第16話 涙の向こう
グレイヴの右手が、上着へ入った。
アレンが鍵の場所を見ていたことに、気づいたのだろう。内側へ収めた銅の鍵を、握り直そうとしている。
その手首に、細い蔓が巻きついた。
「させない!」
テオナは戸の陰から、男の腕を見ていた。指先が上着から離れ、肘が外へ引かれる。
カルキノスが、自由な方の鋏をアレンへ伸ばした。
ルフは自ら、その間へ入った。翼で刃先を外側へ押さえ、巨体を横へ向ける。
もう片方の鋏は、ジノの巨人の腕に捕まったままだ。
カルキノスが脚を踏み直した。主人へ戻ろうとして、身体をひねる。
その横を、アレンは走っていた。
「来るな!」
グレイヴが、鍵束を持つ左腕を振り上げた。
アレンは、まだ手の届かないところで足を緩めた。剣を抜く代わりに、ルフへ意識を向ける。
狙うのは、グレイヴの左肩。
その向こうには、誰もいない。
ルフの翼が開いた。
――穿天石羽。
鋭い石の羽が、カルキノスの殻の横を抜けた。
「ぐあっ……!」
左肩を打たれ、グレイヴの上体が後ろへ反った。足がもつれ、背中から床へ倒れる。
チャリン。
左手から鍵束が落ちた。
それでも、グレイヴは目を開いていた。右手を動かそうとして、蔓に引き止められる。
アレンが、その脇へ膝をついた。
上着の内側から、銅の鍵を抜き取る。
「か、返せ……!」
伸ばしかけたグレイヴの手より早く、アレンは鍵を空中へ差し入れ、逆にひねった。
「施錠!」
カチリ。
鉄の鋏が、光へほどけた。
分厚い殻も、床を打つ脚も消える。
ジノは巨人の腕を慌てて止めた。握っていた重さだけが急になくなり、曲がった五本の指が空中に残る。
衛兵長が駆け寄り、グレイヴの両腕を押さえた。
「動くな! 抵抗はやめろ!」
別の衛兵が、傷ついた肩を確かめる。グレイヴは起き上がれず、床を睨んだ。
「貴様ら、よくも俺の商売を……!」
「こんなの商売じゃないわ!」
テオナの声が、広くなった作業場に響いた。
「父さんたちを脅して、閉じ込めただけでしょ」
蔓が拾った鍵束を、衛兵長のそばへ置く。グレイヴの拘束を確かめてから、テオナはその手首を解放した。
ジノは、自分の右手を見た。
親指と人差し指を曲げる。巨人の掌も、同じように指をほどいた。
「……ちゃんと、止められたじゃない」
テオナがこちらを向いていた。
「うん!」
返事をした途端、膝から力が抜けた。
「ジノ!」
床へ片手をつく。アレンが肩へ手を添えた。
「もう戻していい。二人とも、外へ出られた」
ジノは奥を見た。鉄格子の戸は床まで下り、その外の柱に、二人の職人がいる。
黒い鍵を回すと、巨人の掌は淡い光になって消えた。
ジノは、ようやく両手を膝へ置いた。
*
「テオナ!」
入口近くで、父親が娘を呼んだ。
衛兵の肩を借りていた手を離し、壁へ指を添えて立っている。
もう、間には何もなかった。
大きな鋏も、剣を持つ男も、下りてくる鉄格子も。
それなのに、テオナは足を止めた。
父親の口元には傷がある。袖は汚れ、足首の布にも赤い色がにじんでいた。
「……ごめん」
父親が首を横に振った。
「あたしが、あの家で……」
言い終わる前に、父親が両腕を広げた。
「おいで」
テオナの唇がゆがんだ。
一歩、踏み出す。
今度は、誰にも止められなかった。
「父さん……!」
胸へ飛び込んだ娘を、父親が受け止めた。足が少しよろめき、脇にいた衛兵が背中を支える。
父親は、娘を離さなかった。
「あとから、来るって言ったのに!」
「ああ......」
「待っても……来なくて……」
「すまない。怖い思いをさせたな」
赤い髪に、大きな手が触れた。
テオナは父親の服を握り、何か言おうとした。けれど、声にならず、そのまま顔を押しつける。
背中へ回った父親の手が、ゆっくり動いた。
