第26話 大男の信頼
修繕小屋の外で、戸が小さく鳴った。
アレンが振り向く。
戸の隙間から、赤い髪がのぞいた。
「あたしよ」と、テオナは言った。
アレンが戸を開け、テオナを中へ入れる。
テオナは言葉を継いだ。
「近くの通りには、まだ誰も来てない。だけど、大通りの方から兵士の声が聞こえたわ」
レグナート卿のそばでは、医師と使用人が処置を続けていた。
テオナは二人の様子を確かめ、セオルの横へしゃがんだ。
「何かわかった?」
セオルは地図をテオナへ向けた。
「ここで、バートを甲羅から引き離せないかって、話していたところです」
「甲羅から……」
テオナは、地図の丸と、セオルを見た。
「あたしの蔓なら、上まで伸ばせるかもしれない」
「ルフが上から迫れば、バートもそっちを見る。蔓で狙う隙ができるかもな」と、ドルガンは言った。
「その間、アスピドケロンが動いてきたらどうする?」と、アレンは尋ねた。
「ぼくとドルガンで、前を止める。さっきみたいに、力を合わせて」と、ジノは言った。
屋敷の庭で、巨人の掌の横へ差し入れられたミョルニル。
二人で亀の頭を、屋敷から少しだけ離すことができた。
ジノは、ドルガンを見上げた。
「また押されたら、どうすればいいか教えて!」
「ああ。やってやろうぜ!」と、ドルガンは言った。
大きな革手袋が、ジノの肩を軽く叩いた。
「バートは、アレンの金の鍵を欲しがっていました。アレンを追って、船着き場まで来てくれたら……」と、セオルは言った。
「まずは、あいつが今どこにいるか確かめないとな。姿を見せるのは、それからだ」と、アレンは言った。
「はい」
テオナは地図の丸の横へ、指を置いた。
「ここの石壁の陰から、甲羅を狙えるかもしれない。蔓が届く距離かどうか、先に見てみるわ」
「俺が様子を見てくる。誰かいたら、離れてもらわねえとな。あの亀が来たとき、周りに人が残ってちゃ危ねえからよ」と、ドルガンは言った。
セオルは、鉛筆の先を止めた。
「……僕、そこを確かめずに話していました」
「だったら、確かめりゃいい!」
「あたしも一緒に行く。周りの道と、船着き場を見てくるわ」と、テオナは言った。
「兵士には気をつけてくれ。怪しい人影がいたら、無理をせず戻るんだ」と、アレンは言った。
「おう! わかった」と、ドルガンは言った。
*
セオルは、地図の丸を見つめた。
自分が思いついたのは、バートを引き離すことだけだった。
そこから、みんなが少しずつ、考えをつないでくれた。
それでも、胸の中の不安は消えなかった。
「……でも、うまくいくかはわかりません」と、セオルは言った。
四人が、セオルを見る。
セオルは言葉を継いだ。
「バートが追ってこないかもしれない。追ってきても、蔓を避けたり、アスピドケロンを戻したりしたら……」
「そのまま逃げられるかもしれないわね」と、テオナは言った。
アレンは、地図へ目を落とした。
「屋敷では、ルフが近づくと、バートは甲羅に身を隠した。同じことをするかもしれないが、決めつけるわけにはいかない」
「作戦が外れたら、無理には追わない。一度下がって、考え直そう」
「蔓が届きそうになかったら、あたしも無理はしないわ」と、テオナは言った。
「……みんなを、危ない目に遭わせるかもしれない」と、セオルは言った。
ジノは、セオルの地図を見た。
「ぼくも、さっきは怖かったよ。巨人の手を出しても、止められなくて」
ジノは、膝の上で自分の手を開いた。
「でも、ドルガンが声をかけてくれたから、一緒にあの亀を動かせたんだ」
少年は、セオルへ顔を向けた。
「今も、みんなで考えてるんだよ。セオルだけじゃない」
「……みんなで」と、セオルは言った。
誰か一人が、答えを決める。
そうしなければならないと思っていた。
父親が、いつもそうしていたように見えたから。
「細けえところは、確かめてから決めりゃいい」
ドルガンは地図の丸を、指先で軽く叩いた。
「道を探したのは、お前だ。確かめるのは、俺たちにもできる」
