第31話 敵か味方か? 立ち塞がるシャドウ・クロウ達
「……クソが、一歩歩くたびに背骨がブッ壊れたシロフォンみてえな音を立てやがるぜ」
マッドはリリーをしっかりと抱え、毒々《どくどく》しい紫色の体液と硝煙でドロドロになったブーツを引きずるようにして、崩れかけた石段を一段ずつ踏みしめた。
背後では、マキシマムが魔力切れで意識を失ったインディとララを両脇に抱え、ヴィクターは完全に機能停止したアーサーの重いパワードスーツを肩で支えながら、まるで幽霊のような覚束ない足取りで続いている。
重い足を引きずり、ようやく辿り着いたのは、つい数時間前……あるいは数分前の出来事だったか、誇り高き狩人、シャドウ・クロウと死闘を繰り広げた祭壇の広間だった。
「……おい、見てみろ。……冗談だろ?」
ヴィクターが、掠れた声で前方を見据えた。
広間の中央。
プレトリアン級との戦いでその生涯を閉じたはずのシャドウ・クロウの遺体が、不自然な挙動を見せていた。
死体は冷たい石畳に横たわっているのではなく、目に見えない無数の「手」に支えられているかのように、ゆっくりと宙へ持ち上がっていたのだ。
「……あいつは死んでからもダンスを踊りてえのかよ」
マッドは薄ら笑いを浮かべて悪態をつく。
だが、その指先は反射的に腰のナイフの柄へと伸びていた。歴戦の戦士としての本能が、そこにある圧倒的な「異常」を嗅ぎ取っていた。
次の瞬間、広間の空気がまるで壊れかけのテレビのように激しく歪んだ。
「……ッ、警戒しろ!」
だが、その言葉に即座に反応できるほど、全員の肉体には力が残っていなかった。
マッドの警告と同時に空間の屈折が解け、数体の巨大な人影が忽然と姿を現す。
それは、死んだシャドウ・クロウと瓜二つの装甲を纏った、不可視迷彩を解除した「同胞」たちであった。
彼らは無言で同胞の遺骸を仰々《ぎょうぎょう》しく、それでいて慈しむように抱え直した。
「……チッ、お仲間のお迎えか。……葬式を邪魔するつもりはねえが、香典を出す余裕はねえぞ」
ヴィクターが、アーサーを背負い直しながら、血の混じった唾を吐き捨てた。
一行に戦う力は、もう一滴も残っていない。ララは杖を杖として使うことさえできず、インディも魔法薬の副作用で虚ろな瞳をしている。
もし今、この不可視の狩人たちが牙を剥けば、マッドたちの首は一秒足らずで石畳に転がることになるだろう。
「……やれるもんなら、やってみやがれ」
マッドが、血まみれの身体で一歩前に出た。
「……俺たちの肉は、強酸で煮込まれてて最高にマズイぜ。……食うなら、覚悟して食いやがれッ」
それは挑発というよりは、戦士としての最後の矜持。
だが、シャドウ・クロウたちは、一切の武器を抜くことはなかった。
彼らの中で最も巨大な個体が、その爬虫類特有の縦に割れた瞳で、マッドたちの傷だらけの姿を、その決して折れぬ魂を、じっと見つめていた。
『……異形の者に勝利した戦士達よ……』
それは声だったのか、あるいは脳内に直接流し込まれた思念だったのか。
古びた無線のノイズのような、ざらついた響きがマッドたちの頭の中に直接響いた。
巨大なシャドウ・クロウが腰のポーチからいくつかの小瓶を取り出し、無造作にマッドたちの足元へと放り投げる。
カラン、カラン……と、乾いた音を立てて転がったのは、毒々しい蛍光色の液体が満たされたアンプルだった。
「……なんだ、これは? ……冥土の土産に、毒薬でも飲めってか?」
マッドが、転がってきた瓶の一つを拾い上げ、眉を顰めて問いかける。
シャドウ・クロウは言葉では答えなかった。
代わりに、自身の逞しい前脚に、その瓶を突き刺すようなジェスチャーを一度だけ見せた。
それは、言葉を必要としないメッセージ。
死力を尽くして戦い抜いた強者に対する、誇り高き狩人たちなりの深い敬意と、そして施しであった。
……ギ、ギィィィン……
不快な機械音が響き、再び不可視迷彩が起動する。
シャドウ・クロウたちは、同胞の遺体とともに、陽炎のように闇の中へと完全に溶け込んで消えていった。
静まり返った広間。
マッドの手の中には、場違いなほど鮮やかに輝く、蛍光色の液体だけが残されていた。
「……マッドさん……。その瓶、……信じられないほどの、濃厚な魔力の波動を感じますわ……」
インディが、虚ろな瞳を僅かに見開き、震える声でそのアンプルを見つめる。
「……回復ポーションなんて、そんな生易しいものじゃありません。……まるで、命そのものを極限まで凝縮したような……」