父親は娘の手首の包帯に気づき、そこだけ、触れ方を変えた。傷を圧迫しないように、肘の下へ手を添える。
テオナは何か答えたが、胸へ顔を押しつけたままで、ジノには聞き取れなかった。
父親が何度もうなずく。
大きな掌なら、鉄格子を持ち上げられる。けれど、あんなふうに娘を抱き締めるのは、父親にしかできない。
ジノは、何も握っていない自分の手を見た。
あの二人が会うまで、支えていられた。
胸の奥へ、そのことが少しずつ届いた。
ジノは床に座ったまま、二人を見ていた。
アレンから渡された水袋を持ち上げると、指先が少し震えた。袋の底を支えてもらって、ようやく一口飲めた。
「……間に合ったね」
「ああ」
アレンも、抱き合う親子を見ていた。
「あの巨大な蟹の鋏を、付け根で止められたな。丸い殻を丸ごと握ろうとせず、指が掛かる場所を選べたじゃないか」
「テオナが教えてくれたから!」
「それを見て、動かせたのはジノだ。今の感覚を覚えておけよ」
ジノは、水袋から片手を離した。
自分の指では、あれほどのものは持てない。
けれど、どこに触れていたかは、まだ覚えている。
親指を下へ、人差し指を上へ。
小さく形を作ると、アレンがうなずいた。
*
川側へ回っていた衛兵が戻ってきた。
裏口へ逃げた男も捕らえたという。剣を持っていた二人は、壁際に座らされていた。
衛兵長は、奥の鉄の箱へ目を向けた。
「箱も工具も、置いたままにしておけ。誰が持ち込んだか、まず確かめる」
「中には鍵の取引帳があると、グレイヴが話していました。次に狙われる人の手がかりがあるかもしれません」
アレンの話に、衛兵長は顔を戻した。
「職人のお二人からも事情を伺い、調べます。わかったことは、お知らせします」
それから、アレンの持つ銅の鍵へ目を落とした。
「その鍵についても、記録を取らせていただけますか。グレイヴが使用し、あなたが回収した物だと確認しておきたいのです」
「もちろんです」
アレンは自分の袋から布を出し、鍵を包まずに載せた。衛兵が形を描き、鉄の蟹を出す力と、使われた場所を書き留める。
「アレンさん、記録が済んだら、鍵の管理はあなたにお願いします」
衛兵長は、書き込まれた紙を確かめていた。
「こちらの保管庫には、神律の鍵を扱える者がおりません。奪い返されれば、今日と同じ力を使われます。金の鍵の継承者として、安全な管理をお任せできますか?」
「承知しました。俺の方でも、預かった経緯を残します。捜査に必要なことがあれば、連絡をください」
鍵の引き渡しが記録され、二人で内容を確かめた。
アレンは銅の鍵を布で包み、手帳にも書き残してから、金の鍵とは別の革筒へ収めた。
ジノは、その一連の動作を見ていた。
敵を倒して終わりではない。
誰が持っていた力を、これから誰が預かるのか。アレンは、そこまで引き受けている。
グレイヴは衛兵に支えられ、立ち上がらされていた。肩の手当てを受けている間も、鍵が収められた革筒を睨んでいる。
今まで誰かを従わせていた力が、自分から離れた。
グレイヴの視線に気づいたアレンは、革筒の留め具を確かめた。ジノには何も言わず、荷物の口も閉じる。その手が落ち着いているのを見て、ジノも床から立つ準備をした。
立ち上がろうとすると、背中が引きつった。
「ゆっくりでいい。肩を貸すよ」
アレンの腕へつかまり、ジノは足を伸ばした。
*
染物場の外では、川風が汗の冷えた頬に触れた。
手当てのために呼ばれた人が、二人の職人を長椅子へ座らせる。足首の傷を洗った水が、桶の中へ落ちた。
ジノも、脇に腰を下ろした。背中へ冷たい布が当たり、思わず声が漏れる。
テオナが父親の隣から立ち上がった。
「……痛いんでしょ?」
「うん。さっき、力が抜けたら急にね......」