「うん。船着き場を見たら、すぐに戻るわ」と、テオナは言った。
「……ありがとう」と、セオルは言った。
「俺たちも、その間に卿を次にどこへ運ぶか、先生と考えておこう」と、アレンは言った。
小屋の入口へ目をやる。
アレンは言葉を継いだ。
「ここも、長くは安全じゃない。作戦を始める前に、卿の居場所を決める必要がある」
医師が、担架の横からうなずいた。
「状態を見て、運べそうなら私の診療所も考えましょう。ただ、道の安全を確かめてからです」
セオルは、父親の方を見た。
担架に横たわるレグナート卿が、静かに目を開いていた。
*
セオルは、すぐに父親のそばへ移った。
「父さん......」
医師が、傷の手当てを終えた布を片づける。
「……話が聞こえた」と、レグナート卿は言った。
セオルの手が、帳面を閉じた。
「鍵を、取り戻しに行ってくれるのか......」と、レグナート卿は続けた。
「まだ、道を確かめてからだよ。危なかったら、やめる」と、セオルは言った。
父親は、息子の顔を見た。
「私が……あの者たちを、信じていたばかりに」
セオルは、父親の手を握った。
セオルは言葉を継いだ。
「バートを信じていたのは、僕も同じだよ」
門で顔を合わせたとき、いつもどおり話しかけた。
父親が屋敷で襲われているなんて、思わなかった。
セオルは言葉を継いだ。
「だから、誰が悪かったかより……今、何ができるかを考えたいんだ」
父親の指が、わずかに動いた。
「……セオル」と、レグナート卿は言った。
少年は、握った手を離さなかった。
扉の方で、ドルガンが立ち上がる。
「卿。俺たちが、道を確かめてきます」
「……頼んだ」
ドルガンは深くうなずき、テオナとともに戸口へ向かった。
*
修繕小屋の戸が、静かに閉じた。
ドルガンとテオナは、水路沿いを西へ歩く。
水車の回る音が、後ろへ遠ざかった。
「セオル、小屋の場所をすぐに思い出したわね」と、テオナは言った。
「ああ。あいつは、俺の仕事によくついてきてたからな」と、ドルガンは言った。
「ただ見てただけじゃないでしょ。道も、水路も、ちゃんと覚えてる」
ドルガンは、口元を緩めた。
「あいつは黙って見てるようで、色々考えてやがる。頭のキレはピカイチだ」
テオナは、ドルガンの横顔を見上げた。
「知ってたのね!?」
「ガハハハ、まあな」
水路の向こうから、車輪の音が聞こえた。
ドルガンとテオナは、並んでいた木箱の陰へ寄る。
石橋の向こう。
兵士が二人、通りを歩いていた。
近くには、小さな荷車を押す町人の男性と、買い物籠を持った女性がいる。
兵士の一人が、声を張り上げた。
「レグナート卿を連れ去った者たちを捜している! 見かけたら、すぐに知らせるように!」と、警備隊の兵士は声を上げた。
テオナの目が、大きくなった。
「連れ去ったって……卿を?」と、町人の女性は尋ねた。
「卿の金の鍵も狙われた! 危険な連中だ。近づくな!」
「一行には、町一番の大男、ドルガンもいたと聞いている!」
ドルガンは、橋の向こうを見つめた。
声を上げた兵士の後ろに、もう一人、紙を持つ兵士がいる。
紙には、見覚えのある鳥の翼と、大きな手が描かれていた。
「……アレンとジノのこと?」と、テオナは尋ねた。
「ああ。バートが、先に言いふらしやがったな」と、ドルガンは言った。
「そんな。あたしたちは、卿を助けて……」
橋の向こうの町人たちは、不安そうに兵士へ質問を重ねていた。
屋敷で何があったのか、知らない人たちだ。
兵士の言葉を、疑う理由はない。
「戻るぞ。みんなに知らせねえと」と、ドルガンは言った。
テオナは、うなずいた。
二人が木箱の陰から離れようとした、そのとき。
カタン。
ドルガンの肩が、積まれていた空の木箱に触れた。
木箱が一つ、石畳へ落ちる。
橋の上の兵士が、音に振り向いた。
ドルガンは、足を止めた。
紙を持った兵士の目が、額のゴーグルと大きな身体を捉える。
「……ドルガンか?」と、紙を持っていた兵士は尋ねた。