「……毒か、薬か。……どっちにしろ、このままじゃ野垂れ死ぬだけだ」
マッドが、乱暴にアンプルのキャップを引きちぎった。
「……野郎ども。……俺達は出されたもんは残さず食うのが礼儀だ。……そうだろ?」
「……マッド、待て。成分が……不明だ……。……異世界の、未知のバイオ技術だぞ。……打てば、どうなるか……」
背後でヴィクターに支えられていたアーサーが、かすかな電子音声で制止した。彼のタクティカル・バイザーはひび割れ、内部の生体センサーは、アーサー自身の心拍が「停止寸前」であることを無機質に告げている。
「能書きはいい、プロフェッサー。奴等は殺す気なら一瞬で殺せた。それをしなかったということだ」
マッドは一切の迷いを見せることなく、その鋭利な先端を、自らの逞しい上腕筋へと力強く突き立てた。
瞬間。
「……ッ!! ガ、アァァァァァッ!!!」
マッドの口から、人間というよりは獣に近い狂乱の咆哮が漏れた。
血管が、内側から煮えたぎる溶岩を流し込まれたかのように激しく脈動し、視界が真っ赤に染まる。全身の細胞が、無理やり叩き起こされるような異様な感覚。
だが、驚くべきはその後だった。
ジュウ、という肉が焼ける音と共に、クイーンの強酸によってドロドロに溶けていたマッドの左肩の皮膚が、目に見える速度で「再生」を始めたのだ。
肉が異常な速度で盛り上がり、毛細血管が網目のように走り、新たな皮膚が赤ん坊のようなピンク色の光沢を持って現れる。バキバキと不気味な音を立てて、砕けていた肋骨が元の位置へと強引に収まり、内臓の損傷が魔法的な速度で修復されていく。
「……ひどい二日酔いの気分だが、効き目は……最高だぜ」
マッドは荒い息を吐きながら、ゆっくりと立ち上がった。
全身を襲っていた「死の重圧」が、完全に霧散している。
体力そのものが元通りに回復したわけではない。だが、傷という傷が強引に塞がれたことで、肉体を動かすための最低限の神経回路が強引に繋ぎ合わされたのだ。
「……次は、お前らだ」
マッドはアンプルを、ヴィクターとマキシマムへと無造作に放り投げた。
「……フン、毒だろうが何だろうが、今の俺にゃ特上のワイルドターキーに見えるぜ」
マキシマムが、血まみれの口元を歪めてニヤリと笑う。
マッドは腕の中で意識を失っているリリーの首筋に、小瓶の一本を優しく押し当て、僅かな量だけを注入した。
小さな悲鳴を上げ、リリーの体が弓なりに反る。
だが、数秒後には、彼女の顔から死相が完全に消え去り、穏やかな寝息が戻り始めた。
「……リリー。……パパが、必ず連れて帰ってやるからな」
マッドはリリーの額を一瞬だけ撫でると、まだ動けないアーサーの元へと歩み寄った。
「アーサー、お前は……このスーツを脱がなきゃならねえな」
「……ああ。……中の生身が、もう……限界だ」
ヴィクターが手伝い、アーサーの装甲を強引に引き剥がす。そこから現れたのは、パワードスーツの「骨格」によって無理やり形を保っていた、ボロボロの肉体だった。四肢の骨は粉砕され、胸部は酷く陥没している。
マッドは無言で、アーサーの心臓近くにアンプルを深く突き刺した。
「……ガハッ!! ゲホッ……!!」
アーサーが激しく吐血し、目を見開く。その瞳に、知性の光が再び宿る。
「……信じられない……。神経系に直接作用し……細胞分裂を……一万倍に加速させている……。……これは医学じゃない……、純粋な狂気だ……」
「……狂ってなきゃ、この世界じゃ生きていけねえよ」
マッドはアーサーの肩を強く叩き、自分のナックルガードを握り直した。
傷は塞がった。
だが、アンプルがもたらしたのは完全な回復ではない。
それは、死を先送りにするための「借金」に過ぎなかった。全身の極限の疲労感を、未知の薬物によって無理やり感覚を麻痺させているに過ぎない。
その時だ。
ズズズ……、という、広間全体を大きく揺らす不気味な地鳴りが響いた。
広間の巨大な柱が一本、また一本と、倒れて石畳に激突し砕け散る。
「……クイーンの爆死で、この遺跡はもう限界だったんだわ。……ここも、もう保たない」
インディが、ララに肩を貸しながら、ひび割れた眼鏡を直して絶望的な声を上げた。
「……龍の穴が、閉じようとしていますわ。……全てを飲み込んで、奈落の底へ……」
ドラゴンの間から、凄まじい崩落音が急速に近づいていくる。
マッドは祭壇の間……無慈悲に崩れゆく天井を見上げた。
「……帰り道がなくなる前に、ここをおさらばするぞ。……ヴィクター、マキシマム! 野郎ども、撤退戦の開始だ!」
