第26話 ドラゴンの間へ!かつての覇者は無残な姿だった。
「クソが……、空気の味が変わりやがった。肺の裏が焼けつくぜ」
マッドが吐き捨てるように言い、タクティカル・ベストの襟元を掴んで不快そうに喉を鳴らした。
祭壇を後にし、リリーを連れ去ったプレトリアン級の足跡を追って下層へ降りるにつれ、遺跡の空気はねっとりとした湿り気を帯びていった。
それは単なる湿気ではない。鼻の奥を容赦なく突く強酸の腐食臭と、内臓をドロドロに煮詰めたような酷い腐敗臭が、最悪の配合で混じり合っていたのである。
圧倒的な暗闇を切り裂くのは、ララが掲げる魔法の青白い光と、アーサーのパワードスーツが放つ無機質な電子音だけだ。
「……マッド、足元に気をつけろ。石材が完全にグズグズだ。……強酸の濃度がソルジャー級の比じゃない。まるで、巨大な怪物の消化器官の中を歩いている気分だ」
アーサーが、バイザーの視界を埋め尽くす警告アラートを忌々《いまいま》しげに消去しながら告げる。
彼らの足元にある石畳は、かつて精巧な彫刻が施されていたであろう面影もなく、強酸によってドロドロの泥沼のように溶け崩れ、歩くたびに「グチャ、グチャ」と粘り気のある極めて嫌な音を立てていた。
「……おい、ありゃなんだ……? 壁か?」
先頭を行くヴィクターが、不意に歩みを止め、レミントンM700の銃口を静かに下ろした。
広大な円形ホールの中心。そこに、巨大な「山」が鎮座していた。
高さ一五メートル、全長は二〇メートルを優に超えるだろうか。赤銅色の分厚い鱗が、ララの放つ微かな魔法の光を反射して、鈍く輝いている。
だが、その輝きは誇り高き生命の輝きなどでは決してなく、死に絶え、腐敗した肉体が放つ油――死のヤニによるものであった。
「……ドラゴン……?」
ララが震える手で杖を掲げながら、掠れた声で呟いた。
「嘘よ、そんな……。この世界の頂点に立つ、最強の生物のはずなのに……」
「最強だか何だか知らねえが、今のこいつはただの『肉の塊』だぜ、お嬢ちゃん」
マキシマムが、自身の纏う銀蝕虫の甲殻を軋ませながら近づき、その巨大な死骸を無造作に蹴り飛ばした。
弾力のない鈍い肉の感覚がブーツの底に伝わり、それが完全に生命活動を停止していることを証明している。
ドラゴンの死体は、直視に堪えないほど凄惨を極めていた。
空を支配したであろう誇り高き首はあらぬ方向へとへし折れ、何より異常だったのは、その巨大な腹部だ。まるで内側から大量のダイナマイトで爆破されたかのように激しく破裂し、太い肋骨が外側に向かって反り返っている。
飛び出した内臓の隙間からは、ドラゴンの血肉を吸って異常成長した銀色のローチの抜け殻が、幾つも無残に転がっていたのである。
「……見てください。胃袋も、肺も、心臓もありません……全部、空っぽですわ」
インディが顔を真っ青にし、込み上げる吐き気を抑えるように口元を覆って蹲る。
「食べて……中で育ったんですわ。この誇り高い生き物を『苗床』にして……内側から喰らい尽くして、出てきたのですわ……!」
インディはあまりの猟奇的な光景に耐えきれず、マキシマムの太い腕に寄りかかり、膝をガクガクと震わせた。
「……寄生かよ。タチの悪いB級映画でも、そうそうお目にかかれねえクソ展開だぜ」
ヴィクターがスコープ越しにドラゴンの破裂した傷口を観察し、忌々しげに吐き捨てた。
「マッド、プレトリアン級の野郎が見当たらねえ。だが、このドラゴンの『中身』だった奴なら、すぐそこにいやがるぜ」
ヴィクターの冷徹な視線の先。ドラゴンの死骸の向こう側に広がる漆黒の影が、ゆっくりと、不気味に蠢き始めた。
「ギ、ギギギ……ギギギギギッ!!」
