第2話 震える手を伸ばして
【キャラクター紹介】
アレン・エルヴァント/Aren Elvant
18歳、身長180cm。
エルディア王国で代々受け継がれてきた金の「神律の鍵」を持つ青年。
鍵現神は、巨大な石の鳥「石翼のルフ」。
※画像はAIによるイメージです。
「待って。まだ、ちゃんと座ってな――」
翼が空気を打った。
ジノの足の下から、岸が遠ざかる。
「待って待って待って!」
「ハハハ、大丈夫だ。落とさないって!」
アレンはジノを背中へ引き上げ、腰が落ち着くまで腕を支えた。
「俺の服をつかんでろ!」
「もう、つかんでる!」
両手に砂色の外套を握り込み、ジノは顔を伏せた。
さっきまで見上げていた木が、足元を通り過ぎる。葉の間から見えた川は細く、切れた橋など、もうどこにあるのかわからなかった。
背中を押す風が、冷たい。
アレンは急かさず、ジノが身体を起こすのを待っていた。
「……まだ高くなる?」
「このくらいだ。前を見てみろ」
片目だけ開ける。
村が見えた。
川沿いに寄り集まった屋根。夕日に照らされた水車。粉袋を運ぶとき、何度も休んだ坂道。
上から見ると、あんなに短い。
「あそこ、ぼくの家」
「川のそばか?」
「ううん。大きな木の向こう。屋根の色が、半分違うやつ」
去年、雨漏りを直してもらったところだ。地上では気にならなかった新しい板が、ここからだとはっきり見える。
ジノは少しだけ首を伸ばした。
村の向こうにも道があった。麦畑を抜け、丘を越え、見たことのない山のほうへ続いている。
「あの道、ずっと行くと、どこに着くの?」
「まず街だな。その先へ行けば港がある」
「船がある所?」
「ああ。家より大きいのもいるぞ」
ジノは川へ目を落とした。村の渡し舟とは、どれくらい違うのだろう。
アレンの服をつかんだまま、もう片方の手で石の羽に触れた。
冷たく、硬い。
けれど羽は隣の羽と重なりを変え、風を受け流していた。
「……この鳥、アレンが動かしてるの?」
「飛んでほしい方角を、頭で思い描いてる。翼の動かし方まで、俺が考えてるわけじゃない」
「そうだよね。アレン、翼ないし」
「ハハ、あったら、もう少し楽だったかもな!」
ジノは小さく笑った。
さっき地面から出た声とは、違う声が出た。
片手だけなら離せそうだった。鞄の留め具を開け、黒い鍵を取り出す。
「ぼくの鍵にも、何かいるのかな?」
「開けてみないと、わからないな」
アレンがしたように、鍵を空中へ差し出してみた。
何も起きない。
角度を変えて、回す。
やはり、ただ風の中を動くだけだった。
「これ……普通の鍵だったりしない?」
「輪が浮いてるだろ。それが同じ鍵の証拠だ」
黒い輪は、ジノの指に触れないように回っていた。
「黒いのは、初めて見たけどな」
「探してたのに?」
「どんな鍵か、色まではわからなかった」
ジノは鍵を裏返した。
石の鳥が出てきた金色の鍵と、真っ黒な鍵。
自分のほうからは、小さな鳥が出てくるのかもしれない。村の鶏くらいなら、乗れなくても一緒に歩ける。
指で持ち手の飾りをなぞった。
「これがあったら、粉袋、落とさず運べるかな?」
「運ぶのが得意な奴なら、助けてくれるかもな!」
「水車小屋のおじさん、腰が痛いんだ。大きな袋は、二人で運ぶんだけど」
言いながら、階段の壁に彫られていた絵を思い出した。
岩を持ち上げる人。畑へ水を流す人。
その手に掲げられていた、小さなもの。
「あの絵に描かれていた人たちも、鍵を使ってたのかな」
「遺跡のか?」
「うん。畑に水を流してた。鳥じゃないのもいるんだね」
アレンはうなずいた。
ジノは眼下の畑を見た。水を運ばなくてよくなったら、母が帰ってくる時間も、少し早くなるだろうか。
「便利だね、鍵って」
答えがなく、ジノはアレンの顔をのぞき込んだ。
アレンは村を見ていた。
「岩を砕くような大きな力は、他人の家を壊すこともできる。何に使うかは、持ってる人間が決めるんだ」
石の鳥の、大きな爪が目に入った。
岸の岩が割れた音を思い出す。
「他人の家を壊す……そんなこと、する人がいるの?」
「だから、探してるんだ。鍵を悪用する奴と、そういうやつらを一緒に止めてくれる仲間をな!」
ジノは黒い鍵を鞄へ戻した。
アレンが丸いコンパスを開く。
針の先は、村の広場を指していた。
ジノが家を探していた間も、ずっと。
「……あそこに、別の鍵があるんだよね」
「ああ。まずは、誰が持っているのか確かめよう」
