第34話 エピローグ 焦げたパンケーキと平和な日常
エリア55の地上ハッチが、重厚な金属音を立てて左右に開かれた。
ネバダの乾いた風が、地下施設の無機質な空気を一気に押し流していく。
「……ハッ、ようやく拝めたぜ。本物の太陽ってやつをな」
数ヶ月ぶりの強烈な太陽に、ヴィクターが眩しそうに目を細めながら、ハッチの外に用意された「獲物」へと歩み寄った。
そこに鎮座していたのは、漆黒の塗装が施された一九六七年製キャデラック・ドゥビルだ。低く長い車体は、まるで獲物を狙うクロヒョウのような圧倒的な威圧感を放っている。
「いい趣味ですわね、ヴィクター。馬車よりもずっと速そうですわ」
隣に立つララが、支給された現代の服――タイトな黒のレザージャケットとジーンズに身を包み、妖艶に微笑んだ。そのグラマラスな肢体は、バイカー映画から飛び出してきたヒロインのように、ネバダの荒野に完璧に馴染んでいた。
「馬車だと? 冗談じゃねえ、こいつは富の証だ。こんなクールな車は他にないぜ。……乗んな、ララ。お袋に紹介してやるって約束したからな」
ヴィクターがドアを開けると、ララは優雅な仕草で助手席に滑り込んだ。
その背後では、マキシマム・コルトが、巨大な一九七〇年製フォード・F−100ピックアップトラックのボンネットを力強く叩いていた。
「ガハハ! やっぱりこれだぜ! 鉄の塊、V8エンジン! これこそが男のロマンよ!」
「マキシマム様、あまり大きな声を出さないでくださいまし……耳に響きますわ」
インディが、困惑したように眼鏡のブリッジを押し上げた。彼女もまた、現代の衣装――白いブラウスにタイトスカート、そして薄いストッキングにハイヒールという、知的なエージェント風の装いに身を包んでいた。はち切れんばかりの胸元が、ブラウスのボタンに悲鳴を上げさせている。
「おいおい、インディ。そんな固いこと言うな。これからは好きなだけこの『フォード』で世界を回れるんだぜ。……エリア55のマズイ飯は飽きたぜ、最高にデカいハンバーガーってやつを食わせてやる!」
「……マキシマムって、本当に食いしん坊なんですのね。でも、嫌いじゃありませんわよ」
インディは頬をわずかに赤らめ、マキシマムの差し出した太い腕を掴んで高い車体へと乗り込んだ。
二台のV8エンジンが、同時に目を覚ました。
ズドォォドォドォ!! という腹の底を揺らす爆音。
それは「龍の穴」で聞いた怪物の咆哮よりも力強く、自由を謳歌する男たちの凱歌のようにネバダの空へ響き渡った。
「……マッド、送って行かなくていいのか?」
ヴィクターが運転席から顔を出し、見送りに来たマッドに尋ねた。
マッドは、リリーの小さな肩を抱きながら、静かに首を振った。
「俺にはモンタナにやり残した仕事がある。……パンケーキの焼き直しだ。……お前らは、精々《せいぜい》その女たちを泣かさないように走り回ってろ」
「ケッ、相変わらずだぜ。……あばよ、リーダー! 死にたくなったら連絡しな。いつでも駆けつけてやる!」
ヴィクターがアクセルを踏み込み、キャデラックが猛烈な砂塵を巻き上げて走り出す。
続いてマキシマムも、豪快に手を振りながらフォードを急加速させた。
地平線へと向かって消えていく、二台の鉄の塊。
異世界からやってきた二人の「魔女」と二人の「死神」。彼らの新しい旅路が、今、ネバダの荒野から始まったのだ。
「……行っちゃったね、パパ」
リリーが寂しそうに呟く。
「ああ。だが、あいつらは死んでもくたばらねえ連中だ。……さあ、俺たちも帰るぞ、リリー。モンタナの朝が待ってる」
マッドは、リリーをエリア55が特別に用意した輸送機へと促した。
彼の背後では、フルサイボーグ化の手術室へと向かうアーサーが、冷たいモニター越しに静かに、だが力強く親指を立てていた。
モンタナ州、ロッキー山脈の懐に抱かれたその場所には、世界を揺るがした異変の影など微塵も残っていなかった。
朝靄がゆっくりと晴れ、透き通った陽光が針葉樹の隙間から降り注ぐ。
聞こえてくるのは小鳥たちのさえずりと、パチパチと暖炉で爆ぜる薪の音だけだった。
「パパ、また炭だよ。これじゃあ口の中がジャリジャリになっちゃう」
山小屋のキッチン。
リリーが皿の上に乗った真っ黒な円盤状の物体をフォークの先でつつき、不満そうにマッドを仰ぎ見た。
マッドは丸太のような右腕でフライパンを握り、少しだけ決まり悪そうに鼻を鳴らした。
その右腕には、あの「龍の穴」で刻まれた深い傷痕が、戦士の勲章のように残っている。
「リリー、炭は体にいいんだ。悪い思い出を全部、腹の中から外に出してくれるんだぞ」
ひどく不器用な「死神」の教育論。
マッドはリリーの頭を大きな手で乱暴に、だが羽毛に触れるような優しさで撫でた。リリーは「もう、パパったら」と笑いながら、メイプルシロップをこれでもかとぶっかけ、焦げたパンケーキを美味しそうに頬張った。
失われた時間を取り戻すかのような、静かで、完成された平和がそこにはあった。
だが、その静寂は、遠くから響いてきた「地鳴り」によって唐突に破られた。
ズドォォォォ……ズドォォォォッ!!