テオナが、息をのんだ。
兵士の声を聞き、通りの人たちも振り返る。
その兵士は、ドルガンが知っている顔だった。
堤が崩れた日、一緒に人を運んだ兵士。
兵士の手から、紙がこぼれ落ちた。
「ドルガン! レグナート卿は、どこにいる!」と、紙を持っていた兵士は声を上げた。
ドルガンは、口を開きかけた。
けれど、兵士の目には、疑いと、レグナート卿を案じる切実な不安が浮かんでいた。
*
水路の向こうから、声が飛んできた。
ドルガンは、足元の木箱を見た。
それから、橋の上の兵士へ顔を上げる。
「生きてる。今、手当てを受けてるところだ!」と、ドルガンは言った。
「……生きているんだな?」
その肩から、わずかに力が抜けた。
隣の兵士は、逆に腰の剣へ手をかけた。
「動くな! そこで待て!」と、警備隊の兵士は声を上げた。
二人の兵士が橋を渡り始める。
テオナの指が、腰の鍵へ触れた。
ドルガンは、顔を向けずに、小さく首を振った。
「まだだ」
「……わかってる」と、テオナは言った。
石畳へ落ちた紙が、風に押されて水際へ滑った。
描かれているのは、石の鳥の翼と、大きな掌。
さっきまで人を守っていた力が、今は危険な連中の目印にされている。
テオナは、唇を結んだ。
*
兵士たちは、数歩の距離を残して止まった。
剣の柄を握る兵士の後ろから、ドルガンを知る兵士が顔をのぞかせる。
「俺が卿をさらったって、バートが言ったのか?」と、ドルガンは言った。
「隊長からの通達だ。屋敷を襲った鍵使いたちが、負傷した卿を連れ去ったとな」と、警備隊の兵士は言った。
「フン、逆だ。屋敷を襲ったのがバートだ。俺たちは、卿を助けて逃げてきたんだ」
「バート隊長が……? そんな話を信じろと?」
「あたしも見たわ。あの人、卿の鍵を使って、屋敷を壊そうとしていたのよ」と、テオナは言った。
兵士たちの顔が、変わった。
ドルガンは、その反応を見逃さなかった。
「知ってるのか。今、あいつが金の鍵を持ってることを」
「……隊長は、卿から預かったと。街を守るためだと、そう言っていたぞ?」と、紙を持っていた兵士は言った。
「預かったんじゃない。レグナートさんから直接、奪ったのよ!」と、テオナは言った。
「口では、何とでも言える!」と、警備隊の兵士は声を上げた。
兵士の剣が、鞘から少しだけ抜けた。
テオナは動かなかった。
ドルガンも、腰の鍵へ手を伸ばさない。
「そうだな。俺の言葉だけじゃ、わからねえよな?」
大きな両手を、ゆっくり身体の前へ出す。
革手袋の掌が、兵士たちへ向いた。
ドルガンは言葉を継いだ。
「だから、直接、卿に聞いてくれ」
「わかった。どこだ。案内しろ」と、警備隊の兵士は言った。
「先に、剣から手を離せ。怪我人のところへ、抜き身で連れていけるか」
声は低かった。
けれど、脅すようには響かなかった。
紙を持っていた兵士が、隣の兵士の腕へ触れた。
「待ってくれ」
「何を――」と、警備隊の兵士は言った。
「俺は、こいつと堤で働いた。濁った水の中へ入って、子どもを抱えて戻ってきたところを見てる」
ドルガンは、何も言わなかった。
兵士の目が、額のゴーグルから、大きな革手袋へ下りる。
「それだけで、今の話を全部信じられるわけじゃない。でも、剣を向ける前に確かめたい」と、紙を持っていた兵士は続けた。
隣の兵士は、柄を握ったまま黙っていた。
やがて、抜きかけた刃を鞘へ戻す。
カチン。
テオナは、鍵から指を離した。
――第26話・終
第26話「大男の信頼」を読んでくださり、ありがとうございます。
セオルの考えに、みんなが少しずつ意見を足していく。
作戦を考える時間にも、この五人それぞれの姿が見えるように書きました。
そして、ドルガンを見つけた兵士が選んだのは、すぐに剣を向けることではなく、まず確かめることでした。
以前、一緒に人を助けた記憶が、その判断につながっています。
噂と命令が先に広がる街で、彼らは互いの話を聞けるのでしょうか。




