第33話 帰還、ネバダ州エリア55にて
ネバダ州、エリア55。地下最深部の『セクター9』に存在するプライムゲートは、マッドたちが突入した直後から、強固なエネルギーシールドによって完全に封鎖されていた。
「……来るぞ! 医療班、待機ッ!」
白衣を翻したサラ・ヴァレンタインの緊迫した声が響く。
空間が弾けるような強烈な衝撃波と共にエネルギーシールドが解除され、六人の人影と、一人の少女が、白銀に輝く無機質な床へと帰還を果たした。
最後に姿を現したのは、血と硝煙、そして異世界の怪物の体液でドロドロになった大男――マッド・ボーンズであった。
彼がゲートを完全に潜り抜けたことを確認すると、背後の空間の裂け目は、断末魔のような重低音を立てて再び収束し、エネルギーシールドの展開と共にその忌まわしい口を完全に閉ざした。
「パパ……、パパ……」
リリーの小さな手が、マッドの太い指をしっかりと握りしめる。その温かな感触が、狂気と死の世界から無事に生還したという何よりの証拠だった。
「リリー……。ああ、もう大丈夫だ」
マッドは安堵の息を吐き、リリーを担ぎ上げようとしたが、その太い膝がガクリと無様に折れた。
未知のバイオアンプルの無理な投与によって強引に維持されていた肉体は、故郷である地球に戻った瞬間、限界という名の莫大なツケを一気に払い始めたのだ。
特に右腕は、オーパーツのナックルガードごと赤黒く腫れ上がり、皮膚の下で太い血管が今にも破裂せんばかりに脈動している。
「マッド! 動かないで!」
サラが血相を変えて駆け寄り、背後に控える医療ドローンに矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「バイタル異常、右腕の損傷は壊死寸前よ! すぐに高濃度ナノマシン槽へ……」
「……触るんじゃねえ、サラ」
マッドは、自分に向けられた医療スキャナーの青い光を、残った左手で乱暴に振り払った。
「こんな傷、モンタナの山じゃツバでも付けときゃ治るんだよ。大げさに騒ぎ立てるんじゃねえ。それよりリリーを……リリーを先に診ろ」
彼は、膝の震えを意志の力でねじ伏せ、無理やり立ち上がった。全身の骨がシロフォンのように嫌な音を鳴らし、発狂しそうな激痛が脳髄を焼く。
だが、戦場の死神と呼ばれた男のプライドが、安全な白衣を着た人間たちの前で、決して弱音を吐くことを許さなかった。
「マッド、意地を張るな。君の細胞は今、内側から崩壊しかけているんだぞ!」
ヴィクターに肩を貸されていたアーサーが、生身の青白い顔でマッドを厳しく見つめた。
「るせえ……。俺の体だ、俺が一番よく分かってる。……ケッ、戦場じゃ内臓がはみ出しても戦い続けたもんだぜ」
マッドは不敵に笑い、倍に腫れ上がった右腕を見ながら虚勢を張った。
だが、その時だった。
リリーが、マッドのボロボロになったズボンの裾を、小さな手でぎゅっと握りしめた。
「パパ……」
見上げれば、リリーの大きな瞳が、大粒の涙で今にも溢れそうに揺れていた。
「……リリー?」
「パパ、嘘つき。……そんなに真っ赤な腕で、痛くないわけないよ。……お願い、パパ。ちゃんと治して。……そうじゃないと、私……パパと一緒にパンケーキ食べられないよ……」
ポロリ、とリリーの汚れた頬を透明な涙が伝った。
その瞬間、数千の銀蝕虫を屠り、龍の穴を完全に壊滅させた死神の鉄の心臓が、目に見えて怯んだ。
「…………」
マッドは、何か言い返そうとして口をパクつかせたが、愛娘の真っ直ぐな、そして切実な願いを前にして、言葉が喉の奥で完全に詰まった。
クイーンの狂乱の攻撃も、ドラゴンローチの強酸のブレスも、彼の魂を屈服させることはできなかった。だが、たった一粒の少女の涙が、戦場の死神をいとも容易く沈黙させたのだ。
「……分かったよ、リリー。泣くんじゃねえ」