「……チッ、騒がしい野郎共が来やがったな」
マッドが窓の外に目を向ける。
山小屋へと続く一本のオフロード。そこを、猛烈な砂埃を巻き上げ、暴力的なまでのV8エンジンの咆哮を響かせて駆け上がってくる二台の鉄の塊があった。
先頭を走るのは、漆黒の塗装が鏡のように陽光を跳ね返すキャデラック・ドゥビル。ドリフト気味に庭へ滑り込み、重厚なドアが開くと、仕立ての良いイタリアン・スーツをラフに着崩したヴィクターが姿を現した。
「よお、隊長。相変わらず、ろくでもねえモンを焼いてる匂いが山の下まで漂ってるぜ」
ヴィクターが不敵に笑う。
その助手席から降りてきたのは、現代の深いスリットが入った深紅のドレスを纏ったララだった。
「ヴィクター、あまりマッドをからかうのはやめて。……それより聞いてよ、マッド。この人、私がショッピングモールで宝石を少し眺めただけで、レミントンの残弾数を確認するような顔をするのよ」
ララはヴィクターの腕に、豊かな胸をこれでもかと押し当てて甘える。
「……勘弁しろよ、ララ。俺の暗殺報酬が全部ダイヤに化けちまう」
ヴィクターは肩をすくめつつも、鼻の下を伸ばしてデレデレの様子だ。かつての冷酷な刺客の面影は、彼女の魔法によって完全に骨抜きにされていた。
続いて、地響きと共に突っ込んできたのは、無骨にリフトアップされたフォード・F−100ピックアップだ。
「ガハハ! 生きてるか、マッド!」
運転席から飛び出してきたマキシマムが、岩のような拳でマッドと拳を交わす。その後ろからは、現代の知的な秘書を思わせるタイトなノースリーブニットを着たインディが、はち切れんばかりのダイナマイトボディを揺らしながら降りてきた。
「マキシマム様ったら、朝から私の着替えを直視できずに真っ赤な顔をしていましたのよ。ねえ、マッド様、これでも戦士と言えるのかしら?」
インディがクスクスと笑いながらマキシマムの太い腕に強引に絡みつく。
「よ, よせインディ! 隊長の前で恥をかかせるなと言ってるだろ!」
マキシマムは茹で上がったタコのように顔を赤くし、巨体を縮こまらせて照れまくっている。
「……お前ら、結婚でもするつもりか?」
マッドが冷えたビール(リリーにはジュース)を全員に配りながら呆れ顔で尋ねた。
ヴィクターはララの肩を抱き寄せ、ニヤリと笑った。
「さあな。だが、しばらくはこの『黄金の時代』ってやつを、二人で楽しませてもらうつもりだぜ」
テラスに並んで座り、焦げたパンケーキを囲む五人と一人の少女。
異世界の深淵を生き抜いた死神たちが、初めて手に入れた「戦争のない時間」。
誰もがその奇跡のような平和を噛み締めていた。
「……いいもんだな。戦場に女と子供はいらねえと思ってたが、ララを見てると、俺も年貢の納め時かと思っちまうぜ」
ヴィクターがビール瓶を掲げ、少しだけ潤んだ瞳でマッドを見た。
その隣ではララがヴィクターの腕を抱きしめ、勝利した女王のような微笑みを浮かべている。
「あら、ヴィクター。年貢の納め先なら、もう決まっているでしょ? わたくしを異界から連れ出しておいて、今さら一人で逃げようなんて言わせないわよ」
「……ケッ。世界一の魔女にロックオンされちゃ、俺の隠密スキルも形無しだぜ」
ヴィクターは肩をすくめて笑い、そのままララの細い肩を力強く抱き寄せた。
一方で、マキシマムとインディが「マキシマム様ってば、本当に奥手すぎますわ!」と頬を膨らませていた。
「マキシマム様は昨日の夜も私が隣に座っただけで、茹で上がったカニみたいに真っ赤になって……。異世界の時はあんなに頼もしかったですのに、どうして今の私を直視してくれませんの?」
インディはララに対抗し、マキシマムの太い腕に自分の胸元を押しつけ離れようとしない。
「い、インディ! 暑苦しいぞ、それにみんな見てるだろ……!」
マキシマムは、戦場では数千の敵を笑ってなぎ倒す「壁」とは思えないほど狼狽し、顔を真っ赤にして視線を泳がせている。
「嫌ですわ、見せつければよろしいのよ!」
インディが再びはち切れんばかりの胸元を押し当てるように抱きつくと、マキシマムは助けを求めるようにマッドを見たが、マッドは「勝手にやってろ」と言わんばかりにビールを煽るだけだった。
「……パパ、みんな本当に幸せそうだね」
リリーがマッドの膝に頭を乗せ、穏やかな表情で言った。
「ああ。……地獄を這いずり回ったご褒美にしちゃあ、上出来すぎるくらいだ」
マッドはリリーの柔らかな髪を撫でながら、ふと、アーサーの顔を思い浮かべた。彼は、エリア55のポッドの中で、きっと新しい機械の体を手に入れたに違いないと。
この平和は、多くの犠牲の上に成り立つ、奇跡のような時間だった。
だが、その静寂は、不意に破られた。
遠く、ロッキー山脈の稜線の向こう側から。
空気を力任せに引き裂く、重厚なツイン・ローターの音が響いてきた。
ババババババババッ……!!
