第1話 黒い鍵
銅貨が一枚、暗い階段を跳ねていった。
カン、カン、と二度鳴って、それきり音がしなくなった。
ジノは、伸ばした手を下ろせなかった。
「……なんで投げるんだよ」
「お前が取ろうとしないからだろ?!」
ガドは、もう何も持っていない両手を広げた。オレンジ色の袖の下で、腕はジノより一回り太い。
後ろの少年二人が笑った。しかし、そのうちの一人は、すぐ森の道を振り返った。
「もう帰ろうぜ。ここ、見つかったらまずいって」
エルディア王国、ルヴェル村。
麦畑と水車に囲まれた村の外れには、子どもが近づいてはいけない石の門があった。
門に扉はない。屋根もない。木々の間に取り残された二本の柱と、その向こうで地下へ下りていく階段だけ。
村人たちは、そこを〈帰らずの門〉と呼んでいた。
「取りに行けよ。大事な金なんだろ?」
ガドが門の奥を指した。
ジノはその手を押しのけたかった。
けれど、ガドの肩が動いただけで、足が半歩下がった。
「ほら。また逃げた」
今朝もそうだった。
水車小屋へ粉袋を運ぶ途中、道をふさがれて何も言えなかった。袋を落とし、こぼれた粉を掃いている間も、ガドたちは笑っていた。
仕事が終わったあと、水車小屋の主人が渡してくれたのが、あの銅貨だ。
粉の入り込んだ爪を、ジノは手のひらへ押しつけた。
「……返してよ」
「もう返せないって!」
ガドは階段をのぞいた。
「奥の奴に頼めば?」
少年の一人が、わざと低い声を出した。
「ジノー。こっちへおいでー」
「やめろって!」
止めたのはジノではなかった。もう一人の少年が、笑いながらも友達の袖を引いていた。
奥から名前を呼ばれても、返事をしてはいけない。
亡くなった家族の声でも、ついていってはいけない。
村の子どもなら、誰でも知っている話だ。
昔、ここで妻の声を聞いた人がいた。もう何年も前に亡くした妻だった。それでも、その人は階段を下りていった。
村へは戻らなかった。
ジノが初めてその話を聞いた夜、母は寝床のそばに明かりを残してくれた。
翌朝には、村長から別の話も聞かされた。地下の床には穴があり、古い天井はいつ落ちてもおかしくないのだと。
どちらの話でも、結論は同じだった。
近づいてはいけない。
「じゃあな。暗くなる前に帰れよ」
ガドは先に歩きだした。二人があとを追い、笑い声も森へ遠ざかっていった。
ジノは門の前に残った。
階段の一番上には、夕日が差していた。そこから先は、青い影に沈んでいる。
一枚あれば、帰りにパンを買える。
妹の好きな、端に干しぶどうの入ったパンだ。今日は自分で買って帰ろうと思っていた。
ジノは門の脇で細い枝を拾った。
階段へ差し出す。
二段目にも届かなかった。
「……そりゃ、無理か」
枝を置き、一段だけ下りた。
まだ、外の鳥の声が聞こえた。
*
階段は、途中で曲がっていた。
下りるほど土と冷たい石のにおいが濃くなる。ジノは壁に手をつき、靴の先で次の段を確かめた。
銅貨は、どこにも見えない。
こんな所まで転がったのだろうか。
後ろを向くと、外の光はもう細い四角になっていた。
戻ろう、と足を止めたとき、指の下に何かが引っかかった。
壁に線が彫られている。
目を近づけると、人の姿だった。
一人は畑へ水を流している。その隣では、大きな岩が持ち上がっていた。岩の下に立つ人々は、両手を上げている。
よく見ると、助けている人は皆、片手に同じような小さなものを掲げていた。
絵は壁の奥まで続いている。
中央には、ひときわ大きく彫られた人物がいる。周りの人々は、その人物へ身体を向けていた。
ただ、顔のあたりは石が欠けていて、誰なのかわからない。
ジノは、そこに触れかけた手を止めた。
足元を何かが走った。
「ひっ!」
壁へ背中をぶつける。
小さな虫だった。逃げていく姿を見送ってから、ジノは口を押さえた。
自分の声が、奥で短く返った。
返事じゃない。
誰かに呼ばれたわけじゃない。
そう確かめて顔を上げると、背中をぶつけた壁の石の隙間から光が漏れていた。
青白い、細い光。
「……誰かいるの?」
言ってから、しまったと思った。
答えはなかった。
ジノはしばらく待った。自分の靴が石をこする音さえ、やけに大きかった。
隙間の向こうには、小さな部屋がある。
入り口に落ちた石を避け、身体を横にすれば入れそうだった。
中をのぞく。
奥に、台座があった。
その上に一本の鍵が浮いていた。
ジノは、入り口へ置いた足をそのままに、しばらく見つめていた。
上から糸でつるされているのかと思った。
けれど、天井まで何もない。台座との間にも、指が入りそうな隙間がある。
