第2話 軍に戻れ? 俺の仕事はパンケーキを焼くことだ!
モンタナ州をすっぽりと覆い隠す、深く静寂な針葉樹林である。
その大自然の静けさを暴力的に引き裂くように、突如として巨大な猛禽類の黒い影が地上に落ちたのだった。
鼓膜を劈き、内臓を揺さぶるようなプロペラの重低音が、数百年の樹齢を誇る周囲の木々を激しく揺さぶるのである。
双発のターボシャフトエンジンから灼熱の排気を吹き出しながら、漆黒に塗られた多用途軍用ヘリコプター、UH-60「ブラックホーク」が、マッドの山小屋の庭先へと遠慮なく舞い降りたのだった。
強烈なダウンウォッシュが庭の土埃を竜巻のように巻き上げる中、航空燃料の匂いと共に、機体側面のハッチが重々しく開かれたのである。
そこから、迷いなく大地へとブーツを踏み下ろし、一人の男が姿を現したのだった。
完璧に仕立てられたシワ一つない迷彩服に身を包み、歴戦の猛者特有の、獲物を逃さない鋭い眼光を放つ老兵である。
彼こそが、マッドがかつて特殊部隊に所属していた頃の直属の上官、サーモン・トラウトマン大佐だった。
大佐は機体から降り立つと、鋭利な刃物のような視線を周囲に走らせ、庭に停められたマッドの愛車、シボレー・C-10ピックアップトラックへと目を留めたのだった。
フロントバンパーの隙間にへばり付いた、ドス黒く変色した不気味な肉片である。
広い荷台の鉄板にベットリとこびりついた、地球上の生物とは思えない赤緑色の異様な返り血だった。
そして何より大佐の目を引いたのは、トラックの傍に転がっている、原型を留めないほどにひしゃげ、血まみれになった頑丈なスチール製の作業用スコップであった。
数々の凄惨な戦場を潜り抜けてきた大佐の卓越した戦術眼は、その異常な痕跡を見ただけで、ここで何が起きたのかを正確に弾き出したのである。
屈強なマッドが、常識外れの力を持つ未知の怪物と遭遇し、激しい死闘を繰り広げたという事実を即座に悟ったのだった。
「……マッド、ずいぶんと物騒な買い物をしたらしいな……」
大佐の不穏な呟きと共に、マッドは背後にいた愛娘のリリーの小さな肩を掴み、素早く家の中へと押し込んだのである。
愛する者を守る防壁となるべく、大佐の前に巨大な岩壁のように仁王立ちになったのだった。
マッドが僅かに動くたび、丸太のように分厚い首に巻かれた重厚なゴールドチェーンが、ジャラリと威圧的な金属音を鳴らすのである。
その顔には、招かれざる客に対する隠しようのない不機嫌な色が張り付いていたのだった。
「大佐、わざわざ税金を使って、俺のパンケーキの焼き加減を見に来たわけじゃないだろ」
マッドの放った棘のある皮肉に対し、大佐の表情は険しいままであった。
彼は一切の無駄口を叩かず、手にした軍用の堅牢なタブレット端末を、マッドの分厚い胸ぐらへと無言で突きつけたのである。
大佐クラスの高級将校が緊急の用件で直々に飛んできたのだから、異常事態であることは間違いない事実だった。
「世界中で起きている。ニューヨーク、ロンドン、東京……。あの『ゲート』は、君が遭遇したショッピングモールだけじゃない。今や地球のあちこちに異世界のゴミ溜めが繋がっている」
突きつけられたタブレットの高精細な画面には、絶望的な地獄絵図が広がっていたのだった。
黒煙を上げて無惨に炎上する世界中の大都市である。
そして、ゲートから無限に湧き出す未知の怪物どもを相手に、主力戦車や攻撃ヘリを投入して激しい市街戦を繰り広げる各国の軍隊の姿が、生々しく映し出されていたのだった。
「だが安心しろ、マッド。最新の戦車と戦闘機があれば、あんなモンスターどもは数時間で鎮圧できるはずだ。これは一時的な混乱に過ぎん」
大佐の近代兵器への絶対的な自信に満ちた言葉を聞き、マッドは少しだけ強張っていた広い肩の力を抜いたのである。
彼の脳裏に浮かぶのは、世界を救う英雄としての栄光ではなく、ただひたすらに愛するリリーの無邪気な笑顔だった。