マッドは深く、そして温かい溜息をつき、ひどく不器用な手つきでリリーの頭を撫でた。
そして、白旗を揚げるようにサラに向かって、無造作に右腕を突き出した。
「……おい、サラ。さっさと始めろ。……ただし、一時間で終わらせろ。……娘との約束があるんでな」
サラが安堵の表情を浮かべ、即座に緊急処置を開始する。
高濃度の治癒剤が静脈に注入される中、マッドはリリーの安心した顔を見守りながら、ようやく長い、長い地獄の戦いの終わりを実感していた。
マッドが医療室のナノマシン槽に浸かり、強制的な急速回復に入ってから数時間が経過した。
エリア55の広大な研究室で、サラが計測モニターの数値を食い入るように睨んでいた。
「……信じられないわ。細胞組織の変異、そして体内に残留する未知のエネルギー粒子……。これこそが、私たちが長年追い求めてきた『魔法』の正体なのね」
サラは、ホログラムディスプレイに映し出されたララとインディの生体スキャンデータを見つめ、狂喜に近い表情を浮かべている。
彼女の背後には、白衣を着た研究員たちが、まるで新種の宝石でも眺めるような、薄気味の悪い執着心に満ちた目で二人を注視していたのだ。
ララとインディは、エリア55から支給された現代のタクティカル・アンダーウェアを身に纏い、慣れない冷たい椅子の座り心地に眉をひそめていた。
「……さっきから失礼ね。ガラス越しに人の体をジロジロと……。私達は見世物じゃないのよ?」
「そうですわ。私の知識を貸して差し上げてもよろしいですが、まずは美味しいお茶と、お菓子をもっと持ってきていただきたいですわね」
インディは不満げに言いながらも、テーブルに山のように並べられたジャンクフードを、豊かな胸元を揺らしながら器用に口に運んでいた。
サラが眼鏡の縁をクイと上げ、冷徹な科学者の顔で二人へ一歩歩みより、テーブル席に着いた。
「あなたたちの協力が必要なの。この施設なら、最高環境の個室と最新の研究設備を約束するわ。そこで、その……『魔法』の術式とエネルギー変換効率を、徹底的に解明させてもらう。これは人類の進歩のための……」
カチャリ。
その場にいた全員の背筋を凍らせるような、ドアが開く金属が噛み合う乾いた音が響いた。
ドアの前で、殺意の影のように立っていたのは、病衣姿のヴィクターとマキシマムだった。
「……そこまでにしときな、サラ」
ヴィクターは、激戦で刃の欠けたサバイバルナイフを、サラのいるテーブルのど真ん中へと無造作に投げ込んだ。
ガンッ! と音を立ててサラの目の前に突き刺さるナイフを見て、彼女の呼吸が一瞬完全に止まる。
同時に、ヴィクターの瞳は、異世界で数多の魔獣を屠ってきた時と同じ、底冷えのする明確な殺意を宿していた。
「この女たちは、地獄を共に潜り抜けた俺たちの『戦友』だ。……それを、試験管の中のモルモットみたいに囲い込もうってんなら、話は変わってくるぜ」
「ヴィクター、待って。科学のために……アメリカのために彼女達の協力が必要なの」
「俺たちは、誰かに飼われるためにあの地獄から戻ってきたんじゃねえ。……もし、こいつらの自由を奪うような真似をしてみろ。この小ぎれいな施設ごと、俺たちが一分足らずでスクラップに変えてやる。……分かったら、その薄気味悪いスキャナーの電源を、今すぐ落としな」
ヴィクターとマキシマムの放つ圧倒的なプレッシャーに、研究員たちが恐怖で顔を引き攣らせ、数歩後退りする。彼らは思い出したのだ。目の前にいる二人は「戦場の死神」と呼ばれた特殊部隊のメンバーであり、国家さえも完全に制御不能な「本物の死神」そのものであることを。
「……ヴィクター、マキシマム」
ララが、少しだけ驚いたように二人を見つめる。
インディもまた、マキシマムの分厚く広い背中へ、はち切れんばかりの熱い視線を送っていた。異世界の綺麗な騎士道とは違う、荒々《あらあら》しくも絶対的な「男の守り」に、二人の心臓は密かに高鳴っていたのである。