鍵は黒かった。
黒いのに、その輪郭をなぞるように淡い光が流れている。
持ち手の真ん中には、鍵穴の形の飾りがあった。穴が開いているわけではなく、底まで黒く閉じていた。
そして、軸の周りに輪が浮いていた。
鍵に触れてもいない輪が、ゆっくり回っている。
ジノは台座の前に立った。
「どうやって……?」
輪の下へ指を入れる。
何もなかった。
上からものぞいた。やっぱり、つながっていない。
鍵の持ち手に触れると、石の部屋には似合わない温かさがあった。
そのまま、そっと持ち上げた。
重さが手へ移る。
部屋を満たしていた光が静まり、黒い鍵だけが、ジノの手に残った。
「お前、そこで何をしてる?」
「うわあっ!」
振り向いた拍子に、台座へ腰をぶつけた。
入り口に、人が立っていた。
砂色の外套を着た、若い男性だ。ジノを見るなり、片手を上げた。
「いきなり話しかけて悪いな。人がいるとは思わなかったんだ」
「……今、名前、呼んだ?」
「いや。君の名前は知らないからな」
「そう……」
ジノは台座から身体を離した。
青年の目が、空になった台座へ移る。それから、ジノの手元へ。
「その鍵を、ここで?」
ジノは背中へ隠した。
「うん、ぼくが見つけたんだ」
「そっか、わかった。けど、少し見せてくれないか?」
青年が近づく。
ジノは、鍵の持ち手を握り直した。
今度は何をされるのだろう。
高く持ち上げられるのか。それとも、もっと奥へ投げられるのか。
青年は途中で足を止めた。
「と……取らない?」
問いかけたとき、青年の肩に砂が落ちた。
ジノの視線が上がる。
頭の真上で、天井の石がずれていた。
「危ない!」
ジノは床を蹴った。
青年の脇腹へ肩からぶつかる。
二人の身体が入り口の脇へ倒れかけた直後、石が落ちた。
ドンッ!
床を打つ音が、部屋いっぱいに響いた。
青年に腕を引かれ、ジノはその胸へぶつかった。砕けた石が、靴のそばを跳ねていく。
音が収まっても、ジノは動けなかった。
さっきまで青年の立っていた場所に、自分では持ち上げられそうもない石がある。
「痛いところは?」
声が、すぐ頭の上でした。
ジノは首を振った。
青年の服を握っていたことに気づき、慌てて離す。
「そっちは?」
「平気だ。君のおかげでな!」
青年は落ちた石を見てから、ジノへ向き直った。
「助かったよ。ありがとう」
ジノは、うまく返事ができなかった。
青年はしゃがみ、ジノと目の高さを合わせた。
「俺はアレン。君は?」
「……ジノ」
「ジノ。その鍵を見せてもらえるかい? ここから出たあとでいい」
ジノは、背中に回していた手を前へ戻した。
黒い鍵には、傷一つなかった。
「これを、探しに来たの?」
「ああ」
「じゃあ……」
アレンは鍵へ手を伸ばさなかった。
「先に見つけたのは君だ。だから、君が持っていていい」
「いいの?」
「人の頭に石が落ちるのを見て、鍵を置く暇もなく飛んでくるような奴から、取り上げる気にはならないよ」
ジノは、自分の手を見た。
鍵を握っていたことも、忘れていた。
アレンが立ち上がる。
「まずここから出よう。次は、俺が君を助けられるとは限らない」
「あ、待って!」
ジノは呼び止めた。
「まだ探してるものがあるんだ」
「ほかにも鍵が?」
「銅貨」
アレンの視線が、黒い鍵からジノの顔へ戻った。
「……銅貨?」
*
銅貨は、曲がり角の石の割れ目に挟まっていた。
アレンが細い金具を差し込み、少しずつ浮かせる。
石の間から出てきた一枚を、ジノは両手で受け取った。
「あった……!」
「フフ、鍵よりうれしそうだな」
「朝から働いて、もらったんだ」
袖で土をぬぐい、鞄の奥へ入れる。
今度は留め具まで、きちんと閉めた。
アレンは、先に階段を上りはじめた。
「足元、そこが欠けてるぞ」
「うん」
外へ出たとき、風が温かく感じられた。
ジノは一度、石の門を振り返った。
帰ってこられた。
その隣で、アレンが丸い道具を取り出していた。
真鍮色の縁に囲まれた、手のひらほどのものだ。ガラスの下の針が、ジノを向いている。
右へ動いてみる。
針も動く。
左へ戻ると、また追ってきた。
「……ぼくを指してる?」
「鍵だ」
ジノが鞄から黒い鍵を出すと、針の先がぴたりと重なった。
「これで探してたんだ」
「ああ。ちょっと貸してくれ」
アレンは道具の縁を指した。小さなくぼみがある。
「ここへ鍵を当ててみろ」
「こう?」
軸を触れさせると、小さな光がともった。
針が回る。
今度は、ジノから離れた方角で止まった。
「あれ。見失っちゃった」
