不倫の代償
初夏を思わせる、日差しの強い午後だった。
近所のモールで買い物をして、さあ帰ろうと思った時、目の前を見知った人が歩いてきた。
田中だった。
2人同時に目が合うと共に、お互い『まずい』という顔になった。
しかし、そのまま無視して通り過ぎることもできずに、
「こんにちは」
「こんにちは。お久しぶりです」
と、お互いにあいさつを交わした。
その後の会話がが続かず、少しの沈黙があったが、先に田中が切り出した。
「私の事、斎藤さんから聞いてるよね」
『いいえ』としらを切った方が親切かもしれないと思ったが、やめた。
下手な同情は要らないだろう。
「うん。聞いてる。その後どうしてるの?」
桜木とのことよりも、その後のご主人との関係の方が気になっていた。
「うん。一応、元通りっていうのかな。離婚はしてない。子供もいるしね。でも、旦那とはギクシャクしてる。旦那も精神的に不安定で、いきなり怒りだしたり、やさしくなったりして大変。だから、ずっと旦那の機嫌をうかがっている感じ。なんだか、蛇の生殺しみたい。まあ、原因は私なんだから仕方ないんだけどね」
家の中で、身を縮こめて生活している様子が伝わって来て痛々しかった。
「そういえば、一色さんは大丈夫だったの?桜木さんが、一色さんのことをいろいろ聞いてきたから、多分狙ってたんじゃないかな?私、桜木さんの気持ちを留めようと必死だったんだ。絶対、一色さんに気が向きかけてるって確信あったから」
そう言って、田中は薄く笑った。
さすが、女の勘はするどい。
桜木は、田中から舞子へ乗り換えようとしていたのか。
「うん。私は何もなかったよ。ほら、短期のパートだったし、そう会う機会もなかったから」
そう言って、舞子も笑った。
「そう。よかった。桜木さんって、ほんと魅力的だったのよ。私の心にするっと入って来てがっちり掴まれた感じ。狙われたら、なかなか逃れるのは難しいかもしれない」
そんなことは、舞子も重々わかっていたが、「そうなんだ」と軽く相槌を打つに留めた。
話が長くなりそうだったので、少し先のベンチに並んで腰かけた。
「後悔してるの?」
聞いてみたかった。
もしかして、舞子がそちら側の人間になっていたかもしれないのだ。
「そうね~。あの職場で働かなければ・・って思うこともあるんだけど。でも、心の潤滑油のようにまぶしい光を与えてくれたのも桜木さんなのよね。たとえそれが、私一人に向けられたものでないとしても、好きだった。麻薬みたいなものだったのかもね」
それを愛と呼んでいいのかは定かではないが、こんな目にあっても、桜木とのことは、心の奥底にじんわりと眠る暖かな塊として一生残り続けるのだろう。
だが、その代償は限りなく大きい。
「でもね・・」
と、田中は続けた。
「後悔はしてる。私はいいのよ。でも、旦那にはもう何をしても取り返しのつかない事をしてしまったわね。精神的に追い詰めてしまったのも私。子供たちは知らないはずだけど、旦那と私の関係がギクシャクしてるのは感じ取ってるはず。私が出て行けばすっきりするのかもしれないけど、逃げないって誓ったの。旦那から『出ていけ』と言われない限り、側にいるつもり。私が一生背負うものを旦那にも背負わせちゃったな」
そう言って、田中は泣きそうな顔で笑った。
これが、不倫の結末。
田中の泣きそうな顔が自分と重なって見えた。
あの日、帰らなければ、こうなっていたのは私。
そう考えただけで全身の毛が逆立つような恐怖に襲われた。
よかった。よかった。本当によかった。ただ、それだけを思った。
不倫の代償は、自分だけではなく夫にも背負わせる。
その言葉が痛かった。
「じゃあね」
『またね』とは言わなかった。
こうやって偶然会うこと以外で、また会うこともないだろう。
大股で闊歩していく彼女の姿をいつまでも見送った。
「いっ・し・き・さ~ん」
そう呼ばれて振り返った。
