第八章 逃げ場なき製図室
「蓮くん、大輝くん、お疲れ様」まるですべての会話を聞いていたかのような絶妙なタイミングで、姫華が、あの非の打ち所がない完璧なお人形さんの笑顔を浮かべて、俺たちの机の前に立っていた。「うお、姫華じゃん。お前も課題残ってたの?」 大輝がいつも通りの軽い調子で声をかける。その無邪気さが、今の俺にとっては心臓を引き裂かれるほど恐ろしい。「うん、ちょっと模型の材料が足りなくなっちゃって。……ねえ大輝くん、購買でスチレンボードの1ミリのやつ、買ってきてもらえたりしない? 私、荷物多くて」姫華は少し小首を傾げて、おねだりするように大輝を見つめた。「あー、いいよ。ちょうど俺もボンド買い足したかったし。蓮、ちょっと席外すわ」「え、あ、おい! 大輝」引き留める間もなく、大輝は軽い足取りで製図室を出て行ってしまった。バタン、とスチール製の重いドアが閉まる。 一瞬にして、だだっ広い製図室の片隅で、俺と姫華の二人きりの空間が作られた。
夕闇が差し込む窓際。オレンジ色の光が、姫華の栗色の髪を不気味に照らしている。さっきまでの可愛らしい雰囲気は、大輝が消えた瞬間に霧のように霧散していた。「……何の用だよ」俺はカッターナイフを握る手に力を込め、声を低くして睨みつけた。姫華はトコトコと俺の机に近づくと、大輝がさっきまで座っていた椅子に、流れるような動作で腰掛けた。そして、机の上に両肘をつき、小さな顎を両手で支えて、じっと俺を見上げてくる。「蓮くん、この前の夜、すっごく面白かった」鈴の鳴るような、甘く澄んだ声。それが今の俺には、悪魔の囁きにしか聞こえない。「……何がだよ」「大輝くんのバッグに入ってた髪飾り、だっけ? 別れるときに突き返された私物を処分しようとして落とした、だっけ?」 姫華はクスクスと、本当に愉快そうに肩を揺らした。「すごーい。あの短い時間で、よくあんな嘘思いつくよね。ミカちゃん、完全に信じてたよ? 私、お風呂場の中で声出して笑いそうになっちゃった」背筋に、氷水を一気にかぶせられたような悪寒が走った。やっぱり、全部聞かれていた。俺がミカについた苦し紛れの嘘も、必死の言い訳も、この少女は浴室の暗闇のなかで、すべてを把握して楽しんでいたのだ。「お前……最初から分かっててやったのか? スマホの充電が切れたのも、財布を落としたのも……」「お財布なんて、落としてないよ?」 姫華はスカートのポケットから、高級ブランドの小さな財布をあっさりと取り出して見せた。 「スマホの充電も、本当はずっと満タン。ミカちゃんが『バイト長引くから遅くなる』って蓮くんにLINEしたの、私、すぐ横でミカちゃんのスマホの通知画面が見えちゃったんだよね。だから、今がチャンスだと思って、蓮くんのお部屋に行ったの」すべてが、最初から仕組まれた罠だった。財布を落とした可哀想な女の子を演じ、俺の部屋に転がり込み、ミカが来た瞬間にわざと足跡を残して、俺がどう動くかをテストしていたのだ。「なんで……なんでそんなことするんだよ! お前は大輝と別れたんだろ!? 俺にはミカがいるんだ!」 声を荒げる俺に、姫華は表情ひとつ変えず、むしろ酷く冷徹な瞳で俺を射抜いた。
「大輝くんが私をフったからだよ」姫華はぽつりと言った。その声には、大輝への執着ではなく、何か新しいオモチャを見つけたような純粋な狂気が混ざっていた。「大輝くんね、私のこと重いって言ったの。ちくいち監視されるのが嫌だって。でも、蓮くんは違ったよね? 私が困って部屋に行ったら、お金貸してくれたし、ミカちゃんにバレないように一生懸命守ってくれた。お風呂場に私を隠して、ハラハラしながら私を逃がしてくれた……。あの時の蓮くん、すっごくドキドキしてて、格好よかったよ?」姫華の手が、机を這って、俺のカッターを持つ手に重なった。 冷たい。お人形さんのような、体温の感じられない手だった。「私ね、決めたの。大輝くんより、蓮くんの方がずっと私の『お人形』に向いてるって」「な……何を言って」「ねえ、蓮くん。今夜も、蓮くんのお部屋に行っていい? ミカちゃんには内緒で、また二人だけの秘密の続き、しよ?」姫華の顔が、じりじりと近づいてくる。その完璧な笑顔の裏にある圧倒的な粘着質と執着心に、俺は恐怖で声も出せなくなった。もし拒絶すれば、この少女は今すぐミカにあの夜の出来事をぶちまけるだろう。そうなれば、ミカとの関係も、大輝との友達関係も、俺の大学生活のすべてが崩壊する。俺は、最初から逃げ場なんてない檻の中に、自ら足を踏み入れていたのだ。廊下から、再び大輝の足音が近づいてくる。 姫華はパッと手を離し、何事もなかったかのように、いつもの無垢な「元カノ」の笑顔に戻った。「あ、大輝くんおかえりー。買ってきてくれた?」