「覚えたんだ。この鍵はもう、探さなくていいってな」
ジノは黒い鍵を道具へ近づけた。
針は動かなかった。
「じゃあ、今、指してるのは……」
「別の鍵だ」
二人は針の先を見た。
木々の間を下っていく、村への道。
「村のほうにあるの?」
「そうみたいだな。誰かが持っているのかもしれない」
アレンは道具をしまった。
「案内を頼めるか」
「うん」
ジノは先に歩きだした。
少し進んでから、鞄の中の鍵を確かめる。
自分には、使い道もわからないものだ。
でも、アレンはそれを探して、ここまで来た。
「ねえ、アレン。この鍵って――」
返事より先に、川の音がした。
いつもより大きい。
木々を抜けたジノは、足を止めた。
橋が、なかった。
*
向こう岸から、板が半分だけ垂れ下がっていた。
切れた綱が風に揺れ、その先が崖をこすっている。
下の川は、白い泡を立てて流れていた。
「そんな......。 来るときは、渡れたのに......」
ジノは岸へ近づきかけた。
アレンの手が、肩を止める。
「そこまでだ、危ないぞ」
アレンは綱の切り口を調べた。しばらくして、村の方角へ顔を向ける。
「ほかに渡れる場所は?」
「上流に橋があるよ。でも、森をぐるっと回らないと……」
木々の上では、空が赤くなりはじめていた。
帰りが遅くなる。
母は水車小屋まで迎えに行くだろうか。妹もついていくかもしれない。
「ぼく、道はわかるから」
歩きだそうとすると、アレンが腰の革筒を開けた。
取り出したものを見て、ジノは口を閉じた。
金色の鍵。
持ち手には、翼を広げた鳥がかたどられていた。
その軸の周りにも、輪が浮いている。
「アレンも、持ってたんだ」
「ああ」
ジノは鍵へ顔を近づけた。
黒い鍵の輪と同じように、金色の輪も何にも触れずに回っていた。
「さっきの道具、そっちは指さないんだね」
「もう覚えさせてあるからな」
アレンは鍵を持ち上げた。
「ジノ。少し離れて」
言われたとおり、二歩下がる。
アレンが何もない空中へ鍵を差し出した。
その先に、小さな光が生まれた。
鍵穴の形だった。
金色の鍵が、そこへ入る。
「解錠!」
カチリ。
谷の上に、青白い線が走った。
縦に伸びた光が折れ曲がり、大きな扉を描き出す。
ジノは空を見上げた。
木よりも高い扉が、川の上に浮いている。
それが、内側から開いた。
石の嘴が現れた。
続いて、大きな頭。
灰色の翼が扉の両側へ広がると、谷の風がジノの服を押した。
ジノは足を踏ん張ったつもりだった。
次の瞬間には、地面へ座り込んでいた。
――石翼のルフ。
石でできた鳥が、目の前にいた。
羽の一枚一枚に厚みがある。爪が岸の岩をつかむと、小さなかけらが川へ落ちていった。
その胸が、ゆっくり上下する。
「……生きてる」
ジノがつぶやくと、鳥の目がこちらを向いた。
逃げようとして、片足だけが地面をこすった。
「大丈夫だ。乗せてもらうだけだから」
「の......乗るの?」
ジノは鳥を見上げた。
アレンを見る。
もう一度、鳥を見る。
「これに?」
「橋がないからな。しかたない。遠回りしてるような時間もない」
「橋がないと、石の鳥に乗るの?」
アレンの口元が緩んだ。
「俺の場合は!」
鍵を抜いても、鳥は消えなかった。
ルフはアレンの前へ頭を低くし、翼を片方だけ下げた。重なった石の羽が、背中へ続く足場になる。
アレンは迷わず上った。
ジノは、鞄の上から自分の鍵を押さえた。
あの黒い鍵にも、輪が浮いていた。
同じように回したら。
あの向こうには、何がいるのだろう。
「ジノ」
顔を上げると、アレンが手を差し出していた。
「高い所は?」
「に……苦手」
「俺の後ろにつかまっていればいい」
ジノは、切れた橋を見た。
それから、石の翼の向こうを見た。
木々に隠れて、村はまだ見えない。
アレンの手は、差し出されたままだった。
ジノは立ち上がり、ズボンについた土を払った。
「……手、離さないでね」
伸ばした手を、アレンがつかんだ。
石の羽へ足をかける。
その一歩の下で、巨大な翼が動いた。
――第一話・終
第1話「黒い鍵」を読んでくださり、ありがとうございます。
ジノが遺跡へ入った理由は、朝から働いて手に入れた銅貨を取り戻したかったから。
大切な一枚を追いかけた先で、不思議な鍵と旅人アレンに出会いました。
怖がりながらも、落石に気づけば身体が動いてしまう。
そんなジノの姿を、最初の出会いに込めています。
差し出された手をつかんだジノ。
次回は、村しか知らなかった少年の目に、どんな景色が映るのでしょうか。




