第12話 閉ざされた工房
衛兵から借りた水で、テオナは左手の傷を洗い、布を巻き直した。
ジノの背中も改めて確かめてもらい、三人は軒下で休んだ。
水を飲み、残っていたパンを少しずつ食べる。すぐには知らせは届かなかった。
通りかかる荷車を何台か見送るうちに、軒先の影が、椅子の足元まで伸びてきた。
ジノは椅子の背へ寄りかからず、少し前かがみになっていた。
「……まだ、痛い?」と、テオナは尋ねた。
「座ってると、少し......」と、ジノは言った。
テオナは自分の足元を見た。
ジノは言葉を継いだ。
「でも、歩く方が楽かも。さっきよりは」
「荷物は、もうしばらく俺が持つ」と、アレンは言った。
「うん。ありがとう」
テオナは二人を見比べた。
何か言いかけたが、道の方から聞こえた馬の足音に顔を上げる。
詰所の前へ、一騎が止まった。
馬から下りた衛兵が、中へ入っていく。
アレンも立ち上がった。
ほどなく、さっきの衛兵が三人を呼んだ。
卓の上に、大きな鞄が置かれていた。
テオナの足が止まった。
「……それ」と、テオナは言った。
持ち手の片方に、白い糸が巻かれている。
ほどけかけた革を、旅の途中で縫い留めたところだった。
テオナは言葉を継いだ。
「父さんの鞄......」
「レグナーの家の客室に残っていたんだ。君の話と特徴が合うので、確認してもらうために持ってきたのさ」と、詰所の衛兵は言った。
テオナは卓へ近づいた。
ジノも立ったが、その隣へは入らず、椅子のそばに留まった。
「父さんは?」と、テオナは尋ねた。
「家には、誰もいなかった。レグナーも、君の父親も見つからなかった」と、戻った衛兵は言った。
テオナの手が止まる。
「玄関の椅子が倒れ、廊下には物が散らばっていた。争ったような跡がある」と、戻った衛兵は続けた。
「血は……?」と、テオナは尋ねた。
戻った衛兵は、一拍置いて答えた。
「目につく範囲に、大きな血の跡はなかった。ただ、それだけで無事だったとまでは言えない」
テオナは鞄へ目を落とした。
安心していいのか、わからなかった。
父親がそこにいないことだけは、はっきりしている。
「家の周りは?」と、アレンは尋ねた。
「近所にも聞いている。わかったことは、こちらへ知らせる手はずだ」
衛兵は鞄の留め具を示した。
「中身も確かめてくれるか。持ち主を確かめたうえで、捜索の手がかりになるものがないか確認したい」と、詰所の衛兵は言った。
テオナはうなずいた。
*
鞄を開くと、金属の匂いがした。
油と、革と、使い込まれた道具の匂い。
テオナは布を一枚ずつめくった。
大きいやすり。
替えの金具。
錠前の部品を分けた、小さな箱。
どれも、父親と一緒に何度も出し入れしたものだった。
奥の布包みへ触れたところで、手を止める。
「……これも、残ってる」と、テオナは言った。
取り出したのは、掌より少し大きい錠前だった。
外側の板に、三枚の葉を組み合わせた印が刻まれている。
「葉っぱ?」と、ジノは尋ねた。
「工房の印よ。これを作ったところの」
「ベルカの工房か?」と、アレンは尋ねた。
テオナが顔を上げた。
「うん。三葉の鍵工房」
衛兵がうなずいた。
「川沿いの職人通りにある店だな」と、詰所の衛兵は言った。
テオナは錠前を卓の上の布へ載せ、右手で支えた。
「古い型で、この工房じゃ替えの部品が手に入らなくて。その工房のご主人と知り合いである父さんが預かって、直してたの」
布の上で、錠前の向きを変える。
テオナは言葉を継いだ。
「合う部品が見つかって、直せたから……今回、返しに来たのよ」
「そのお店に?」と、ジノは尋ねた。
「今朝、ここへ返しに行く予定だった。昨日は、遅くなったから……泊まるところを探したの」
錠前を支える指に、少し力が入る。
「父さん、一晩休んだら行こうって言ってたのに......」
テオナは口を閉じた。
「その人なら、父親のことを知ってるんだな?」と、アレンは言った。
「……そうだと思う」
「聞きに行こう。父親が、ほかに誰と会う予定だったか、わかるかもしれない」
テオナがアレンを見る。
「え......行って、いいの?」
アレンは衛兵へ顔を向けた。
「俺たちも、その工房で話を聞きたいんですが」
