ回ったか……!」と、アレンは声を上げた。
ルフが上空で向きを変える。
だが、亀の身体も動いた。
屋敷へ向かって、一歩。
「来る!」と、ジノは声を上げた。
巨人の掌が、石の胸を受け止めた。
ジノの膝が震える。
屋敷の壁まで、もう少ししかない。
アレンは、ルフを呼び戻した。
亀の頭の前へ、石の鳥が降りる。
二つの翼と巨人の掌が、並んだ。
甲羅の向こうから、鍵使いが立ち上がった。
顔の布へ、手をかける。
「よい判断です。あと少し追っていれば、屋敷に届いていましたよ」と、顔を布で覆った鍵使いは言った。
ジノは、目を見開いた。
布の下にあった、細い口髭。
大門の前で、一礼していた顔。
「……バートさん?」と、ジノは尋ねた。
バートは、外した布を首へ落とした。
上着の下には、見覚えのある鎧がのぞいていた。
「お前が、レグナート卿を!?」と、アレンは言った。
「私が殴ったわけではありません。部下たちが届けた鍵を、受け取っただけです」と、バートは言った。
ジノの胸が、冷たくなった。
人を傷つけた話をしているのに。
大門の前で話していたときと、同じ声だった。
*
客間では、セオルが窓から離れた壁際へ寄っていた。
医師はまだ、父親の傷を処置している。
外から、石のぶつかる音。
ジノとアレンの声。
その間へ、バートの言葉が聞こえてきた。
「……バート」と、レグナート卿は言った。
その指が、床をつかんだ。
起き上がろうとする肩を、医師が支える。
「いけません。動かないでください」
「私が……任せてしまったんだ」
セオルは父親を見た。
「街の見回りも。報告も……あの者に」と、レグナート卿は続けた。
その目が、窓へ向いていた。
セオルは、椅子の上の帳面を取った。
机に残された報告書の中から、獣の目撃情報が記されたものを取り、帳面へ挟んで腰の鞄に入れる。中身を確かめる時間はなかったが、父親を襲った二人が持ち込んだものを、すべて置いていくわけにはいかなかった。
自分で見たこと。
人から聞いたこと。
分けて書いた文字が、開いたページに並んでいる。
父親に伝えれば、何かが変わると思っていた。
その父親が、今は床に横たわっている。
「セオル様。どちらへ逃げれば……」と、屋敷の使用人は言った。
セオルは、顔を上げた。
客間の正面は、亀がいる庭。
玄関も、同じ庭へ出る。
廊下の奥。
台所。
その先の、使用人が出入りする裏口。
「……裏へ」と、セオルは言った。
使用人が、顔を寄せる。
セオルは言葉を継いだ。
「厨房の裏口なら、細い通りへ出られます。父さんを、運ばないと!」
「頭を揺らさずに運べるものは、ありますか?」と、医師は言った。
「物置に、担架が。堤の事故のあと、使ったものがあるはずです」
「取ってまいります!」と、屋敷の使用人は声を上げた。
使用人が部屋を飛び出した。
セオルは床へ膝をつき、父親の手に触れた。
「父さん。外へ出るよ」
父親の目が、息子を見た。
セオルは言葉を継いだ。
「ここにいたら、危ないから」
声が震えた。
それでも、最後まで言った。
*
「何のために、こんなことをした!?」と、アレンは言った。
バートは甲羅の上から、屋敷を見渡した。
「その鍵も、渡していただきたい」
アレンは答えなかった。
バートは言葉を継いだ。
「金の鍵が、二本。あなたがこの街へ来ると知ったときは、驚きましたよ」
ジノは、アレンを見た。
バートの狙いは、レグナート卿の鍵だけではない。
アレンが、ジノの前へ少し出た。
「渡すと思うのか?」
「屋敷の中には、動けない方がいるのでしょう」
亀の頭が、ゆっくり下がった。
ジノは、巨人の指を広げた。
壁のように。
相手の言葉を聞くより先に、身体がそう動いていた。
バートは言葉を継いだ。
「門での働きは、部下から聞きました。怪我人ばかりか、馬と荷車まで。ずいぶん、手がかかったようですね」
アレンの目が、細くなった。
門の前の戦い。
その間に、レグナート卿の鍵が奪われていた。
「俺たちを、大門で足止めしていたのか!?」と、アレンは言った。
「あなた方が揃って、屋敷に戻られては困りますから」
ジノは、巨人の掌の先を見た。
あの二人が、乗っていた場所。
荷車の男性が、妻の手を握っていた姿が浮かぶ。
「あの人たちが、死んでもよかったの?」と、ジノは尋ねた。
「だからこそ、あなた方は助けたのでしょう」
ジノは息を止めた。
返事になっていない。
でも、何を言われたのかは、わかった。
助けようとすることまで、使われた。
巨人の指が、強く曲がりかける。
「ジノ......」と、アレンは言った。
声がした。
アレンは言葉を継いだ。
「屋敷を守れ。今は、それだけを考えろ!」
ジノは、奥歯を噛みしめた。
指を開き直す。
「……うん」と、ジノは言った。
腹が立った。
怖かった。
それでも、あの二人を助けなければよかったとは、思わなかった。
――第24話・終
第24話「奪われた誇り」を読んでくださり、ありがとうございます。
人を守ってきた金の鍵が、今度は屋敷へ迫る力になってしまいました。
同じ力でも、使う人が変われば向けられる先が変わってしまいます。
その光景は、レグナート卿にもセオルにも、つらいものだったと思います。
圧倒されながらも、ジノは助けたことを後悔しませんでした。
目の前で守るべきものを見失わない、その踏ん張りを見届けてもらえたらうれしいです。




