夜の街へ消える二人
赤ワインを飲み始めた頃、メインディッシュの牛ほほ肉の煮込みが運ばれて来た。
口に入れると、ほろほろと崩れ、デミグラスソースの味が口いっぱいに広がった。
「美味しい~」
思わず口から言葉がこぼれた。
あまり、ワインとの食べ合わせなど考えたことがなかったのだが、肉を食べて、ワインを一口飲むと、何とも言えない芳醇な味がした。
「そうでしょう?この店は、本当に何を食べても美味しいんだよ。接待に使っても評判よくてね」
わかる気がする。
コース料理を食べると、ハズレ感のある料理が出されることがある。
そんな時に、少々がっかりするのだが、この店ではそれが全くなかった。
「そういえば、一色さんって誕生日いつ?」
唐突に聞かれて驚いた。
「実は・・。一昨日でした。2月1日」
あまり言いたくはなかった。
「え?そうなの?言ってよー」
そう言って、桜木は顔をしかめた。思った通りの反応だった。
「じゃあ、ワインじゃなくてシャンパンだったな・・。一杯だけでも飲もう」
すぐに店主を呼んで、グラスに入ったシャンパンを2つ持ってこさせた。
そのやり取りの様子をぼんやりと見ていた。
亮介なら、こんな場面で、こんな対応ができるだろうか。
いや、こんなスマートさはない。
あの年上の女性と浮気をしていたとして、こんな気の利いたセリフが言えただろうか。
いくら想像しても、スマートな亮介が浮かばない。
スマートな桜木。それはそれで、とても魅力的だ。
こんな風に、女性がやってもらってうれしいと思う事を事もなげにやってくれる。
舞い上がるなと言われても、免疫の無い舞子には、到底無理だ。
でも、胸の奥底に何か小さな石がはさまっているような違和感を感じたのも事実だ。
多分、この人と一緒には暮らせない。
一生一緒に歩み続けるパートナーでは決してないということだ。
やはり、一緒に年をとるなら亮介がいいと思った。
グラスの中のシャンパンはプツプツと気泡が上がっては消えていった。
「改めて、お誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
そう言って、グラスを傾けて、半分ほど一気に飲んだ。
「女性に聞くのも失礼だけど、いくつになったの?」
あまりにもストレートな質問に面食らってしまった。
「ほんと、ストレート。失礼ですねー」
呆れた表情をして見せた。
「あ、いくつに見えますか?って聞くのはやめてね。あれって、女性はよくやるけど、結構ストレスなんだよ。見た目年齢を言ってひどい目にあった事が何度もあるよ」
確かに、年齢を聞かれたら、自分の思った年齢から十歳引いて言えばちょうどいいと言われている。
桜木に尋ねたら、いくつだと答えるだろう。
興味はあったが、そんな女子っぽい事を聞く年齢ではない。
「先日の誕生日で、無事に大台に突入しました」
少し残念そうに言ってみた。
「え?五十になったの?いや、若く見えるよ」
驚いたように桜木が言った。
ん????
