4.王配の秘密――裏切られた王子が隠していた真実
ベンジャミンが王宮に来てから十日が過ぎた。
女王の夫として迎えられた彼は、少しずつ王宮内での立場を確立しつつあった。もっとも、すべての貴族が彼を認めたわけではない。先日の昼食会で王配を侮辱した侯爵は、王宮への出入りを禁じられたものの、その背後にいたオズワルド公爵は依然として女王への反抗を続けていた。
そんなある日の午後、ベンジャミンは王宮の書庫にいた。
彼の前には、この国の歴史書と軍事記録が積まれている。女王の夫として国を理解するためという理由もあったが、実際には別の目的があった。
祖国で自分を裏切った者たちの動きを調べるためだ。
「やはり、あの男が関わっていたか」
一冊の古い報告書を閉じ、ベンジャミンは低く呟いた。
彼が探していたのは、三年前に隣国で起きた王位継承争いに関する記録だった。
ベンジャミンは前国王の長男として生まれ、幼い頃から次期国王として育てられた。軍事にも政治にも優れ、国民からの人気も高かった。
ところが、父王が病に倒れると、異母弟のエドワードとその母親が動き始めた。
彼らはベンジャミンが反乱を企てているという偽の証拠を作り、軍部の一部を買収した。ベンジャミンが国境警備のため王都を離れている間に、王宮を掌握したのである。
戻った彼を待っていたのは、反逆者という烙印と、捕虜としての生活だった。
父王はすでに亡くなり、彼を信じてくれる者もほとんど残っていなかった。
「殿下」
声をかけられ、ベンジャミンは振り返った。
立っていたのは、彼の護衛を務めることになった騎士の一人、ローレンスだった。
「陛下がお探しです」
「分かった。すぐに参ろう」
ベンジャミンは書類を閉じた。
だが、その表情には、いつもの穏やかさとは違う険しさが残っていた。
セレスティーヌは執務室で、隣国から届いた外交文書を読んでいた。
そこには、ベンジャミンを反逆者として扱い、引き渡しを求める内容が記されている。
「随分と勝手な要求ね」
彼女は書類を机に置いた。
「陛下、隣国の使者は、ベンジャミン王子が祖国の王位継承権を放棄していないことも問題にしております」
宰相が慎重に告げた。
「つまり、彼が生きている限り、現在の王族にとって都合が悪いということね」
「そのように考えられます」
「返答は必要ありません。ベンジャミンは私の夫です。私が保護している者を、他国の要求だけで引き渡すつもりはありません」
「承知いたしました」
宰相が下がったところで、扉が開いた。
「お呼びでしょうか、セレスティーヌ」
ベンジャミンが入ってきた。
彼はセレスティーヌの表情を見るなり、机の上の文書に目を留めた。
「祖国からですか?」
「ええ。あなたを引き渡せと要求してきました」
「予想していたことです」
「あなたは、祖国に戻りたいと思いますか?」
ベンジャミンは少し考えた。
「戻りたいかと尋ねられれば、答えは難しいですね。私が生まれ育った国です。愛着がないわけではありません。しかし、今の王宮には、私の居場所はありません」
「あなたを裏切った者たちがいるから?」
「ええ」
セレスティーヌは彼を見つめた。
「何があったのか、詳しく聞かせてもらえませんか?」
ベンジャミンは窓の外へ目を向けた。
そして、これまで誰にも語らなかった過去を、少しずつ話し始めた。
三年前、ベンジャミンは二十七歳だった。
父王の病状が悪化し、彼が国政の大部分を担っていた頃、国境で小規模な紛争が起きた。
ベンジャミンは自ら軍を率いて出陣し、敵軍を退けた。
しかし、帰還した王都で待っていたのは、反逆者という罪状だった。
異母弟エドワードが、王位を継ぐために仕組んだ罠だった。
「兄上は父上の死を待ちきれず、王位を奪おうとしている」
その言葉を信じた貴族たちは、ベンジャミンを拘束した。
彼が最も信頼していた近衛騎士団の副団長までもが裏切り、偽造された書状を証拠として提出した。
「私は父の死に目に会うことすらできませんでした」
ベンジャミンの声は静かだった。
「父が亡くなったと知らされたのは、牢獄に入れられてから数日後です」
セレスティーヌは何も言わずに聞いていた。
「その後、私は反逆者として裁かれることになりました。しかし、処刑される直前、ある騎士が私を逃がしてくれたのです」
「あなたを?」
「ええ。幼い頃から私に仕えてくれた男です。彼は私を逃がすために命を落としました」
ベンジャミンは一度目を閉じた。
「私はその後、わずかな仲間と国境を越えました。しかし、追っ手に追いつかれ、戦闘の末に捕らえられたのです」
「そのときから、ずっと捕虜だったのですね」
「そうです」
セレスティーヌは彼の手にそっと触れた。
「辛かったでしょう」
「もう過ぎたことです」
「過ぎたことでも、傷が消えるわけではありません」
その言葉に、ベンジャミンは彼女を見つめた。
彼女の瞳には、同情ではなく、理解しようとする優しさがあった。
「あなたは、私を恐れないのですか?」
「どうして?」
