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夫を買った女王は愛を知らない~あなたを夫として買ったはずなのに、どうして私の心まで奪うの?  作者: 葵雀


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5.王配戴冠式――女王に手を差し伸べた男

 大広間には白と金の旗が掲げられ、磨き上げられた大理石の床には赤い絨毯が敷かれている。各地から集まった貴族や外交使節が見守るなか、女王セレスティーヌの隣に立つ男――ベンジャミンの姿に、誰もが視線を向けていた。


 かつて隣国で「血塗られた獅子」と恐れられた王子は、今やこの国の女王が選んだ夫である。


「緊張しているのか?」


 式典を控えた控え室で、ベンジャミンがセレスティーヌに尋ねた。


「まさか。私は女王よ。戴冠式など何度も経験しているわ」


「今日は君の戴冠式ではない。私の式典だ」


「だからこそよ。あなたが正式に王配として認められれば、叔父も簡単には手を出せなくなるでしょう」


 セレスティーヌはそう答えたものの、指先にはわずかな力がこもっていた。ベンジャミンは彼女の手を取ると、そっと握りしめる。


「私のために心を砕いてくれるのは嬉しい。だが、今日は政治のためだけの日にしたくない」


「では、何のための日にしたいの?」


「君が私を夫として選んだことを、皆の前で確かめる日だ。そして私も、君の隣に立つことを誓う日だ」


 彼の言葉に、セレスティーヌは一瞬返事を忘れた。


「あなたは本当に、私の心を揺さぶるのが上手ね」


「君が少しずつ心を開いてくれるからだろう」


 ベンジャミンは彼女の手の甲に口づけた。セレスティーヌは頬が熱くなるのを感じながら、彼の手を握り返した。


 やがて式典の開始を告げる鐘が鳴り響いた。


 二人が大広間へ入ると、参列者たちは一斉に頭を下げた。玉座の前に設けられた祭壇には、王配の冠が置かれている。宰相が厳かな声で宣言した。


「女王陛下の配偶者、ベンジャミン殿下を、この国の正式な王配として認める。王家の名誉を守り、女王陛下を支え、国民の安寧に尽くすことを誓われるか」


「誓おう。ただし、私は誰かの操り人形になるために、この場に立っているのではない。女王陛下と共に、この国を守るために立っている」


 その言葉に、広間の一角で小さなどよめきが起きた。


 オズワルド公爵は不快そうに眉をひそめていた。彼はベンジャミンを従順な異国の捕虜として扱い、いずれ女王の傍から追い払うつもりだったのだろう。しかし、ベンジャミンの堂々とした態度は、その思惑を早くも崩し始めていた。


 宰相が冠を手に取り、セレスティーヌへ差し出す。


「陛下。王配殿下に冠をお授けください」


 セレスティーヌは冠を受け取り、ベンジャミンの前に立った。彼は静かに膝をつく。かつて一国の王太子として、誰にも頭を下げることのなかった男が、今は彼女の前にひざまずいている。