「わかった。この報告を持って町へ戻る者がいる。案内を兼ねて、一緒に行ってもらおう。工房の主人にも、父親の行方を聞いてみよう」と、詰所の衛兵は言った。
テオナは錠前を見下ろした。
自分が知っている仕事の話が、父親を捜す道につながった。
「……これ、持っていってもいい?」と、テオナは尋ねた。
「確認に必要な形と印は、書き留めた。持ち主の家族だと確認できたから、鞄ごと返そう。工房で、その錠前も見せてくれたまえ」
テオナは小さくうなずいた。
錠前を布へ包み直し、鞄の中へ戻した。
*
ベルカの町へ続く道には、荷を積んだ馬車が増えていた。
詰所から同行する衛兵が前を歩き、三人が続いた。
父親の鞄は、衛兵が持ってくれている。
最初、テオナは自分で持とうとした。けれど、傷のある手を見た衛兵が、工房まで運ぶと言ってくれた。
今も、ときどき鞄の位置を確かめながら歩いている。
「ねえ、テオナ」と、ジノは言った。
「何?」と、テオナは尋ねた。
「さっきの錠前、見ただけで、直ったかどうかわかったの?」
「父さんが直したのを、見てたからよ。見ただけじゃ、中までわからないわ」
「じゃあ、直すときは?」
「まず、鍵を回す。どこで引っかかるか、どんな音がするか、確かめるの」と、テオナは言った。
ジノは、自分の右手を見た。
テオナは言葉を継いだ。
「強く回せばいいってものじゃないわよ。折れたら、余計に直すのが大変になるんだから」
「……力を入れすぎないようにするんだ」と、ジノは言った。
「そう。動かない理由があるんだもの」
テオナは話しながら、指先を少し動かした。
細い道具を持つ形になっていた。
ジノは河原の小石を思い出した。
持ち上げるつもりで、砕いてしまった石。
そっと触れる感覚を思い浮かべて、ようやく拾えた最後の一つ。
「ぼくも、確かめながらやらなきゃ......」と、ジノは言った。
「あんた、錠前も直すつもり?」
「違うよ。ぼくの鍵から出る腕のこと」
テオナの視線が、腰の黒い神律の鍵へ動いた。
「腕? あんたの力って、そういうものなの?」と、テオナは尋ねた。
「うん。大きな巨人の腕を呼べるんだ。でも、細かく動かすのが難しくて」
「どのくらい大きいの?」
ジノは両腕を広げかけ、背中が痛んで止めた。
「……これじゃ、全然足りない」
「倉庫の屋根を受け止めたんだ、その巨人の手が」と、アレンは言った。
テオナがアレンを見た。
それからジノへ戻る。
「そんなもの、今ここで出さないでよ?」と、テオナは言った。
「出さないよ!」と、ジノは声を上げた。
返事が大きくなった。
テオナの口元が、ほんの少し動いた。
笑ったのかと思って見直すと、もう前を向いていた。
アレンは二人の歩幅を見て、少し足を緩めた。
*
町の入口をくぐると、声と匂いが一度に近づいた。
焼いたパンの匂い。
荷車の車輪が石を打つ音。
窓から布を振る人と、店先で値段を尋ねる人。
ジノは、道の両側を見回した。
ルヴェル村の広場より広い通りが、建物の向こうへ続いている。
「……人、いっぱいだ」と、ジノは言った。
テオナは答えなかった。
隣を見ると、道の脇に立つ男性たちへ視線を向けていた。
革の手袋をしている男性。
短い外套を羽織っている男性。
どちらも、こちらを見てはいない。
それでも、テオナは道具袋の紐を握り直した。
ジノは歩く速さを少し落とし、遅れかけていたテオナの横へ並んだ。
「あたし、歩けるわよ」と、テオナは言った。
「うん。ぼくも、こっちの方が歩きやすい」
人の流れが途切れ、二人はアレンの隣へ戻った。
「職人通りは、橋の手前を曲がったところだ」と、同行の衛兵は言った。
川の方から、槌を打つ音が聞こえた。
テオナが、少しだけ顔を上げた。
*
三葉の鍵工房は、細い路地に面していた。
軒先には、三枚の葉と鍵を組み合わせた木の看板が下がっている。
だが、店の戸は閉まっていた。
小さな札が一枚、紐で結ばれている。
『休業』
衛兵が戸を叩いた。
コン、コン。
「どなたか、いるか?!」と、同行の衛兵は言った。
返事はなかった。
もう一度叩き、耳を澄ます。
中は静かだった。
「出かけてるのかな?」と、ジノは言った。
