突然のキス
もうすぐ11時という頃、2次会もお開きとなった。
そのまま高崎市内に帰る人がほどんどで、電車組は舞子と桜木を含め3人だった。
3人で電車に乗り込み、「今日の1次会は料理がいまいちだったな」などと話しながらひとしきり盛り上がった。
だが、その1人も前橋の1つ手前の駅で降りてしまった。
その1人を見送って2人きりになると、途端に会話が途切れた。
いつもなら饒舌な桜木が一言も話さなくなったからだ。
会話の糸口を必死に探すのだが、こんな時に気のきいた一言が出てこない。
初めてデートで2人きりになり、お互いを意識しすぎて会話ができない・・そんな雰囲気に似ていた。
1区間、じっと床に目を落とし、前橋駅が近づくのを待った。
時間にして2~3分のことであるが、とてつもなく長く感じた。
「間もなく前橋に到着します。前橋ー。前橋ー」
社内のアナウンスが天使の声に聞こえた。
これで、やっとこの緊張から解放される・・。
ふうーっと小さく息を吐いた。
そして、横を見ると、舞子を見ている桜木と目が合った。
「緊張してた?」
そう言って、桜木は吹き出した。
「いや、一色さんの緊張が全身から漂ってきて、おもしろいからじっと観察してたんだけど」
可笑しそうに笑いながら言った。
舞子は、キョトンとした表情になった。
「えー、もうやめて下さいよー。男性と2人きりなんて、久しぶりで、本当に緊張してたんですよー。しかも、桜木さんが一言も話さなくなったから、余計に何話そうかと考えてて、もう頭の中、ぐちゃぐちゃです。ほんっと、ひどいですね。前橋着きましたよ。下りますよ」
と言って、桜木よりも先に電車を降りた。
正直、ほっとしていた。
あの長い間は、自分を緊張させるための桜木のいじわるだったのだ。
少し身構えてしまった自分が恥ずかしかった。
駅の改札を出ると、人影はほとんどなかった。
もともと前橋駅は、駅ビルもなく、コンビニが1軒あるだけだ。
県庁所在地がある駅とはおよそ思えない。
駅からマンションまでは直線距離で10分くらい。
コンビニの前を通り過ぎると、街灯がポツンポツンとあるだけで、薄暗い道が続く。
1人で帰るには少し怖い時間帯だ。
いつもの飲み会の帰りなら、小走りで帰るのだが、今日は隣に男の人がいる。
心強い。
不審者に襲われる危険はないと思うと、この暗がりも楽しめそうだ。
この日は、群馬特有の空っ風もなく、穏やかだった。
ただ、吐く息は白く、手袋をしていない手は少し冷たかった。
「この道、ほんっと暗いよなー。女性高校生なんかが歩いてたら、やばいよ」
「いやいや、こんな時間に女子高校生が1人で歩いていませんって。塾帰りだとしたら、親が必ず迎えに来ますよ。それより、迎えに来てくれない私くらいの年齢が一番怖いんですよ」
「え?まだ襲われると思ってるの?」
桜木が軽く笑った。
「うわっ、桜木さん失礼ねー。私もかろうじてまだ、花の30代ですからね。襲われる可能性は十分あります」
「花のって使うかなー?」
「使うのは自由です」
と、少し拗ねてみた。
そして、この道の中でも一番暗い箇所にさしかかった。
街灯が切れかかっているのか、薄暗く、木陰から突然人が現れたら、きっと対処できない。
「ああ、ちょっと10歩くらい先を歩いてみて」
突然、桜木が立ち止まって言った。
「えー?何かあるんですか?まあ、いいや。じゃあ、歩きますよー」
10歩とは、あれくらいの距離だろうか、と目測をつけながら少し広めの歩幅で歩き出した。
「いち、に、さん、し、ご、ろく、なな、はち、きゅう、じゅっ・・」
舞子が言い終わるか言い終わらない瞬間、軽い足音と共に、後ろから羽交い絞めにされた。
「えっ」
軽く声が漏れた。
いや、そんなに力を込めて、ねじ伏せられたわけではない。
そもそも、これを羽交い絞めと呼ぶのも疑問だ。
客観的に見れば、後ろから抱きしめられたと言った方が正しいだろう。
身動きを取ろうとしたが、動かそうとすると、それを許さないようにさらに力を込められた。
桜木の腕が、舞子の胸と腰をしっかりと覆っている。
舞子が桜木の腕に手をかけて離そうとするが、とてもかなうわけがない。
それどころが、愛しい者にするように、舞子のこめかみの辺りに頬をすり寄せてきた。
桜木の身長は180センチほどで、舞子との身長差は20センチ以上ある。
この身長差がこの体勢を可能にするのだろう。
「えっと・・。これは、襲われる様子の再現なんですかね・・?」
自分でも、バカなことを言っているとは思ったが、沈黙しておくことに耐え切れず、声を発した。
「違う」
低い声でそう一言だけ返された。
その「違う」が「黙って」と言われたように感じた。
舞子は、動くことも話すことも出来なくなってしまった。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
いや、それほど長くはない。
徐々に冷静に思考が回転し始めた。
ここは、マンションの近くだ。
こんなところを誰かに見られでもしたら、大変ではないか。
こんな状態でも、なお、これほど冷静な自分に興ざめしもした。
「桜木さん、酔ってます?」
「いや、酔ってない。君を抱きしめたかっただけだ。もう少し、このまま・・」
それ以上、何も言わせなかった。
「ダメです。マンションの近くですよ。誰かに見られたら誤解されるじゃないですか」
敢えて、遮るように言った。
駄々っ子に言い聞かせる母親のような口調で。
少し間が空いたあと、鼻息ともため息ともわからない生温かい空気が舞子のこめかみに触れた。
「そうやって、すぐはぐらかそうとするんだよな」
耳元でささやくような声がした。
次の瞬間、舞子の肩を両手でつかみ自分の方に振り向かせた。
そして、目が合った桜木が、一瞬笑ったかと思うと、そのまま強引に舞子の唇をふさいだ。
あっと思ったが、押し返すことはできなかった。
そのまま目を閉じ、桜木の動きに従った。
舞子の手は、おずおずと桜木の背中に回された。
舞子の中でも、こうなることを願っていたのかもしれない。
酔いに任せて・・と言い訳する気はない。
舞子は冷静だった。
冷静にこの行為の意味を理解していたし、その上で自ら受け入れたのだ。
そして、唇が離れた後、ゆっくりと目を開いた。
桜木が、まっすぐに舞子の目を見据えて甘い声で囁いた。
「行こう」
そう言われて戸惑った。
え?どこへ?
家へ帰ろうということ?
それとも、別のどこかへ行くというのか・・?
不安気な顔で桜木の顔を見た。
すると、舞子の動揺を悟ったかのように、ふっと微笑んでこう言った。
「それは、また今度。もう遅いし、家に帰ろう」