「だったら、今日はもう動かないでよ」
「うん、そうする」
テオナはジノを見て、それからアレンを見た。
「父さんを助けてくれて……ありがとう」
「テオナが道具を届けてくれたから、間に合ったんだよ」
「お父さんも、すごかったね。あんなに早く開けちゃった」
ジノの言葉に、テオナは父親へ振り返った。
隣の職人と話していた父親が、こちらに気づき、小さく手を上げる。
「……うん。すごいのよ」
その声は、少しかすれていた。
父親が頭を下げると、ジノも慌てて下げ返した。途中で背中を押さえたので、テオナの眉が寄る。
「だ、大丈夫。急に曲げたから......」
「だから、動かないでって!」
テオナはため息をついた。そのあと、ジノの視線に気づいて左手を見る。
白い布に、土埃がついていた。
「テオナも、手を見てもらってね」
「……そうね」
呼ばれた椅子へ座り、包帯をほどいてもらう。その間に、アレンが水を足しに行った。
戻ってきたアレンは、ジノの隣へ座った。
「今日はゆっくり休もう。出発は、それから考えればいいさ」
「うん」
テオナの指が、止まった。
出発。
ここへ来るまで、考えられなかった言葉だった。
ベルカまで一緒に行ってもいいか。
自分から、そう頼んだ。父親を見つけるまででいい。そのつもりだった。
もう、父親は見つかった。
テオナは二人を見た。ジノが水袋を受け取り、今度は一人で飲んでいる。アレンが何か言い、ジノが少し笑った。
その隣にいた自分は、明日から、どこへ立てばいいのだろう。
「ねえ……あとで話してもいい?」
ジノが顔を上げた。
「うん。じゃあ、待ってるね!」
*
新しい包帯を巻いてもらうと、テオナは二人の前へ戻った。
ジノが身体を起こしかけたので、先に手を上げる。
「そのままでいいから」
足元で、川風が服の裾を揺らした。
「あたし、最初に会ったとき……あんたたちも、あたしの鍵を奪うつもりなんだと思ってた」
ジノは顔を上げたまま聞いていた。
「蔓まで巻きつけて。パンをくれたときも、何か仕掛けてるんじゃないかって」
差し出されたパンと、その向こうの顔を思い出す。
あのときのジノは、怒らなかった。困ったようにしながら、受け取るかどうかを、テオナに任せていた。
「……ごめんね」
「怖かったんでしょ?」
テオナが目を上げると、ジノは少し言葉を探した。
「追いかけてくる人がいて、お父さんもいなくて。会ったばかりのぼくたちを、すぐ信じるのは、難しいはずだよ」
「でも、あんたたちは、何もしてなかったのに......」
「それでも、話を聞かせてくれただろ?」
アレンは、父親たちのいる椅子へ目を向けた。
「道具も預けてくれた。俺が近づくときは、グレイヴの手を止めてくれた」
「……それは、二人がいたから」
「ぼくもだよ。テオナがいてくれたから、鋏を掴めた」
テオナは、返す言葉をなくした。
謝りに来たはずだった。助けてもらったお礼を伝えるつもりだった。
なのに、二人は、助けた側へテオナまで入れてしまう。
「……そんなふうに言われると、困るんだけど」
「えっ!」
「怒ってないわよ?」
慌てたジノへ首を振った。
次の言葉は、すぐには出なかった。テオナは一度だけ足元を見て、それから顔を上げ直す。
「ありがとう。父さんのことだけじゃなくて……あたしの話、聞いてくれて」
ジノが、小さく笑った。
「うん」
――第十六話・終
ようやく父親のそばへ戻れたテオナ。
張り詰めていた気持ちがほどけたあとで、ジノとアレンへ伝えた「ありがとう」も、彼女にとって大切な言葉になりました。
疑いながら出会った相手に、自分の話を聞いてもらい、ともに父親を助けてもらう。
その時間があって、今の三人がいます。
まずは、みんなに少し休んでもらいたいですね。