サラは沈黙の後、小さく肩をすくめて両手を上げた。
「……分かったわ。交渉決裂ね。……軍としては、あなたたちという『戦力』を失うことの方が痛手だもの」
「賢い選択だぜ、サラ」
ヴィクターは冷たく笑った。
だが、この空気に終止符を打ったのは、背後の自動ドアが再び開く音だった。
「……おい、ガタガタうるせえぞ。……寝てりゃいいものを、葬式みたいなツラして何やってやがる」
そこには、ナノマシンでの治療を強引に切り上げたマッド・ボーンズが、上半身に包帯を巻いた姿で仁王立ちしていた。
「マッド! もう動けるの!?」
サラが驚愕に目を見開く。ナノマシンによる超急速平癒とはいえ、常人なら数週間は絶対安静のはずだった。
「安静にしてろって言ったのは、お前らの方だ。俺は一秒でも早く、ここを離れたいんでな。……鉄格子のない牢獄ってのは、どうも性に合わねえ」
マッドはヴィクターとマキシマムに視線を送った。いつもの不敵な笑みに戻る。
「リーダーのお出ましだ。……サラ、交渉は終わりだぜ。俺たちは自由意志でここにいる。誰の飼い犬にもならねえ」
「何があった?」
「あ? サラに聞いてくれ、話は終わったぜ」
「マッド、私は彼女達の特別な体のことを調べたいの! これは科学のためよ! そしてアメリカの利益にもなるわ!」
「クソ女が、俺の話を聞いてなかったのか! モルモットにしたら全員殺すぜ」
ヴィクターが牙を剥くように吐き捨てた。
「ヴィクター、ちょっと待て。二人は地球人じゃねえ。怪我や病気になったとき、困るんじゃねえか?」
マッドの冷静な指摘に、ヴィクターとマキシマムが顔を合わせ、「そっ……そうなのか?」と疑問の表情を浮かべる。
「調べてもらった方が、後々安心だ」
「見た目は人間だが、全く違う生き物なのか?」
マッドはサラに向き直ると、短く、だが断定的に告げた。
「……俺の体が完治し、リリーの精密検査が完全に終わるまでの間は、この施設に留まってやる。ララとインディの二人もな。……だが、それを超えたら俺たちはここを出る。その間だけなら、このお喋りな魔法使いたちの研究をさせてやる。ただし、ファーストクラスの最高待遇でな」
その言葉に、サラは悔しげに唇を噛んだが、同時に「研究の機会」を得られたことに安堵したようだった。
数日後。
アーサーの容態が安定したと連絡が入り、マッド達は彼の病室を訪れた。
病室に入ると、アーサーの体には様々な生命維持器機が接続され、ある意味サイボーグのように無数のチューブや電線が、彼の青白い皮膚に接続されていた。
「……マッド。私はこのザマだ。ここに残ることに決めたよ」
アーサーの言葉に、マッドの眉がピクリと動く。
「……エリア55の御用学者に逆戻りか、プロフェッサー」
「いや、違う。……私のこの肉体はもうダメだ。異世界の毒とアンプルの強烈な副作用で、もう生身のままでは長くはもたない。……だから私は、軍の最新プロジェクトを受けることにした」
アーサーは、自らの痩せ細った腕を見つめ、静かに微笑んだ。
「フル・サイボーグ体への換装だ。脳と脊髄以外を、すべて機械に置き換える。……私は、より頑丈な『目』と『耳』を手に入れ、君たちのバックアップを続けたい。次に君たちが地獄へ行く時は、もう少し性能のいいパワードスーツを届けられるようにな」
「オイオイ、ターミネーターにでもなるのかよ」
ヴィクターが皮肉気味に笑う。
「私は殺戮マシンになるつもりはない。強いて言えば、ロボコップだ」
アーサーは冗談交じりに笑った。
二人の様子を見たマッドは鼻を鳴らし、無造作にアーサーの肩を軽く叩いた。
「……好きにしろ、機械人形。……だが、俺のピックアップトラックより先に壊れるようなヘマはするなよ」
「……ああ、約束するよ」
アーサーの自らの瞳に、かつてないほど強い決意の光が宿っていた。