一機、また一機。
森林限界を超えて姿を現したのは、マットブラックに塗装された三機の「ブラックホーク」だった。
それはエリア55の、そしてトラウトマン大佐からの「招集命令」に他ならなかった。
ヴィクターが瞬時にララを庇うように立ち上がり、マキシマムがインディを背中に回して、鋭い戦士の眼光を取り戻す。
マッドは最後の一口のビールを飲み干すと、静かに立ち上がった。
首に巻いた分厚い金鎖が、ジャラリと重い音を立てる。
三機のブラックホークが、モンタナの青空に舞う。
中央の一機が庭の端にホバリングし、そこからロープを伝って、見覚えのある戦闘服の男たちが降下してきた。
その先頭に立つのは、かつての上司、トラウトマン大佐だった。
「パパ……」
リリーが不安げにマッドの袖を掴む。
ヴィクターは無言でビール瓶を置き、マキシマムは再びインディを背中に隠して、巨体を僅かに前傾させた。
大佐はマッドの数歩前で立ち止まり、サングラスを外した。
「ボーンズ、そして諸君。……休暇の邪魔をして済まないが、事態は一刻を猶予しない。東欧で異界の残党と思われる動きがある。大統領の直令だ。君たちの力が必要だ」
重い沈黙が流れた。
マッドは、手にした焦げたパンケーキを最後の一口までゆっくりと咀嚼し、ビールで流し込む。
「……大佐。あんた、平和ボケしたんじゃねえのか?」
マッドは椅子に深く腰掛け、そのまま吐き捨てた。
それは上官に対する態度ではなく、単なる一般人としての対応だった。
「何だと?」
「今の軍隊は甘えすぎだ。ハイテクだのドローンだの、安全な場所からボタン一つで戦争ができると思ってやがる。……そんな甘ったれた連中に、俺たちの流儀が務まると思うか?」
マッドは冷めた目で、頭上で唸りを上げる最新鋭のヘリを見上げた。
「俺たちが動くのは、この世界が本当に終わる時だけだ。……ドブネズミの掃除くらい、そのヤワな最新兵器で自分たちでやりな」
ヴィクターが、ララの肩を抱いたまま鼻で笑った。
「聞いたか大佐。俺も同感だぜ。せっかく焦げたパンケーキを味わっている最中なんだ。……あんたらのつまらねえ戦争に付き合ってる暇はねえ」
マキシマムも、インディの手を力強く握りしめながら吠えた。
「ガハハ! 俺のフォードは、ドブネズミを追い回すために買ったんじゃねえ。……ま、もし本当にどうしようもなくなったら、その時は、もう一度地獄の歩き方を教えてやるよ!」
トラウトマン大佐は、しばらくの間、無言でマッドたちを見据えていた。
だが、その瞳には怒りではなく、どこか安堵したような色が浮かんでいた。
「……傲慢な野郎どもだ。だが、その傲慢さが今は頼もしいよ。……ボーンズ君、パンケーキを焦がさない術を学んでおくんだな」
大佐は踵を返し、再びヘリへと戻っていった。
猛烈な砂埃を残して、三機の影が山脈の向こう側へと消えていく。
「パパ……行かなくてよかったの?」
リリーの問いに、マッドは初めて穏やかな、笑みを浮かべた。
「ああ。……あいつらには、まだ自分たちでケツを拭くチャンスをくれてやったんだ」
マッドは、庭に置かれたボロボロのピックアップトラックと、ヴィクターのキャデラック、マキシマムのフォードを眺めた。
「……だが、本当に危機が来たら、また行くのが俺たちの流儀だからな。……リリー、そのときは頼んだぜ。……さて俺は……次のパンケーキの仕込みだ」
「もう、パパったら今度は焦がさないでね!」
笑い声が、再びモンタナの空に戻ってきた。
彼らの戦いは、今はまだ焦げたパンケーキの匂いの中に隠されている。
二つの世界を救った死神たちは、愛する女たちと娘の笑い声に包まれながら、静かに次の「咆哮」の時を待っていたのだった。
~完~
マッド達の戦いもいったん終りです。
続編を書くならこんな感じかなと、頭の中では何となく浮かんでいる状態ですが、やりきった感に浸っている状況でもあります。
もしよろしければ感想や評価を頂ければ幸いです。
最後までお付き合い頂き有り難うございました。




