第21話 帳面にない獣
客間を出ると、ドルガンが廊下の窓を開けた。
風が、庭の匂いを運んでくる。
ジノは、その隣で足を止めた。
「ドルガンは、セオルと長い付き合いなの?」
「ああ。こいつが俺の仕事場へ来るようになってから、何年か経つな」
「仕事場?」と、テオナは尋ねた。
「荷運びだの、壊れた水車や柵の修繕だの。手が足りねえところへ呼ばれて行くんだ」
「水車の仕組みを見たくて、ついていったのが、最初です」と、セオルは言った。
「それが、こっちが困るたびに、横から図を描くようになった」と、ドルガンは言った。
「……わからないところを、聞いてただけだよ」と、セオルは言った。
ドルガンは、答えずに笑った。
ジノは、その顔を見上げた。
「金の鍵、欲しくないの?」
「ガハハ……ありゃ、でけえ力だ。引き受けるなら、持つだけじゃ済まねえだろう」と、ドルガンは言った。
ジノは、腰の革筒へ触れた。
ドルガンは言葉を継いだ。
「お前も、困ったんじゃねえのか。初めて、その腕が出たとき」
「……うん」と、ジノは言った。
屋根を受け止めた手。
自分の思いと違う方向へ振れて、樽を壊した指。
ジノは言葉を継いだ。
「助けたかったのに、ほかの人まで怪我させそうで、怖くなったんだ」
「そうだろ? だから、何に使うかも考えず、もらいますとは言えねえよ。金の鍵の力は、その国を守る軍事力でもある。使い方を間違えりゃ、兵器にもなるんだ」と、ドルガンは言った。
セオルは、二人の横を通り過ぎた。
廊下の先で立ち止まり、帳面を開く。
ジノは追いついた。
「セオルは、受け継ぎたい?」
少年の指が止まった。
ジノは言葉を継いだ。
「あ、ごめん。言いたくなかったら……」
「父みたいに、なりたいと思ってました」と、セオルは言った。
ジノは、続きを待った。
セオルは言葉を継いだ。
「怖がっている人がいたら、大丈夫だって言える。あの人が来たなら助かるって、思ってもらえる。そういう人に......」
庭の木が、風に揺れた。
「でも、僕は、間違えたらどうしようって。考えている間に、誰かが先に動いてしまうんです」
門で上げかけていた手。
人の声に消えた、小さな言葉。
「ぼくも、怖くて動けなくなるよ。......一緒だね」と、ジノは言った。
セオルが、顔を向けた。
「でも、さっきは、セオルの考えを聞けたから、落ち着いて板を運べたんだ」
ジノは、帳面へ目を落とした。
「今も、何を聞きに行けばいいか、わかったしね!」
少年は、開いたページを見つめた。
「あたしも、その農夫の人が本当に獣を見たのか、気になるわ。歩きながらでも、話せるでしょ?」と、テオナは尋ねた。
「……うん」と、セオルは言った。
帳面が閉じられた。
セオルが、先に歩き出す。
ドルガンは少し後ろから、その背中を見ていた。
*
問屋の前では、麦の袋が積み下ろされていた。
セオルは、通りの向こうへ手を上げた。
「すみません。少し、聞いてもいいですか?」
荷車のそばで、農夫が顔を上げる。
門で、追加の銅貨を払っていた男性だった。
「おや。門のところで、荷車を助けていた……」と、農夫は言った。
男性はジノたちを見て、それからドルガンへ目をやった。
「ドルガンも一緒か。どうした?」と、農夫は尋ねた。
「こいつから、聞きてえことがあるんだとさ」
大きな手が、セオルの方へ向いた。
男性も、少年へ顔を戻す。
セオルは、帳面を開いた。
「昨日のことです。西の畑で、獣を見たと報告があったんですが……」
農夫の眉が、寄った。
「獣?」と、農夫は尋ねた。
「はい。あなたのお名前で、門に報告が出ていたので」
男性は、積んだ袋から手を離した。
「俺が見たのは、倒れた柵だよ」と、農夫は言った。
セオルの指が、止まった。
「昨日の朝、西の畑でな。杭が一本抜けて、麦が少し踏まれてた。見回りの兵が来たから、そう話したんだ」と、農夫は続けた。
「獣の姿は、見ていないんですか?」と、アレンは言った。
「ああ。夜に何か出たんじゃないかとは言ったが。足跡だって、俺には見分けがつかんからね」
テオナが、セオルの帳面へ顔を寄せた。
そこには、昨日、門の掲示から写した言葉があった。
西の畑。正午の鐘のころ。大型の獣を目撃。
「正午じゃなくて、朝、だったんですね?」と、セオルは言った。
「麦を積む前だ。鐘が鳴るころには、門の列にいたよ。あんたも、いただろ?」