小学校の廊下をPTA室へ向かって歩いていると、城田が後ろから小走りで追いかけてきた。
「あら、こんにちは。今日は、私が1人で作業することになってたけど。忘れ物?」
今日は、新一年生保護者向けの登校許可証をチェックすることになっていた。
そう大した仕事ではないし、他のメンバーは都合がつかなかったので、舞子が1人ですることになっていたのだ。
「ううん。仕事で訪問の予定がキャンセルになったから来ちゃった」
折角の空き時間なんだから、自分のために使えばいいのに、と思った。
でも、それが城田の人柄なのだ。
「はい。これどうぞ。この前のお礼」
そう言いながら、ペットボトルのミルクティーを舞子に手渡した。
「お礼?」
「モデルハウスのイベントに行ってくれたでしょう?実は、社長さんに何枚か配ってくれって頼まれてて・・。押し付けたみたいで申し訳なかったんだけど・・。ありがとう。助かっちゃった」
笑顔でそう言われると、悪い気はしない。
きっと、彼女がトップセールスなのは、こういうところなのだろう。
彼女に『お願い』と言われると、外車の一台でも購入する気になるのかもしれない。
「こちらこそ、楽しませてもらったよ。立派なお土産もいただいたし。あの招待券を持っていた人だけが、お土産ももらえたんだね。子供達もすごく喜んでた。こちらこそ、ありがとう」
二人でPTA室の椅子に腰かけ、もらったミルクティーのふたを開けた。
「私ね、今度家を買うんだ」
唐突に、城田がそう言った。
「家?マンションじゃなくて?」
「そう。一軒家」
城田には申し訳ないが、シングルマザーと子供1人という家族構成で家を建てるという発想がまるでなかった。
実家のお母さんも同居するということなのだろうか。
「2人で住むの?お母さんも同居予定?」
「同居はしない。2人で住む」
そう聞いて、改めて驚いた。
「ごめん。2人で家って発想がなくて、一瞬頭が飛んだ。思い切ったね~。ローンも大変じゃない?」
つい現実的な事を聞いてしまう自分がいやになる。
「そうね~、もちろんローンなんだけど、今の稼ぎが続けばどうにかなるかな?なんかね、夢だったのよ。一軒家に住むのが。ハウスメーカーの社長さんとの商談中にいろいろ雑談をしてね、私でも買えそうって思ったのよ。さすがに注文住宅は手が出ないけど、いい建売住宅があったから決めちゃった」
そう話す城田は、とてもうれしそうだった。
城田の自分の城。
舞子の脳裏に、先日見た、小さなモデルハウスが浮かんだ。
窓から見える青々とした芝生も。
城田は、一軒屋に住むのが夢だったと言った。
そして、その夢をやすやすと叶えた。
自分だったら、シングルマザーだし、日々の生活があるし・・と、絶対に手を出さなかっただろう。
こんな人もいるんだな。
そして、思った。
いつまで、私はこうなのだろう?
いいな~と思いながら、見ているだけ。
自分から掴みに行ったことがあるだろうか。
ベランダから階下の青々とした芝を見た時、何を思った?
庭のある生活がとても豊かなものに見えた。
いいな~と思った。
そして、モデルハウスでそれが形となって描かれた。
でも、最初から手に入らないものだと諦めていた。
果たして諦める必要があるのか?
シングルマザーの城田でさえも、夢だったからと手に入れたのだ。
もちろん、ローンの支払いを考えると一筋縄でいかないことはわかっている。
それに、舞子たちは、すでにマンションを購入してしまっている。
さらに家を建てる資金などあるはずがない。そんなことはわかっている。
何かが舞子の中で弾けた。
『青い芝生のある家が欲しい』
自分の中に、はっきりとイメージが沸いた。
私は家が欲しいのだ。
そして、青い芝生を植え、心を豊かに満たしたい。
自分も、十分豊かなんだと感じたい。
「ねえ、城田さん。家を買うにはどうしたらいいの?」
思わず、そう聞いている自分がいた。