マッドの号令に、仲間たちは死の淵から這い上がるようにして立ち上がった。
マッドは、自分の足で歩けないアーサーを巨大な背中に担ぎ上げ、ヴィクターは衰弱したララを、マキシマムはインディをそれぞれ背負った。
「……リリーは強い子だ。大丈夫だな」
リリーは、強く澄んだ目で父親を見つめ返した。
マッドはリリーの小さな手をしっかりと握り、上層へと続く崩れかけた回廊を歩き始める。
後方では、数トンもの瓦礫が轟音を立てて崩れ落ち、彼らが今しがたまでいた通路を完全に塞いだ。
「……行くぞッ! 邪魔な壁は、全部俺が粉砕してやる!!」
マッドと共に、ボロボロの戦士たちは、崩壊する「地獄の底」からの決死の脱出を開始したのである。
数千年の時を刻んだ「龍の穴」が、断末魔のような悲鳴を上げている。
クイーンの間を失ったことで、この巨大な空間は一気に崩壊を始めたのだ。
足元の石畳は巨大な口を開けたようにひび割れ、天井からは巨石が無慈悲な重力に従って雨のように降り注ぐ。
「……マッド、左だッ!」
斥候の勘。
ヴィクターが崩落の軌道を見極め、最短の生存ルートへと仲間を案内する。
「すまん、私がこんな状態でなければ……」
マッドの背中で、満身創痍のアーサーが力なく呟いた。
「わかってる! 気にするんじゃねえ!」
マッドは、大柄なアーサーを背負っているとは思えない野生の獣のような身のこなしで、左側から迫る崩落を紙一重でかわした。一歩足を踏み出すたびに、地響きが全身の骨をガタガタと震わせる。
アンプルの薬液が血管を激しく焼き、肉体のリミッターを強引に解除していた。
すぐ隣を、マキシマムがインディを脇に抱えるようにして並走している。
「オラァッ! どけよクソ虫野郎どもッ!!」
マキシマムが、行く手を塞ぐように天井から落ちてきたワーカー級を、銀蝕虫の甲殻で補強された分厚い肩で強引に体当たりし、瓦礫の向こうへと弾き飛ばした。
背後を振り返れば、そこにはもはや「道」は存在しなかった。
死闘を繰り広げた広間は、暗黒の奈落へと飲み込まれ、そこにはマッドがマグナムで仕留めたクイーンの残骸や、ドラゴンローチの死骸が、チリのように吸い込まれていく。
かつてはこの世界の神として崇められたであろう「ドラゴン」の巨躯さえも、崩壊する時空の前では、ただの重い肉の塊に過ぎない。
「……全てが、消えていくわ……」
ヴィクターに背負われたララが、背後で繰り広げられる「世界の終わり」のような光景を見て、呆然と呟いた。
「銀蝕虫の災厄も、古の神々の遺構も……この穴は、全部飲み込んで死ぬつもりですわ……!」
「いい死に様じゃねえか。……だが、俺たちはその道連れになるつもりはねえ!」
ヴィクターが、ララを崩落から庇いながら冷徹な声で応じた。
一行は、迷宮の最上層……出口付近に差し掛かった。
だが、そこに待ち受けていたのは、さらなる絶望の壁だった。
かつての広大な通路は完全に寸断され、そこには幅五十メートルを超える、巨大な断崖が生じていた。その下は、光さえ届かない虚無の深淵だ。
「……マッド、この距離を飛び越えるのは物理的に不可能だ」
アーサーが絶望的な計算結果を告げるが、マッドは足を止めることなく、むしろ加速した。
「物理だの計算だの、そんなもんは地球に置いてきたはずだぜ」
マッドの視界の先。崩落の淵に、先ほどまで彼らと戦っていたソルジャー級の一体が、崩壊に巻き込まれて動けなくなっているのが見えた。
その巨大な外殻は、深淵の上にせり出し、一時的な「足場」となっている。
ソルジャー級は奈落へ落下しまいと、必死に手足を岩の継ぎ目に引っかき、無様にもがいている。
マッドは奴の硬質な殻を躊躇なく足場にして強く蹴り出し、その向こう岸へと跳躍した。
続いてマキシマムが、そしてヴィクターが、同じように死にゆく怪物の背中を踏み台にして、無虚の深淵を通過していく。
全員が渡り終わった所で、マッドが振り返り、足場にしていたソルジャー級を容赦なく蹴り飛ばした。
「バスに乗り遅れるぜ。……お仲間は、ずっと下の方だ」
足場にされていたソルジャー級は、甲高い断末魔を上げて、光の届かぬ深淵へと消えていく。
「……まさか、ソルジャー級を橋代わりにするとはな」
「……生きてるのは、運のいい狂った野郎だけだ」
マッドは担ぎ直したアーサーの重みを感じながら、再び走り出した。
出口は近い。
崩落の隙間から、異世界の毒々しい紫色の月光が、鋭く差し込み始めていた。