少年は、ゆっくりうなずいた。
「はい。……ありがとうございます」と、セオルは言った。
新しいページに、男性の言葉を書き込む。
見たもの。
見ていないもの。
見た時刻。
掲示を写したページとは、分けて。
「それなら、報告が違ってる。俺は獣なんか見てないぞ?!」と、農夫は言った。
「そう書かれています。伝わる途中で内容が変わったのか、元の報告も確かめます」と、アレンは言った。
農夫は、口を結んだ。
それから、男性たちのいる問屋へ目をやり、声を落とした。
「見てないものは、見てない。それは、言っておいてくれ!」と、農夫は言った。
「……はい」と、セオルは言った。
「見回りを増やすからって、門で払う金ばかり増える......。早く帰らなきゃ門を閉めるって言う。こっちは、畑をやめるわけにもいかないんだ」
セオルの鉛筆が止まった。
男性は荷台へ上がり、残りの袋へ手をかけた。
「ほかの畑じゃ、本当に出てるのかもしれんがな。何がどうなってるんだか……」と、農夫は続けた。
*
問屋を離れても、セオルは帳面を開いていた。
ジノが、その横を歩く。
「昨日の正午に、あの人が門にいたのは、合ってたんだね」
「門にいたことは、合ってました。でも、報告がどうして違うのかは、まだ……」と、セオルは言った。
「ああ。一件だけで、全部が同じとは決められない。元の記録と、別の目撃者の話も確かめよう」と、アレンは言った。
「少なくとも、本人の話は掲示と違う。調べに来てよかったわね」と、テオナは言った。
セオルは、うなずいた。
帳面を閉じようとして、手を止める。
街の道を描いたページを、開き直した。
「……待って」と、セオルは言った。
ほかの四人も、足を止めた。
セオルは通りの先を見た。
麦の問屋から、大門へ続く道。
何台もの荷車が、同じ方向へ進んでいる。
セオルは言葉を継いだ。
「この時間、外へ戻る荷車が増えるんです。いつもなら、門が閉まる前には通れるんですけど……」
声が、途切れた。
カン、カン、カン!
鐘が鳴った。
昼の鐘とは違う。
短く、せわしなく、何度も。
大通りの人たちが、顔を上げた。
門の方から、兵士が走ってくる。
「獣が出た! 西の道だ! 大門を閉める!」
通りの先で、荷車が止まった。
男性の一人が、声を上げる。
「待ってくれ! 今日は、まだ時間があるはずだろ!」と、荷車の男性は声を上げた。
「警戒の鐘が鳴ったら閉門だ! 外へは出るな!」
アレンは、セオルを見た。
「大門は、どっちだ」
「……この先です!」と、セオルは声を上げた。
少年が走り出した。
ジノたちも続く。
角を曲がると、開いていた大きな門が見えた。
兵士たちが、左右の重い扉を押している。
開いていた門の隙間が、ゆっくり狭まっていた。
外へ向かっていた人たちが、押し戻されてくる。
その隙間から、門の向こうの麦畑が見えた。
畑を横切る道。
荷車が、一台。
こちらへ向かっている。
荷台には、誰かがうずくまっていた。
「あそこ、人がいる!」と、ジノは声を上げた。
馬の手綱を握る男性が、腕を振った。
「待ってくれえ! 怪我人がいるんだ! 開けといてくれ!」と、門の外の男性は声を上げた。
声が、届いた。
兵士の一人が、外へ顔を向ける。
「荷車が来る! 待ってくれ!」
門の脇から、別の兵士の声が飛んだ。
「後ろに獣がいるぞ! このままじゃ、一緒に入ってくる! 先に閉めろ!」と、指揮する兵士は声を上げた。
扉を押していた兵士たちは、一度手を止めかけ、それでも再び力を込めた。
「まだ、入ってくる人が……」と、セオルは言った。
軋む扉の音に、声が消えた。
荷車の後ろで、麦が大きく揺れた。
風とは、違う動きだった。
低い影が、穂を押し分けて進んでいる。
黒い背中。
土を跳ね上げる、太い脚。
荷車へ追いつこうとしていた。
ジノの手が、黒い鍵へ伸びる。
アレンも、すでに金の鍵を取り出していた。
隣で、セオルが息を吸った。
「閉めないで!」
声が、門の前へ響いた。
少年は、閉じていく隙間へ手を伸ばしていた。
「まだ、外に人がいます!」と、セオルは声を上げた。
麦畑の影が、跳んだ。
*
「まだ、外に人がいます!」と、セオルは声を上げた。
麦畑の影が、跳んだ。
荷車の後ろへ、黒い前脚が伸びる。
「解錠!」と、アレンは声を上げた。
――石翼のルフ。
門の外に、石の翼が広がった。
ガンッ!
