第九章 地雷とロリータの包囲網
「あ、大輝くんおかえりー。買ってきてくれた?」姫華は何事もなかったかのように立ち上がり、購買から戻ってきた大輝を迎えた。その変わり身の早さに、俺の背中は冷や汗で再びびしょ濡れになっていた。「おう、買ってきたぜ。ほら、スチレンボードとボンドな」大輝は何も気づかずに材料を机に置く。「サンキュー、大輝くん。じゃあ私、自分の席に戻るね。蓮くん、またね」姫華は俺にだけ分かるように、唇の端を妖しく吊り上げて微笑むと、フリルを揺らしながら製図室の奥へと去っていった。残された俺は、椅子の背もたれに崩れ落ちるようにして、激しく脈打つ心臓を押さえた。あいつは本物だ。大輝がフった理由が、今なら痛いほどよく分かる。そしてあいつは今、俺のすべてを握り潰そうとしている。「……蓮、お前マジで顔色悪いぞ? 徹夜のしすぎか?」大輝が心配そうに俺の顔を覗き込んできたが、俺は「あ、あぁ、ちょっと目眩がしてさ……」と誤魔化すのが精一杯だった。だが、地獄の神様は、俺に一瞬の休息すら与えてはくれなかった。
ガタタッ。
製図室のドアが再び開き、今度はもっと聞き馴染みのある、弾むような足音が部屋に響き渡った。「蓮ーーっ! 課題進んでる? 差し入れ持ってきちゃった!」ツインテールを揺らし、大きな紙袋を抱えて入ってきたのは、ミカだった。手作りらしきクッキーの袋を掲げて、満面の笑みで俺の元へと駆け寄ってくる。「み、ミカ……!? なんでここに……」「だって、蓮が今週ずっと帰りが遅いから、寂しくなっちゃって。大輝くんもお疲れ様! これ、みんなで食べて」「お、ミカちゃんサンキュー! ちょうど腹減ってたんだよな」大輝が嬉しそうにクッキーに手を伸ばす。いつもなら、彼女の健気な優しさに胸が熱くなるところだ。しかし今の俺にとっては、この部屋自体がいつ爆発してもおかしくない火薬庫と化していた。なぜなら、この広い製図室のほんの数十メートル先には、あの姫華が座っているのだから。
「蓮、どうかした? わたしの顔、じっと見て」ミカが首を傾げ、俺の顔を覗き込んできた。「ううん、何でもない。わざわざありがとな、ミカ」必死で笑顔を作るが、引きつっているのが自分でも分かった。その時、最悪の足音が、再びこちらに向かって近づいてきた。コツ、コツ、コツ。「あ、ミカちゃん、いらっしゃい。クッキー、すっごくいい匂い」楽しそうな声をあげて、姫華が俺たちの作業机の前に戻ってきた。一瞬にして、俺、ミカ、大輝、そして姫華の四人がひとつの机を囲む形になる。あまりの緊張感に、俺は呼吸の仕方を忘れそうだった。
「あ、姫華。久しぶり」ミカの目が、一瞬で温度を失った。口元は笑っているが、黒い瞳の奥にドス黒い警戒心が宿るのが分かった。地雷系彼女の防衛本能が、本能的に姫華の危険性を察知している。「うん、久しぶり。ミカちゃん、相変わらず蓮くんとラブラブで羨ましいな」姫華は無邪気を装って言うと、わざとらしく俺の方をチラリと見た。「あ、そうだ。蓮くん、この前は本当にありがとね。蓮くんのおかげで、私、本当に助かっちゃった」ドクン、と心臓が跳ね上がった。「……え?」ミカの視線が、一瞬で俺へと突き刺さる。「蓮が、姫華を助けた……? 何のこと?」「あ、いや! それはさっき大輝とも話してた、あの……っ」俺の声が裏返る。そんな俺の狼狽ぶりを大好物だと言わんばかりに、姫華は楽しそうに、しかし確実にミカの地雷を踏み抜くフレーズを重ねていった。「うふふ、大輝くんの髪飾りのことだよ。ね? 蓮くん。あの日、蓮くんがお部屋で一生懸命私のために色々してくれたこと、私、一生忘れないから。お金も貸してくれたし、本当に優しかったの」お部屋で。私のために色々してくれた。姫華の言葉は、嘘は言っていない。あの夜、俺が部屋で必死に靴を隠し、浴室に誘導し、お金を貸して逃がした事実そのままだ。だが、何も知らないミカの耳には、それがどう聞こえるか。
「……蓮の、お部屋?」ミカの声から、完全に感情が消えた。ツインテールの隙間から覗く耳元が、怒りで微かに震えている。「ちょ、ちょっと待てミカ! 違うんだ! それは夕方に大輝が俺の部屋に相談に来たときのことで」「え? 俺、あの日の夕方はずっとバイトしてたから蓮の部屋には行ってねえぞ?」のん気な大輝のトドメの一言が、製図室に響き渡った。「大輝、お前……っ!!」「え? 何が?」大輝は本当に何も分かっていない顔で首を傾げている。ミカの視線が、ゆっくりと俺へと戻ってくる。その瞳は、怒りを通り越して、底の知れない漆黒の闇のようになっていた。「大輝くんは行ってない。なのに、姫華は蓮の部屋で、蓮に色々してもらった……? 蓮、これ、どういうこと……?」ミカの笑顔の奥の目が、ドス黒く濁り、完全に地雷が爆発するカウントダウンを始めた。そしてその横で、姫華は「あーあ、バレちゃった」とでも言うように、最高に可愛らしい、そして残酷な笑みを浮かべて俺を見つめていた。