ルフが翼を傾けた。
見慣れた井戸が、大きくなっていった。
*
広場に爪が下りると、洗濯物が一斉に揺れた。
水車小屋の戸が開く。井戸端にいた女性が、水桶を抱いたまま後ずさった。
「何だ、あれ!」
「上にいるの、ジノじゃないか?」
知っている声がした。
ジノは翼を伝って地面へ下りた。いつもの広場なのに、両足で立つと膝が頼りなかった。
「よく目立つ帰り方だな」
井戸の向こうから、知らない声がした。
黒い外套の男が、石囲いに片足をかけていた。開いた手の中で、コンパスの針が動いている。
ジノが一歩下がると、その針も追ってきた。
「……子どもが拾ったのか」
鞄の上へ手を置く。
男の口元が緩んだ。
「そこにあるんだな」
アレンが、ジノの前に立った。
「橋を落としたのは、お前か?」
「森から戻る道を、一つにしたかったんだがな。空から来るとは思わなかったぜ」
男はコンパスをしまい、腰の剣を抜いた。
井戸端の女性が水桶を落とした。こぼれた水が、男の靴先へ流れる。
「おとなしく拾った鍵を出せ。そうすればすぐに帰る」
「剣をしまえ。話はそれからだ」
「順番が違うなあ」
切っ先が、アレンの肩越しにジノを指した。
ジノは息を吸おうとして、うまく吸えなかった。
「皆さん、この男の人から離れてください。川のほうへ!」
アレンは男から目を離さず、ジノを背中へかばった。
「ジノも、みんなと一緒に!」
足元の土を見た。
右足を引く。それだけなのに、動かない。
男が、左手を上げた。
銅色の鍵がある。
「解錠!」
井戸の脇に光の扉が開き、長い脚が地面をかいた。
黒い背。口の端からのぞく牙。
獣が扉を抜けたと思ったときには、もうジノへ跳びかかっていた。
灰色の翼が、目の前を横切った。
ドンッ!
ルフにはね飛ばされた獣が、井戸へぶつかる。石囲いが崩れ、女の子ほどの大きさの石が、広場を転がった。
誰かが悲鳴を上げた。
ガドたち三人が、倉庫の軒下へ駆け込むのが見えた。
黒い獣は、すぐ起き上がった。
今度は逃げる村人へ顔を向ける。
「ルフ!」
アレンの声とともに、石の鳥が低く飛んだ。村人と獣の間へ入り、翼で牙を受け止める。
その横で、男が剣を振り上げた。
アレンは腰の短剣を抜き、刃を受けた。金属の音が、ジノのすぐそばでした。
「川へ行け!」
肩を押され、ジノの足がようやく動いた。
走った。
井戸の脇を抜けたところで、転がった水桶を蹴りそうになる。飛び越え、両腕を振った。
背後で、重いものがぶつかった。
ルフに押し返された獣が、倉庫の角へ倒れ込んだのだ。
柱が裂ける音。
屋根が傾く。
ジノは振り返ることもできずに、走り続けた。
「誰か! ガドが出られない!」
知っている名前に、足が止まった。
*
倉庫から二人の少年が出てきた。
一人が転びかけ、もう一人が腕を引く。ジノの横を通るときも、二人は前しか見ていなかった。
「おい! 置いてくな!」
入り口の奥に、ガドがいた。
床へ座り込み、左脚を引こうとしている。倒れた太い梁が、そのすねに載っていた。
ガドと目が合った。
「ジ......ジノ。大人を呼んでくれ!」
ジノは広場へ顔を向けた。
「アレン!」
ルフが翼を広げ、民家へ向かう獣を押し返していた。アレンは男の剣を受けたまま、倉庫へ顔を向ける。
男がさらに踏み込んだ。
アレンは横へ跳び、切っ先を避ける。こちらへ来るどころか、声を返す暇もなかった。
「は、早くしろよ!」
ガドが床をたたいた。
ジノは一歩、川のほうへ下がった。
あの手に、何度も頭をたたかれた。
銅貨を高く掲げられた。取り返そうとするたび、届かない所へ動かされた。
ガドの口が、また開く。
ジノは顔をそむけかけた。
「……頼むよ」
ほとんど聞こえない声だった。
ガドはジノを見ていなかった。左脚を押さえたまま、天井を見上げていた。
その肩へ、屋根から砂が落ちた。
ジノは倉庫へ走った。
ガドの隣へ膝をつき、梁の下へ両手を入れる。
「上がったら、脚を引いて!」
「早く!」
腰を落とし、腕を伸ばした。
木は動かなかった。
もう一度。今度は肩を下へ入れる。
粉袋より、ずっと重い。
歯を食いしばって押した。頬を木肌にこすりつけても、ガドの脚との隙間は広がらなかった。
「……上がってないって」
「わかってるよ!」
ジノは周りを見た。
壁に立てかけられた棒がある。両手で持ち、梁の下へ差し込んだ。
近くの石を引き寄せて支えにする。水車小屋で、重い荷をずらすときに見たやり方だった。