マッドは深々と、安堵の溜息を吐き出したのだった。
「なら、俺の出番はねぇな。俺はもう銃の代わりにフライパンを握ると決めたんだ。娘と静かに暮らしたい」
背を向けて家に戻ろうとするマッドの拒絶に対し、大佐はその分厚い胸板をじっと見つめ、地を這うような重々しい声で再び口を開いたのである。
「戻ってこい、マッド。軍はお前の力を必要としている。この異変がいつまで続くか、誰にも分からんのだ」
「断る。俺の今の任務は、リリーに焦げてないパンケーキを食べさせることだ。それ以外は興味ねぇ」
マッドの決意が鋼鉄のように固いことを知ると、大佐は諦めたように短く息を吐いたのだった。
「……分かった。だが、念のためだ。腕利きの部下を三名をここに置いていく。ゲートの発生反応が消えるまでの護衛だ」
そう言い残すと、大佐は再びブラックホークに乗り込み、凄まじい轟音と風圧を残して空の彼方へと去っていったのである。
後に残されたのは、最新式のM4A1カービンで重武装した、血気盛んな三人の若い志願兵たちだった。
・・・・
それから数週間、マッドの山小屋には外界の喧騒が嘘のような、穏やかで平和な時間が流れたのだった。
リビングのテレビから流れるニュース番組では、各地に展開した強力な正規軍が、ゴブリンたちの群れを圧倒的な近代火力で一方的に制圧している様子が連日報じられていたのである。
マッドは周囲を警戒する護衛の兵士たちに対し、俺の邪魔をするなと冷たく釘を刺しながらも、緑豊かな庭でリリーと無邪気に遊んでいたのだった。
死神と呼ばれた男は、かつての平和な日常を確実に取り戻しつつあったのである。
だが、その薄氷の上で成り立つような平穏は、腹の底に響く不気味な音と共に、呆気なく崩れ去ることになるのだった。
ある昼下がり、大地そのものを激しく揺らすような異常な振動が、山小屋の周辺一帯を唐突に襲ったのである。
「地震か!?」
マッドが空を見上げて鋭く叫んだのと同時だった。
山小屋から目と鼻の先にある深い森の斜面から、網膜を焼くような不気味な緑色の光が空に向かって強烈に放たれたのである。
上空に複雑な幾何学模様を描く巨大な魔方陣が形成されると、空間そのものをガラスのように引き裂き、あの禍々《まがまが》しい紫色のゲートが出現したのだった。
マッドは首から下げて常備している軍用の高性能双眼鏡を素早く構え、異変の中心地へとピントを合わせたのである。
高倍率のレンズ越しに見えたのは、裂けた地面から間欠泉のようにドス黒い霧が噴き出している光景だった。
そして、その奥底から無数のゴブリンたちがゴキブリのように群れを成して這い出してくる、絶望的な状況である。
その醜悪な緑色の波の先頭に立っていたのは、右目が完全に潰れ、顔面にえぐれたような痛々しい大きな傷跡を残した一体の怪物だった。
マッドが空になったベレッタの鉄塊を全力で顔面に叩きつけた、あの日の生き残りである。
奴は統率の取れた大勢のゴブリンたちの先頭に立ち、群れを指揮する絶対的なリーダーのように傲慢に振舞っているのだった。
「上等だ、ザコを引き連れてリターンマッチのつもりか」
ゲートから際限なく溢れ出したゴブリン共は、山麓の街道に点在する罪なき人々の民家へと怒涛のように押し寄せたのだった。
奴らは本能の赴くままに、次々と残酷な破壊と略奪を繰り広げていくのである。
このような人気のない山奥での突発的なゲート発生に対し、重装備の軍の主力部隊が即座に間に合うはずもなかった。
そして、血に飢えた狂気に満ちた襲撃の波は、確実にマッドの山小屋へとその矛先を向けてやってくるのだった。
リーダーのゴブリンは、遠く離れた山小屋の庭に立つ因縁の敵、マッドの巨体を正確に見つけ出したのである。
「ギィィィィッ! ギガァァァッ!」
奴は泥と血に汚れた爪の伸びた指をビシッとマッドに向け、腹の底から湧き上がるような復讐の雄叫びを上げたのだった。




