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第五章 神回避の境界線

 「……生き、残った……」ミカからの「お泊まりはまた今度にするね」というLINE画面を見つめたまま、俺はベッドの上に派手にひっくり返った。体中のアドレナリンが一気に引きいていく。右手に握りしめたままのコロコロと、部屋に漂うホワイトムスクのお香の香りが、さっきまでの死闘を物語っていた。助かった。本当に助かった。神様、ミカのバイト先の店長、みんなありがとう。「ふぅ……。よし、とりあえずシャワー浴びて寝るか」地獄の底から這い上がった解放感に浸りながら、俺はテレビのリモコンを押し、何気なく深夜のバラエティ番組を流した。画面の中では芸人たちが大騒ぎしているが、内容は全く頭に入ってこない。ただ、無音の恐怖から逃れたい一心だった。



カチャリ。



 静かな部屋に、あまりにも不吉な金属音が響いた。俺の心臓が、今日何度目か分からない跳ね上がり方をする。音がしたのは、アパートの玄関ドアだ。防犯チェーンが擦れる冷たい音がして、ゆっくりとドアが開く。「……え?」恐怖で硬直する俺の視線の先、玄関からひょっこりと顔を出したのは、栗色のカーリーヘアにピンクのフリルをまとったお人形さんの姫華だった。「ヤッホー、蓮くん。まだ起きてた?」「ひ、姫華!? なんで……っ」驚愕する俺を置いて、姫華はトコトコと部屋に上がり込んでくる。 大学のすぐ近くにある俺の一人暮らしのワンルームは、同じ学科の連中にとっては絶好のたまり場になりやすい。とはいえ、昨夜一線を越えたばかりの元カノが、こんな夜更けに平然とやってくるなんて夢にも思わなかった。「ちょっと、どうしたんだよこんな時間に! ミカが来るかもしれないんだぞ!」声を潜めながら必死に掴みかかる俺に、姫華は困ったように眉を下げて、空っぽのポケットを裏返してみせた。「あのね、さっきまで大学の製図室に残って、学科の設計課題をやってたの。そしたら、どこかで財布落としちゃって……。スマホはあるから蓮くんに連絡しようと思ったんだけど、充電切れちゃって。家にも帰れないし、困って蓮くんの部屋に駆け込んじゃった。お金、貸してほしいな、なんて……」「財布を……? 課題の居残り……?」あまりにも辻褄の合う、あるいは大学生らしいリアルなトラブルだった。確かに、建築学科の課題提出前は、夜遅くまで製図室にこもるのが日常茶飯事だ。嘘を言っているようには見えないが、今この部屋に姫華がいること自体が、我が家の核ボタンの信管に火をつけているようなものだった。「わ、分かった! いくらだ? 貸すから、とにかくすぐ帰れ! 駅までのタクシー代と、明日の飯代、これで足りるか!?」俺は財布から一万円札をむしり取るようにして、姫華の手のひらに握らせた。「ありがと、蓮くん優しい。……あ、これ、お香? すっごくいい匂い。私、ホワイトムスクの香り大好きなんだよね」「いいから! ほら、早くドアに向かって!」姫華の背中を押して、玄関へと急がせる。 その時だった。トントン、と。 外の共有廊下から、軽快で、しかし聞き覚えのありすぎる足音が近づいてくる。嘘だろ。 その足音は、俺の部屋のドアの前でピタリと止まった。



