桜木の正体
3月に入り、梅の花が一気に開花する頃、1階の住人たちはひっそりと引っ越して行った。
入居した時にはあいさつがあったのだが、出ていく時にはあいさつもなかった。
本当にひっそりと。
管理人以外、誰も引っ越しの予定さえ知らされていなかった。
舞子が知ったのも、引っ越し後3日経ってのことだった。
それも、教えてくれたのはマンションの住人ではなく、斎藤だった。
引継ぎの仕事のためPTA室に集まっている時のことだった。
「一色さん、高崎支社の桜木さん知ってるよね?」
突然出て来た名前に少し動揺したが、そんなそぶりも見せずに、
「はい。知ってます」
とだけ言った。
そして、次の言葉を待った。
「この時期に異動だって。東京の系列会社に異動するんだって言ってた。あんな騒ぎを起こしたんじゃしょうがないよね」
あんな騒ぎとは何なのだろう。
一瞬心がざわついた。
「何かあったんですか?」
「そう、あったのよ、実は。前橋支社の田中さん知ってるよね?田中さんと桜木さん、不倫してたのよ。全く知らなかったわよ。それで、1年近く続いていたみたいなんだけど、田中さんの旦那さんにバレちゃったのよ。妻の行動を怪しいと思ったんじゃない?興信所に調べさせて決定的な証拠を掴んだの。そして、相手が桜木さんだとわかって、その写真を本社の偉い人に送り付けたんだって。まあ、そんな事をする田中さんのご主人もどうかしてると思うけどね」
斎藤は話を続けていたが、舞子の耳を素通りしていた。
あの田中と桜木が不倫?そう言われれば、思い出すふしが無いわけでもない。
忘年会の時、田中はやたらと桜木にしなだれかかっていた。
あれが酔った勢いではなく、舞子へのけん制だとしたら納得できる。
次の日も、桜木と舞子が一緒に帰った事を気にして、さぐりを入れてきた。
そうだったのか。
ということは、桜木は、田中と付き合っていたにもかかわらず、舞子にも手を出してきた事になる。
「それでね、そんな手紙を送りつけられた本社も何らかの対応をしなければいけなくなったわけ。もう群馬に置いておけないからって、いわゆる左遷・・にしたわけよ」
田中も、夫がそんな事をした以上、会社にいるわけにもいかないから、退職したらしい。
いや、問題は退職などではなく、夫に不倫がバレた妻の立場だ。
一体どうなるのだろ。
そして、桜木も。
「驚きました。そんな事になってたんですね」
舞子の話ではなく、とりあえずはほっとした。
「それがね、桜木さんって実はすごかったのよ。パートを喰う常習犯だったみたいよ。その田中さんの話が出てから、調べてみたら高崎支社のパートさんともデキてたらしいの。田中さんの前にいたパートさんも、実はそれが原因で辞めてたんだって。すごくない?確かにモテそうだけど、そこまでとはねー」
それを聞いて、舞子もさすがに卒倒しそうになった。
そこまでとは・・。
「私なんか、声もかからなかったのよ。失礼しちゃうわー」
斎藤は、別な意味で腹を立てていた。
パート喰いなのに、声もかからなかったのが腹立たしいのだろう。
桜木と斎藤を想像して、ちょっとだけ可笑しかった。
「一色さんは?お誘いとかなかったの?短期だから、そんなに会う機会もなかったか・・」
舞子が答える前から、何も無いものと決めてかかっているのも可笑しかった。
「そうですね。飲み会で2回一緒になっただけですから。喰われなくてよかったです」
そう言って斎藤と一緒に笑った。
そう。舞子は喰われなかった。
あの夜、舞子は確かに、次の段階へ進む気でいた。
だが、心の中に芽生えた小さな違和感が気になって仕方なかった。
ここまで来たんだから、このまま流されてしまえ・・とさえ思った。
事実、7歳の年の差を知って、ためらいはしたものの思い止まることはしなかった。
食事を終え、トイレに立った。
そして、手を洗いながら、見上げた鏡に写った自分の姿を見てハッとしたのだ。
あんなに輝いて見えた自分の顔から艶が消えていた。
火照って目は潤んでいるが、恋をしている少女のような瞳ではなかった。
何よりも、似合っていたはずのターコイズブルーのニットがとてもくすんで見えた。
これは、さっきまでの私なの?