棒の端へ、身体の重さをかけた。
梁が、わずかに浮く。
「今、抜いて!」
ガドが両手で床を押した。
バキッ。
棒が折れた。
木が落ち、ガドの声が途切れる。
「ご、ごめん!」
ジノは折れた棒を捨てた。
ほかにないか。もっと太い棒。石。何か。
床には麦の粒が散っていた。破れた袋と、倒れた棚。その奥で柱が斜めになっている。
「誰か呼んできてくれ!」
ガドは左脚を抱え、顔を伏せた。
「お前じゃ、無理だろ」
ジノの指が止まった。
返す言葉はなかった。
自分でもそう思っていた。走って大人を呼べば、もっと力のある誰かが来てくれる。
入り口の向こうに、道が見えた。
その前を、逃げる村人が通り過ぎていく。小さな子を抱え、転びかけながら走っている。
ジノは、梁の下へ肩を入れ直した。
「……来るまで、一人にできないよ」
背中へ力を込めた。
重い木が、少しでも動くように。
ガドが顔を上げた。
「おい!」
「もう少し……」
「ジノ!」
上から、木の裂ける音がした。
奥の柱が折れ、屋根が一段低くなる。
ガドがジノの肩を押した。
「もういい! お前、逃げろ!」
思わぬ力に、ジノは尻もちをついた。
腰の鞄が床を打つ。空で鍵をしまったあと、留め具を掛け損ねていたらしい。口が開き、黒い鍵が転がり出た。
「お前まで潰れるぞ!」
ガドがもう一度、ジノを入り口のほうへ押そうとした。
その頭上で、太い梁が外れた。
ジノは床の鍵をつかんだ。
次の瞬間には、ガドへ手を伸ばしていた。
こっちへ。
せめて、落ちてくる木の下から。
――カチリ。
伸ばした手が、空中で止まった。
鍵の先が、何かに入っている。
「……え?」
何もなかったはずの場所に、小さな光が集まった。
鍵穴だった。
見ている暇はなかった。
ガドが両腕で頭をかばう。
ジノは左腕をその肩へ回し、自分のほうへ引き寄せた。落ちてくる木へ背中を向ける。
右手に握った鍵が、身体の動きにつれて回った。
黒い輪が、勢いよく回転する。
ゴウン。
床の下で、大きな錠が外れたような音がした。
*
来るはずの衝撃が、来なかった。
ジノはガドの肩へ顔を伏せていた。
砂が髪を伝い、首筋へ入る。
木のきしむ音は、まだ続いている。
「……ジノ!」
ガドの声が、耳のそばでした。
「う、う、上!」
おそるおそる、顔を上げた。
指があった。
ジノの胴より太い指が、目の前に。
一本ではない。
五本の指が大きく開き、落ちてきた梁を下から受け止めていた。その上へ屋根板が重なり、割れた柱までが、とてつもなく巨大な掌に支えられている。
石を思わせる白い肌が、淡く青白い光を帯びていた。
爪は黒い。手首には、幅広い金の腕輪。
そこから続くたくましい前腕には、白い布が、肌を残して緩く巻きついている。
――巨人の裁腕。
腕の付け根を目で追った。
倉庫の奥、壁の手前に光の扉が浮いていた。
開いた扉の向こうから、この腕が伸びている。
ジノは口を開けたまま、見上げていた。
指の上で木が滑る。
屋根がわずかに傾き、ガドがジノの袖をつかんだ。
落ちないで。
ジノは手へ目を戻した。
そのまま、支えていて。
太い指が曲がった。
滑りかけた梁を受け直す。屋根が止まり、床へ落ちていた夕日の帯も、それ以上細くならなかった。
「今、動いた……」
ガドが見ている。
巨人の手ではなく、ジノを。
ジノは自分の右手へ目を落とした。黒い鍵は、まだ光の鍵穴に差さっていた。
そっと引くと、抜けた。
腕は消えない。
屋根も落ちてこない。
広場では剣の音が途切れていた。アレンが倉庫を見ている。その向こうで、黒い外套の男が、目を見開いていた。
ジノは鍵を握り直した。
もう片方の手で、ガドの肩を支える。
「……大丈夫」
まだ、脚を抜く方法もわからない。
この手をどう動かしたのかも。
それでも、さっきより顔を上げていられた。
「今、出してあげるから」
頭上で、巨大な掌が二人を守っていた。
――第二話・終
第2話「震える手を伸ばして」を読んでくださり、ありがとうございます。
空から見た村に胸を躍らせていたジノが、今度はその村で危機に直面しました。
助けを求めていたのは、いつも自分をいじめていたガド。
されたことを忘れたわけでも、怖くなくなったわけでもありません。
それでも、ジノは戻りました。
そして遺跡で見つけた、黒い鍵の先の扉から現れた、大きな巨人のような手。
この力で何ができるのか、ジノと一緒に見届けていただけたらうれしいです。