鼓膜を直接、無数の太い針で刺されるような、おぞましく不快な高周波の鳴き声。
ドラゴンの死体という最高の栄養源を喰らい尽くし、その骨格と筋肉の構造を悪魔的に模倣するように変異した異形――『ドラゴンローチ』が、ゆっくりとその絶望的な巨体を持ち上げたのである。
体長、一〇メートル以上。
苗床となった本体より一回りは小さいものの、ドラゴンのような強靭な四肢と巨大な翼の痕跡を持ちながら、その表面は鏡面仕上げの黒銀色の重甲殻で分厚く覆われている。
裂けた口からは、石造りの床を瞬時に沸騰させるほどの超高濃度の濃緑色の強酸が、まるで飢えた獣の涎のように垂れ流されていた。
「……ハッ、冗談だろ。トカゲとゴキブリの合い挽き肉かよ」
マキシマムが、シャドウ・クロウから譲り受けた魔銀の長剣を力強く握り直す。だが、その太い腕の震えは止まらない。彼自身の意思とは裏腹に、生物としての圧倒的な「格」の差が、細胞レベルの本能に激しい警報を鳴らしていたのだ。
「アーサー、解析は!」
マッドが愛用のショットガンを構え、野獣のような鋭い視線で怪物を睨みつける。
「……最悪だ。ドラゴン由来の特性を引き継いでいるのか……異常に強力な魔力反応と、プレトリアン級すらも遥かに凌駕する異常な物理防御力を検出した。……マッド、君たちの手持ちの火力では、あの装甲の表面を撫でるのが精一杯だぞ、クソッタレ!」
アーサーの絶望的な分析結果が、ヘルメットの通信機越しに響く。
「……装甲が厚いなら、もっとデカい穴を開けるまでだ」
だが、マッドは低く濁った声で、不敵に笑った。
「アーサー、ヴィクター、マキシマム。あいつに挨拶してやれ。俺たちが傭兵時代で何度も披露してきた、最高の『おもてなし』でだ」
ドラゴンローチが、翼のような巨大な鎌を大きく広げ、地獄の底から響くような咆哮を上げた。
遺跡全体が激しく震え、崩れた石材が雨のように降り注ぐ中、地獄の蓋が再び、最悪の形で開こうとしていたのである。
「グオォォォォォォンッ!!」
ドラゴンローチの咆哮は、もはや巨大な虫の羽音などというチャチなものではなかった。
それはかつてその肉体の主であったドラゴンの、鼓膜を直接震わせ、生物の魂そのものを凍りつかせるような、極限まで圧搾された魔力の奔流そのものだった。
遺跡の天井から、腐食しかけた巨大な石材がボロボロと崩れ落ち、派手な轟音を立てて広間に降り注ぐ。
「……ヒィッ……! なんて、なんて禍々《まがまが》しい魔力なの……ッ!」
ララが杖をきつく抱え込み、その場に力なくへたり込む。魔法使いとしての高い感知能力が仇となり、目の前の怪物が撒き散らす圧倒的な「死」の波動をダイレクトに受け止めてしまっていた。
「ララ、しっかりしてくださいまし! 『ウィンド・シールド』ッ!」
インディが悲鳴を上げながらも、必死に杖を前へと突き出し、強力な魔力の風幕を展開する。
ドラゴンローチが撒き散らす不可視のプレッシャーと微細な強酸の霧から、仲間たちを守るための精一杯の抵抗だった。
「ケッ、泣き言はクソと一緒にケツから出しやがれ、お嬢ちゃんがた!」
マッドの、あまりに汚く、しかし生命力に満ち溢れた傭兵の罵声が飛ぶ。
その場違いなまでの下品な言葉の響きに、圧倒されていたララとインディの意識が、強引に現実へと引き戻された。
「……うるさいわね! でも、有り難う。危うく、あのドラゴンの威圧に飲み込まれるところだったわ!」
ララが顔を上げ、瞳に再び魔力の光を宿す。
恐怖を怒りで上書きした魔法使いたちを背に、マッドたち「鉄と火薬のプロフェッショナル」は、世界最強の怪物へと真っ向から銃口を向けたのである。




