第七章 元カレの忠告、背筋の悪寒
あの心臓が擦り切れるような緊迫の夜から、数日後。大学の製図室は、中間提出を間近に控えた建築学科の生徒たちの熱気と、徹夜明けのどんよりとした空気で満ちていた。図面を引く平行定規のシャカシャカという音だけが響く夕方、俺は親友の大輝と二人きりで、巨大な作業机に向き合っていた。周りの奴らは材料の買い出しやタバコ部屋に消え、ちょうどいい死角になっている。俺はカッターナイフでスチレンボードを切りながら、胸の奥をチクチクと刺すような後ろめたさに耐えていた。目の前で、のん気に模型にボンドを塗っている大輝。あいつは何も知らない。あいつがフった元カノである姫華が、俺の部屋のベッドにいたことも、俺の浴室に隠れていたことも。
「……なぁ、大輝」俺はカッターを動かす手を止め、できるだけ雑談を装って、ずっと気になっていた疑問を口にしてみた。「お前さ……姫華ちゃんと、なんで別れたんだ? 学科の連中もみんな不思議がってたぞ。あんな可愛い子、よくフる気になったなって」大輝はボンドのノズルを口から離し、あちゃーという顔で頭をかいた。「あー、やっぱり気になる? ミカちゃんにも食堂で突っ込まれたしな」大輝は苦笑いしながら、周囲に人がいないか一応見回してから、声を潜めた。「いやさ、付き合う前はお人形さんみたいでマジで可愛いと思ってたんだけど……付き合ってみたら、姫華、結構粘着質でさ」「……粘着質?」心臓が、嫌なテンポでドクンと脈打った。「そう。なんて言うか、束縛とかの次元を超えてるんだよ。ちくいち俺が今日何をしていたか、誰とどこで会っていたか、何時何分にどこにいたかを、ものすごい笑顔で毎日聞いてくるんだ。最初は愛されてるのかなって思ってたんだけど、だんだん監視されてるみたいで不気味になってきてさ。俺、自由がなくなるのが一番嫌だから、それが耐えられなくなってフったんだよ」大輝は「あいつの執着心はマジでヤバいぞ」と肩をすくめ、また作業に戻った。大輝のその言葉が、俺の脳内で最悪の形に噛み合っていく。ちくいち、何をしていたか聞いてくる。尋常じゃない執着心。俺の頭のなかに、あの夜の出来事がフラッシュバックした。ミカが「お泊まりはまた今度にするね」とLINEを送ってきた、まさにその直後、なぜかタイミングよく部屋に現れた姫華。彼女は「ミカちゃんのバイトの先輩が私の友達だから、シフトを代わってってお願いしといた」と言っていた。それはつまり、姫華はミカのバイトのスケジュールを完全に把握し、俺とミカの動向をリアルタイムで監視していたということではないのか? だからこそ、ミカが来なくなったあの絶妙なタイミングで、俺の部屋にピンポイントで現れることができたのだ。さらに、あの別れ際に唇の動きだけで告げられた言葉。「また明日、大学でね」あれは可愛い挨拶なんかじゃない。 「あなたの行動は、全部私の視界に入ってるよ」という、逃れられないロックオンの宣言だったんだ。「おーい、蓮? フリーズしてどうしたんだよ。カッター危ねえぞ」「あ、あぁ……。いや、大輝でもそんなことで悩むんだなと思ってさ……」俺の顔は、完全に土気色に変色していた。手元を持つ指先が、かすかに震えている。
俺はとんでもない怪物を、自分の部屋に招き入れてしまったのかもしれない。 大輝という寄る辺を失ったあの粘着質のロリータ人形は、今、次のターゲットとして俺のすべてを絡め取ろうとしている。もし、このまま姫華の執着がエスカレートしたら、ミカとの関係はどうなる? 大輝との友情は? 俺がそんな底なしの恐怖に背筋を凍らせていた、その時だった。製図室の重いスチール製のドアが、静かに開いた。夕闇の差し込む廊下から、コツ、コツ、と独特の足音が近づいてくる。 ピンクのフリル、栗色のカーリーヘア。「蓮くん、大輝くん、お疲れ様」まるですべての会話を聞いていたかのような絶妙なタイミングで、姫華が、あの非の打ち所がない完璧なお人形さんの笑顔を浮かべて、俺たちの机の前に立っていた。