 「おーい、蓮! バイト、他の子が急に入ってくれて奇跡的に早く終わったの! サプライズで来ちゃったー!」ドアの向こうから聞こえる、元気いっぱいのミカの声。そして、ガチャガチャとドアノブが回る音。「ひっ……!?」俺は喉から引きちぎられたような悲鳴をあげた。ミカが来なくなったのは嘘だったのだ。サプライズで喜ばせようという、彼女なりの純粋な好意。それが今、俺にとっては死刑宣告のファンファーレに聞こえた。「あ、ミカちゃんだ」姫華が小さく呟く。その瞳には、焦りよりもどこか面白がっているような光が宿っていた。「頼む、姫華! 隠れてくれ!!」俺は半狂乱になりながら、玄関のすぐ脇にある浴室のドアを開け、姫華の背中を強引に押し込んだ。ピンクのフリルがパタパタとユニットバスの暗闇へと消える。バタン、と浴室のドアを閉めると同時に、俺は玄関の鍵を開け、外のミカを迎え入れた。「蓮! お疲れサマーー!」飛び込んできたミカが、俺の首に抱きついてくる。ツインテールから香る地雷系特有の甘い香水と、先ほど焚いたばかりのホワイトムスクのお香が混ざり合い、脳がバグりそうになる。「み、ミカ……! バイト、遅くなるんじゃなかったのかよ?」「へへ、驚いた? 先輩が『あとはやっとくから上がっていいよ』って言ってくれたの。蓮に会いたくて、駅から走ってきちゃった」可愛い。いつもなら飛び上がるほど嬉しいセリフだ。だが今の俺は、数メートル先の浴室のドアが気になって、心臓が爆発しそうだった。ミカは部屋に入ると、クンクンと鼻を鳴らした。「あれ? 蓮、お香なんて炊いてるの? 珍しいじゃん。……なんか、部屋もいつもより無駄に綺麗だし」「あ、いや! ほら、設計課題で行き詰まってさ! 気分転換に部屋を片付けて、大掃除して、お香でも炊いて集中しようと思ったんだよ。建築学科って、環境のレイアウトが大事だからさ!」必死にまくし立てる。ミカはふーんと部屋を見渡していたが、やがて「まぁ、綺麗だし良い匂いだからいっか」とベッドの端に荷物を置いた。その時、ミカの視線が、玄関のたたきに落ちていたあるもので止まった。



「……ねえ、蓮」ミカの声のトーンが、一段低くなる。「何、これ」ミカが指差したのは、ピンクのレースが編み込まれた、小さな髪飾りだった。おそらく、さっき姫華を浴室に押し込んだ際、弾みで落ちたのだろう。床が、俺の足元から崩れ落ちていく感覚がした。

「……これ、女の子の、だよね?ロリータ服とかにつけるやつ。……蓮の部屋に、なんでこんなの落ちてるの?」ミカの黒い瞳が、じっと俺を射抜く。地雷系彼女の異常なまでの勘の鋭さが、牙を剥いた瞬間だった。「あ、それ……! それは、大輝のバッグに入ってたやつだよ!」「大輝の……?」「そう! ほら、大輝が姫華をフっただろ? あいつ、別れるときに姫華から突き返されたり、部屋に残ってたりした姫華の私物を、まとめて処分しようと思って紙袋に入れて持ち歩いてたんだよ。で、夕方に俺の部屋に課題の相談に来たとき、その袋からポロッと落ちたんだ。俺も後で大輝に返さなきゃって思ってたところでさ、あははは!」喉が完全に枯れそうだった。脳細胞をフル回転させて紡ぎ出した、大輝が「フった側」だからこそ成立する、少し強引な嘘。ミカは数秒間、その髪飾りと俺の顔を無言で見比べた。 部屋の中を、心臓のドクドクという音だけが支配する。「……ふーん」ミカはポイ、とそれを机の上に置いた。「ほんとに、何もなかったの?」上から覗き込むような、試すような問い詰め。 ここで一瞬でも目を逸らしたら終わる。俺は全身の筋肉を硬直させ、ミカの目を真っ直ぐに見つめ返した。「何もない! あるわけないだろ! 俺には、ミカっていうちゃんとした彼女がいるんだから!」全力の、命がけの言い切りだった。 ミカは俺の目を見つめたまま、やがて、ふっといつもの笑顔に戻った。



 「そっか。蓮がそう言うなら、信じる。変なこと疑ってごめんね」ミカは俺の胸に頭を預けてきた。 なんとか、本当に紙一重で、この夜の危機をすり抜けた。しかし、俺の背中の冷や汗は止まらない。なぜなら、ミカがこうして俺の胸に抱きついている間も浴室の中には、まだ、あのロリータ服の姫華が息を潜めて潜んでいるのだから。



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