「私には王位継承権があります。あなたの夫になった今、あなたの国を乗っ取ろうとしていると思われても仕方がありません」
「あなたがそんなことをするなら、私はあなたを選んでいません」
「私を信じるのですか?」
「少なくとも、今は信じています」
セレスティーヌは微笑んだ。
「あなたは私の夫です。信頼する努力くらい、させてください」
ベンジャミンは彼女の手を取り、静かに握り返した。
「ありがとうございます」
その日の夕刻、セレスティーヌは王宮の小礼拝堂にいた。
亡き母の肖像画が飾られた場所で、彼女は時折、一人で祈りを捧げる。
そこへ、ベンジャミンがやってきた。
「ここにいらしたのですね」
「どうして分かったのですか?」
「侍女の方に教えていただきました」
彼は彼女の隣に立ち、母の肖像画を見上げた。
「美しい方ですね」
「母です。私が十五歳のときに亡くなりました」
「あなたによく似ていらっしゃる」
「そうでしょうか」
「ええ。目元が特に」
セレスティーヌは少し寂しそうに微笑んだ。
「母は、父にとても愛されていました。でも、その愛ゆえに王宮の陰謀に巻き込まれたのです」
「それで、愛を信じなくなったのですか?」
彼女は驚いて彼を見た。
「どうしてそう思うのです?」
「あなたは結婚の条件に、愛情を必要としないと言いました。けれど、本当に愛を必要としない人間なら、あれほど寂しそうに母親の肖像画を見つめたりはしないでしょう」
セレスティーヌは何も答えられなかった。
ベンジャミンは彼女の肩に手を置いた。
「私は、あなたに愛を求めるつもりはありません。今すぐ何かを約束してほしいとも思わない。ただ、いつかあなたが誰かを信じたいと思ったときには、私をその相手に選んでほしい」
その言葉は、セレスティーヌの胸の奥に静かに染み込んだ。
「ベンジャミン……」
「急ぐつもりはありません。私は、あなたが自分の意思で私を選んでくれる日を待ちます」
彼は彼女の額にそっと口づけた。
セレスティーヌは目を閉じた。
それは、契約結婚を交わして以来、初めての優しい口づけだった。
一方、オズワルド公爵の屋敷では、隣国から届いた密書が開かれていた。
差出人は、隣国の現国王エドワード。
そこには、ベンジャミンが生きている限り、両国の関係を正常化することはできないと記されていた。
さらに、ベンジャミンを排除するための協力を求める文言もあった。
「これは好都合だ」
オズワルド公爵は笑った。
「隣国の国王も、あの男を邪魔に思っているらしい」
側近が尋ねた。
「どのようになさいますか?」
「ベンジャミンを隣国へ送り返すのだ。女王がどれほど庇おうと、祖国の国王が引き渡しを求めているとなれば、話は別だろう」
「しかし、女王陛下がお許しになるとは思えません」
「だからこそ、女王に選択させるのだ」
公爵は密書を机に置いた。
「ベンジャミンを守れば、隣国との戦争になる。引き渡せば、夫を見捨てた女王として信用を失う。どちらを選んでも、あの女に未来はない」
彼は満足そうに笑った。
翌朝、セレスティーヌのもとに、ベンジャミンの王配戴冠式に関する準備報告が届けられた。
彼女は報告書に目を通し、宰相に告げた。
「戴冠式は一週間後に行います」
「一週間後でございますか?」
「ええ。これ以上、ベンジャミンの立場を曖昧にしておく必要はありません。正式に王配として認めれば、彼に対する不当な干渉も難しくなるでしょう」
「承知いたしました」
宰相が退室すると、ベンジャミンが入ってきた。
「戴冠式の話を聞きました」
「ええ。あなたを正式に王配として迎えます」
「ありがとうございます」
「不満ですか?」
「いいえ。ただ、あなたに一つお願いがあります」
「何でしょう?」
「戴冠式が終わったら、二人で王都の外へ出かけませんか?」
「王都の外へ?」
「ええ。王宮の外では、あなたは女王ではなく、一人の女性として過ごせます。少しくらい、夫婦らしい時間を持ってもよいでしょう」
セレスティーヌは彼を見つめた。
「それは、あなたの三つ目の要求ですか?」
「いいえ。これは要求ではありません。私からの願いです」
彼は優しく微笑んだ。
セレスティーヌも、今度は自然に笑うことができた。
「考えておきます」
「では、期待しています」
二人の間には、少しずつ温かな空気が流れ始めていた。
しかし、その平穏は長くは続かない。
戴冠式を目前に控えた王宮では、オズワルド公爵が隣国と手を結び、ベンジャミンを追い落とすための計画を進めていた。
そして、彼がまだ知らない最大の秘密があった。
ベンジャミンは、ただ王位を奪われた王子ではない。
彼が祖国から持ち出した証拠の中には、現国王エドワードの即位そのものを覆す、決定的な文書が含まれていたのだ。
それを公にすれば、ベンジャミンは再び王位継承者として立つことになる。
そして、そのとき彼は選ばなければならない。
祖国の王冠を取り戻すのか。
それとも、自分を信じてくれた女王の隣に残るのか。
彼の答えは、まだ誰にも分からなかった。