少し間を空けてから、桜木が笑い出した。
「うそうそ。一色さんの顔ー。冗談だよ。四十でしょ?」
「もう、びっくして声も出ませんでしたよ。そんなに老けて見えるのかと思ってびっくりしましたよ。三十っていうのを期待してたんですけどね」
いや、それはさすがにないだろう・・という風に笑われた。
「でも、もっと若いと思ってた。35は過ぎてるかなってくらいに」
「ありがとうございます。5歳も若く見られて光栄です。桜木さんは?」
「言いにくいなー」
そう言いながら、少し間があいてから、
「三十三」
そう告げた。
聞かなければよかった。
そんなに若いとは思っていなかったのだ。
雰囲気が落ち着いているせいもあって、35よりは上だと思っていた。
しかも支社長がそんな若い年齢だとは思ってもみなかったのだ。
同じ支社長の棚町の年齢からみても、てっきり同年代だとばかり。
舞子の顔が一瞬、固まったのがわかったのだろう。
「もっと年だと思ってた?意外に若かった?お互いに、もっと近いと思ってたみたいだね」
そう言いながら、桜木は軽く笑った。
だが、自分が思わず聞いてしまった一言が舞子に大きな一撃を与えたとは思ってもみなかっただろう。
三十三と聞いて、自分との年齢差を考えた。
ちょうど7歳差。亮介と久美の年齢差ではないか。
愕然とした。
あの時、亮介は、『七歳も年上のおばさんだぜ。ないない』と、確かに言い放った。
その7歳年上のおばさんが私だ。
40と47の違いこそあれ、自分より7つも上だと知って、うろたえないはずがない。
真理子の旦那さんは、年上でも黒木瞳ほどの美女ならあり得ると言っていたが、舞子の容姿はそこそこだ。
美人というくくりで言えば、妻の美咲の方が当てはまる。
なぜ、桜木は舞子を誘ったのだろう。
手を出す相手は誰でもよかったのだろうか。
ちょっと餌を付けて垂らしてみたら、簡単に喰いついてきたのが、単に舞子だったということではないのか。
自分は、少なくとも桜木に好かれているとうぬぼれていた。
小さな自信がガラガラと音をたてて崩れていくような気がした。
いや、桜木は舞子の年齢を自分と近いと思っていたはずだ。
少々年上・・くらいに。
舞子が7歳も上だと知っていたら、こうやって釣り糸を垂らしただろうか。
数分前の絶頂期の気分に戻りたかった。
桜木と次に進む?
多分、桜木は、7歳という年齢に驚いただろうが、それくらいで怯むとは思えない。
エサに喰いついた魚が、鯛だと思っていたのに鯖だったとして、リリースするだろうか?
現に、目の前の桜木は、少し驚いただけで、何の動揺も見せていない。
舞子が気にしすぎているだけだ。
臆することなど何もないのだ。
桜木との夜をあんなに楽しみしていたではないか。
今さら、何を怯む?
舞子は、シャンパンを一気に飲み干して、桜木をじっと見て、ニッコリと笑った。
「ほんと、桜木さんがあまりにも若くて、びっくりしてしまいました。ちょっと動揺しちゃいました」
「やめとく?」
舞子の顔を覗き込み、試すように、桜木は言った。
舞子は静かに首を振った。
舞子がトイレから出てくると、桜木が会計を済ませて入り口のドアの前で待っていた。
店主が舞子のコートを持ってきて、うやうやしく着せてくれた。
舞子がコートを着てボタンを留め終わるのを見計らってから、店主がドアを開けて外へといざなった。
「ごちそうさま。また来るよ」
桜木は軽く手を挙げた。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
舞子は、深くはない程度に頭を下げた。
本当に美味しかった。また来たいと思った。
外は2月らしく空気が刺すように冷たかった。
家を出る時に手袋をして来なかったことを後悔した。
舞子は冬になると手足が冷える。
酒のせいで、顔は火照っているのに、手だけが異様に冷たかった。
口元に手を持って行き、はあ~っと息を吹きかけると少しだけ暖かくなった。
「少し歩こうか」
そう言って、桜木は駅に背を向け、反対方向に歩き始めた。
舞子も少し遅れて歩き始めた。
桜木が歩みを緩めて舞子に寄り添った。
そして、舞子の右手をそっと握った。
「冷たいね」
「冷え性で、手足が全く温まらないんです」
言い終わらないうちに、桜木は、握ったままの舞子の右手を自分のコートのポケットに入れ、そのまま歩いた。
桜木の手は、熱く感じるほど温かかった。
子供以外に手を握られるのは何年ぶりだろう。
亮介とこんな事をして歩いたこともあったな・・とぼんやりと思い出していた。
そして、二人は、そのまま人気のない路地へと消えて行った。