気づかないふりをして心に蓋をしてみたものの、違和感という名の自分の勘が警笛を鳴らしていた。
やはり、断ろう。
そう思ったのだが、うまく自分の気持ちを言葉にして断る自信がなかった。
そして、それはきっと、桜木を傷つけてしまう。
二人で並んで路地に入ったところで、突然、舞子の電話のベルが鳴った。
一瞬、二人で目を見合わせたが、桜木はそのまま歩き続けた。
舞子も電話を取らなかった。
電話のコールだけが響き渡り10回鳴って切れた。
そのまま歩き続けた。
すると、また電話が鳴った。
今度は、バッグから電話を取るために桜木のポケットから手を抜こうとした。
「取らないで」
桜木が舞子の手をぐっと握り、低い声で威圧的に言った。
舞子は、ビクッとしたが、その手を振りほどき、電話を取り出した。
ボタンを押し、耳に押し当てながら、小走りに走って桜木に聞こえない距離まで行って話し始めた。
桜木が、心配そうに、遠目に舞子を見ていた。
電話が終わって、舞子が桜木の元へ戻ってきた。
「電話、誰から?何だって?」
矢継ぎ早に聞いてきた。
「主人から。下の子が熱を出したから、すぐに帰って来てほしいって・・」
「熱?それぐらい旦那が見れるだろう?」
明らかに、桜木が不機嫌になったのがわかった。
「でも、心配なので帰ります。ごめんなさい」
そう言って頭を下げた舞子の頭上から、これ見よがしに大きなため息が聞こえた。
「これからって時にそれはないんじゃないの?母親が帰ったからって熱が下がるわけじゃないだろう。お楽しみはこれからでしょう」
舌打ちして、そう言いながら、桜木は段々と興奮してきた。
「だから電話取るなって言ったんだよ。こうなる予感がしたんだよ。で、ほんとに帰るの?帰らないよな?あんたも楽しみしてたんだろ?」
今までの「一色さん」と呼んでいた優しい声音とは全く程遠い「あんた」と呼ぶ男。
これは、本当に桜木なのだろうか?
目の前の人物が誰だかわからなくなってきた。
あのスマートで紳士的な桜木はどこへ行ったのだ。
ここにいるのは、どう見ても、おもちゃを取り上げられた駄々っ子だ。
三十三歳の大きな子供。これが桜木の本当の姿なのか。
舞子の頭のネジが緩んだのだろうか。
笑いがこみ上げてくるのを必死に我慢した。
そう。これが、私の好きだった桜木なのだ。
「私、帰ります」
桜木の目を見て、きっぱりそう言うと、くるりと向きを変えて駅の方へ足早に駆けて行った。
一刻も早くここを立ち去らなければ。
桜木は追いかけてこなかった。
桜木は唇を噛みしめて、地団太を踏んでいるだろう。見なくてもわかる。
まな板の上の鯉が、さあ調理をするぞという段になって、隙をついてするりと排水溝に流れていったのだ。
手に持った包丁をどこへ振り下ろしたらいいのかわからず、頭を掻きむしっているに違いない。
電車に乗るまでは不安だった。
無理やり連れて行かれたとしたら、腕力では敵わない。
乗ってしまえば、逃げ切ったということだろう。
そして、緊張から解放された手は、あれほど冷たかったはずなのに、今はじっとりと汗ばんでいた。
舞子は、トレイの中で断ると決め、スマホのアラームをセットした。
音も電話のベルの音に変えた。
10分後に1回、その1分後に1回、その1分後にもう1回。
3回セットしたのには理由がある。
1回目のベルはやり過ごす。2回目で出る。予備としての3回目だ。
子供が熱を出して急きょ帰ることになったことにすれば、桜木を傷つけることもなく、スマートに帰ることに成功するはずだった。
桜木も、それは仕方ないね・・と名残惜しそうに言うはずだった。
まさか、あんな結末になるとは夢にも思わなかった。
男の本能が勝って理性を押し殺すことができなかったのであろうか。
どちらにせよ、自分の選択は正しかったと心底思った。
やはり、伊達に人生の半分を生きて来たわけではないのかもしれない。
舞子の直感が正しかった。
だが、あれほど光り輝いていた世界が一瞬にして色あせたのだ。
落ち着くまでには、少し時間がかかるだろう。