テオナは戸の前へしゃがんだ。
左手をかばい、右手で自分の膝を支える。
戸の外側には、錠が掛かっていた。
「こんな錠、前には掛かってなかった……」
テオナは錠へ手を伸ばしかけ、衛兵を見上げた。
「中を確かめられない?」
「まず、裏口を見てみよう。誰かが戻るのを待っているだけでは、事情がわからないからな」と、同行の衛兵は言った。
テオナは立ち上がった。
「父さん、ここへ来るはずだったのよ」
「……うん」と、ジノは言った。
「なのに、ここまで……」
言葉が止まった。
衛兵は店の窓と、裏へ続く細い道を見た。
「裏口も確かめて、近所へも話を聞く」と、同行の衛兵は言った。
そのとき、向かいの家の窓が開いた。
*
「……そこの職人なら、もういないよ」と、近所の女性は言った。
年配の女性が、窓の内側からこちらを見ていた。
視線が衛兵の服へ動き、少しだけ窓が大きく開く。
「何か知っているんですか?」と、同行の衛兵は尋ねた。
「今朝、連れていかれたよ。男たちが訪ねてきてね。主人が戸を開けたら、そのまま中へ入っていったんだ。そのあと、大きな音がして……」
テオナが一歩出た。
「誰に?」
女性は路地の先を見た。
誰も立ち止まっていないことを確かめ、声を低くする。
「剣を持った男たちだよ。工房の主人を外へ引っ張り出してね。最後に一人が『今日は店じまいだ』って、勝手に戸を閉めて、外から錠を掛けていったんだ」と、近所の女性は言った。
「誰か、助けを呼びには?」と、同行の衛兵は尋ねた。
女性の顔が強張った。
「窓から声をかけたら、口を出すなって。衛兵に知らせたら、仕返しに戻ってくると脅されたんだよ。隣には、小さい子もいるのに……」と、近所の女性は言った。
衛兵は、声を落とした。
「今、話してくれて助かります。男たちは、どこへ行ったかわかりますか?」と、同行の衛兵は尋ねた。
「川の方だね。荷車を止めてたよ」
テオナが息を吸った。
「そのとき、ほかにも連れていかれた人はいなかった? 旅の服を着た男の人」
女性がテオナを見直した。
「ああ。いたよ。先に連れてこられた男が、一人」と、近所の女性は言った。
テオナの手が、道具袋の紐をつかんだ。
「その人も、両手を身体の前で縛られてた。店の職人と一緒に、荷車へ乗せられてね」と、近所の女性は続けた。
テオナは父親の上着と背格好を、急いで伝えた。
女性は聞きながら、眉を寄せる。
「そんな服だったね。袖をまくっていた」と、近所の女性は続けた。
「右手。親指のところに、火傷の痕は?」と、テオナは尋ねた。
「いやあ、そこまでは見えなかったよ。でも、名前を呼んでた。たしか......『テオナをどうした?』って、何度もね」
テオナの指が止まった。
「連れてきた男は、『娘は別の連中が捜してるから、余計なことを考えるな』って答えてたよ」と、近所の女性は続けた。
ジノがテオナを見た。
彼女は口を開いたが、すぐには声が出なかった。
「……あたし。テオナは、あたしよ」
女性の顔が、曇った。
「それから、父さんは……その人は、何か言ってた?」と、テオナは尋ねた。
「『娘に手を出すな』って、何度も。大きな声で」と、近所の女性は言った。
テオナは口を押さえた。
その声が、耳の奥で聞こえた気がした。
「その人の様子は。けがはしていたか?」と、同行の衛兵は尋ねた。
「口元を切ってた。でも、自分の足で歩いてたよ。荷車の縁にも、自分でつかまってた」
テオナは息を吐いた。
吸おうとして、うまく吸えなかった。
「……生きてた」と、テオナは言った。
今朝、家を出たあとの父親を、誰かが見ていた。
自分が逃げたあとも、父親は生きていた。
ジノは彼女の横で、うなずいた。
「……見つけよう。お父さんを!」
テオナが、強くうなずいた。
――第12話・終
戸が閉じ、いつもの仕事が途中で止まっている工房。
そこに暮らしていた人が連れ去られたことを、残された道具や近所の人の言葉から描きました。
怖くて声を上げられなかった女性も、知っていることを伝えてくれました。
その証言が、テオナに父親の足取りを教えてくれます。
「生きてた」と言えた彼女の、ほっとした気持ちが伝わっていればうれしいです。