ルフの翼へ、黒い爪がぶつかる。
獣の身体が横へ弾かれ、麦畑に落ちた。
馬がいなないた。
荷車の男性は必死に手綱を引き、暴れかけた馬を道の上へ戻す。
「獣は、こちらで止めます! 門を止めてください!」と、アレンは声を上げた。
「何を――」と、指揮する兵士は言った。
閉門を指揮していた兵士が、アレンの手元を見た。
鳥の持ち手。
金色の神律の鍵。
その向こうで、石の鳥が、荷車と獣の間に立っていた。
「こっちは、押さえたぞ!」
ドルガンが、片方の扉の前へ踏み込んだ。
革手袋の両手を扉へ当て、閉じてくる力を押し返す。
「反対側も、止めてくれ! あの荷車を入れる!」と、ドルガンは声を上げた。
「……手を止めろ! 扉を開け直せ!」と、指揮する兵士は声を上げた。
兵士たちが扉を引き戻し、門を大きく開け直した。
だが、荷車は止まったままだった。
馬が、ルフと黒い獣を交互に見ている。
前へ出ようとしては、頭を振り、脚を踏み直す。
「頼む、もう少しなんだ!」と、荷車の男性は声を上げた。
手綱を持つ手が、震えていた。
ルフの向こうで、黒い獣が起き上がる。
低い四つ脚。
盛り上がった肩から、背中へ続く硬そうな毛。
口が開き、短く太い牙がのぞいた。
ルフが自ら翼を持ち上げ、獣と荷車の間を塞いだ。
ジノは、荷台を見た。
荷台にうずくまる女性が、板の縁につかまっている。
身体を起こそうとして、また崩れた。
「人を先に運ぶ!」と、ジノは声を上げた。
アレンが、振り向いた。
「ぼくの巨人の腕なら、荷車まで届く!」と、ジノは声を上げた。
「馬と荷車は、あとから俺が連れてくる。ジノ、先に二人を頼む!」と、ドルガンは声を上げた。
*
「解錠!」と、ジノは声を上げた。
門の脇に開いた光の扉から、巨人の腕が伸びた。
掌を低く。
馬の顔へ、近づけない。
ジノは荷車の横を見つめた。
黄金の腕輪が、門の柱の前を通る。
腕の付け根にある光の扉も、宙を滑って門の外へついていった。
大きな掌が、荷台のすぐ脇で上を向いた。
「こっちへ! 二人とも、乗ってください!」と、ジノは声を上げた。
荷車の男性が、目を見開いた。
自分の荷車よりも、大きな手。
その掌が、板の高さで止まっている。
「これに、乗れって……?」と、荷車の男性は尋ねた。
「大丈夫です。ゆっくり、運びます!」
獣が、また踏み込んだ。
ルフが身体を傾け、牙を翼の外へ逸らす。
石の羽が、一枚削れた。
ジノの喉が鳴る。
急いでほしかった。
でも、掌まで急がせてはいけない。
荷車の男性は手綱を荷台の縁へ掛け、怪我をした女性の背中と膝の下へ腕を入れた。
女性を抱き上げ、片脚ずつ、巨人の掌へ移る。
「そのまま、座って!」と、テオナは声を上げた。
「解錠!」
銀の鍵が、彼女の手の中で回った。
――絡蔓のアンペロス。
テオナは、ジノが操る巨人の指に蔓を渡し、二人の周りに低い柵を作る姿を思い描いた。
淡い緑の光から伸びた蔓が、掌の縁へ走る。
太い指と指の間へ渡り、低い柵のように張られた。
握り込まずに、人が落ちないように。
ジノが見たかった形を、テオナが作っていた。
「ジノ、二人とも載ったわ!」
「うん!」と、ジノは声を上げた。
掌が、荷台から離れた。
低いまま、門の内側へ。
荷車の男性は怪我をした女性を抱え、掌の上へ腰を下ろした。
荷車につながれた馬は、門の外で足踏みしていた。
手綱は荷車の縁へ垂れ、車輪も止まっている。
ルフは、その背後を守り続けていた。
――第21話・終
第21話「帳面にない獣」を読んでくださり、ありがとうございます。
書かれていることと、本人が話したことが違う。
セオルたちは、その小さく見える違いを確かめに行きました。
けれど、調査の途中で本当に獣が現れ、門の外には逃げ遅れた人が。
ジノが差し出した掌にテオナが力を添え、ルフが背後を守ります。
助ける手が届いても、まだ安心はできません。
門の内側にいるセオルが、どう動くのかにも注目していただけたらと思います。