 その姿を見つめながら、セレスティーヌの胸に、初めて彼と出会った日の記憶がよみがえった。


 彼は自由を求めていた。誰かの所有物になることを拒み、自分の誇りを守るために彼女と条件を交わした。それなのに今、彼は自らの意思で彼女の隣に立とうとしている。


 セレスティーヌは冠を彼の頭に載せた。


「ベンジャミン。あなたを、この国の王配として認めます。そして、私の夫として、これからも隣にいてほしい」


 予定されていた宣誓にはない言葉だった。


 ベンジャミンが顔を上げる。彼の瞳に、驚きと喜びが浮かんだ。


「その願い、喜んで受けよう。私も君の夫として、どんなときも隣にいる」


 二人の手が重なった瞬間、大広間に拍手が広がった。


 しかし、その祝福を快く思わない者もいた。


 式典が終わり、祝宴が始まろうとしたとき、オズワルド公爵が一人の外交使節を伴って進み出た。


「陛下。お祝いの席で申し上げるのは心苦しいのですが、隣国から正式な通告が届いております」


 セレスティーヌの表情が引き締まる。


「どのような通告かしら」


「ベンジャミン殿下を、反逆者として引き渡すよう求めるものです。応じなければ、両国の友好関係を見直すとのこと。陛下には、国益を第一にお考えいただきたい」


 外交使節が一歩前に出て、封書を差し出した。


「隣国王エドワード陛下からの書状でございます。ベンジャミン殿下は王位を脅かす危険人物であり、身柄を保護する必要があるとのお言葉です」


 ベンジャミンは書状を見ると、静かに口を開いた。


「保護、か。私を牢に閉じ込め、父王の死を知らせず、忠臣を殺した者が使う言葉とは思えないな」


「殿下。根拠のない発言はお控えください」


 外交使節が声を強めたが、ベンジャミンは動じなかった。


「根拠ならある。私が捕らえられる前に託された証拠だ。エドワードが王位を奪うために、私へ反逆の罪を着せたことを示す記録が残っている」


 その言葉に、オズワルドの顔色がわずかに変わった。


「証拠があるというのなら、なぜ今まで公表しなかったのです?」


「公表する機会を奪われていたからだ。だが、今は違う」


 ベンジャミンはセレスティーヌの隣に立ち、彼女を見た。


「私はこの国の王配となった。もう、誰にも黙らされるつもりはない」


 セレスティーヌは彼の腕に手を添えた。


「隣国の要求は受け入れません。ベンジャミンは私の夫であり、この国の正式な王配です。罪の証拠も示さず、他国の王配を引き渡せという要求に応じる理由はありません」


「陛下、それでは隣国との戦争を招きかねません!」


 オズワルドが声を上げた。


「戦争を望んでいるのは誰かしら。罪を着せられた王子を引き渡せと脅してくる国か、それとも脅しに屈しない私か。よく考えて発言なさい」


 セレスティーヌの言葉に、広間は静まり返った。


 ベンジャミンは彼女の横顔を見つめた。自分のために国を危険にさらすことを恐れず、それでも女王として冷静に判断しようとする彼女の姿に、胸が熱くなる。


 そのとき、彼はそっと彼女の手を握った。


「セレスティーヌ。君一人に背負わせるつもりはない。私の祖国の問題は、私自身が決着をつける」


「あなたが一人で行く必要はないわ」


「分かっている。だからこそ、君に頼みたいことがある」


「何?」


「今夜、二人きりで話をしたい。私が持っている証拠を見せる。そして、これからどうするかを君と決めたい」


 セレスティーヌはうなずいた。


「ええ。必ず聞かせて」


 オズワルドは二人の様子を見つめながら、笑顔を取り繕っていた。だが、その手は強く握りしめられている。


 彼は知らなかった。ベンジャミンが持つ証拠には、隣国の王エドワードだけでなく、自分自身の名前も記されていることを。


 祝宴の夜、セレスティーヌの私室には、ベンジャミンが持ち込んだ古い革袋が置かれていた。


 中から出てきたのは、数枚の書状と、封蝋の押された命令書だった。ベンジャミンはその一枚を彼女の前に広げる。


「これは、私が国境の戦場にいた頃、王都から送られた命令書だ。私の部隊を意図的に孤立させ、反逆の証拠を捏造するための指示が記されている」


 セレスティーヌは書面を読み進め、ある名前のところで目を止めた。


「オズワルド……?」


「そうだ。彼はエドワードと密約を交わしている。私を君の国から追い出す代わりに、君を孤立させる手助けをする約束をしたらしい」


「叔父が……」


 セレスティーヌは書状を置いた。驚きはあったが、取り乱しはしなかった。オズワルドが自分を操ろうとしていたことは、以前から分かっていた。ただ、隣国の王と手を結び、ベンジャミンまで利用しようとしていたとは思わなかったのだ。


「この書状を公表すれば、叔父は言い逃れできないわね」


「だが、彼は簡単には認めないだろう。君の王位を脅かすために、何か仕掛けてくる可能性もある」


「それでも、あなたを引き渡すつもりはないわ」


 ベンジャミンは彼女の手を取った。


「ありがとう。だが、君に一つだけ伝えておきたいことがある」


「何?」


「私には、祖国の王位を取り戻す権利がある。父王の正式な後継者は私だ。証拠を示せば、エドワードの即位は覆る可能性が高い」


 セレスティーヌの指がわずかに震えた。


「あなたは……王になりたいの?」


「かつてはそうだった。だが、今はそれだけが私の望みではない」


「では、何を望んでいるの?」


 ベンジャミンは彼女の頬に手を添えた。


「君と生きることだ。君の隣に立ち、君が笑う日々を守りたい。私はもう、王位を取り戻すためだけに生きているのではない」


「でも、あなたの祖国は……」


「いずれ決着をつけなければならない。逃げ続けるつもりはない。だが、そのときも君と相談して決めたい」


 彼の言葉に、セレスティーヌは胸の奥が締めつけられた。


 自分は彼を夫として迎えた。けれど、彼が本当にこの国に残りたいのか、彼自身の未来を奪ってしまっていないか、考えたことがなかった。


「ベンジャミン。あなたを手放したくないと思っている自分がいるわ」


「手放す必要はない」


「あなたには、あなたの国も、あなたの人生もある。私の夫であることだけを理由に、すべてを諦めてほしくないの」


「ならば、君も女王であることだけを理由に、自分の幸せを諦めないでくれ」


 彼は彼女の手を胸元に導いた。


「私は君を守りたい。だが、君の自由を奪ってまでそばにいたいわけではない。君が望むなら、私は君と共に歩く。君が望まないなら、無理に縛るつもりもない」


 セレスティーヌは彼を見つめた。契約から始まった結婚だった。互いの利益を守るために結んだ関係で、愛など必要ないと思っていた。


 それなのに今、彼が自分のそばからいなくなることを想像するだけで、胸が痛む。


「私は……あなたにそばにいてほしい」


 ようやく口にした言葉に、ベンジャミンの表情が柔らかくなった。


「それを聞けただけで、今夜は十分だ」


 彼は彼女を抱き寄せた。セレスティーヌも彼の胸に頬を寄せる。彼の腕の中は、王宮のどの部屋よりも温かかった。


「明日からは、叔父の企みを止めましょう。そして、あなたの名誉も取り戻す」


「ああ。だが、今夜だけは政治の話を忘れよう」


「あなたらしくないわね」


「君と二人きりでいる時間まで、政治に奪われたくないだけだ」


 ベンジャミンは彼女の額に口づけ、それからゆっくりと唇を重ねた。


 セレスティーヌは目を閉じた。初めて、自分から彼の背に腕を回す。


 女王としてではなく、一人の女性として、彼の愛を受け入れたいと思った。


 その夜、二人の結婚は、契約という形を少しずつ失い始めていた。


 そして翌朝、オズワルド公爵の屋敷には、ベンジャミンからの正式な通告が届けられることになる。


 そこには、彼の反逆罪を捏造した証拠と、オズワルド公爵自身の密約を示す書状の写しが添えられていた。


 公爵が逃げ道を失う日は、もう遠くなかった。

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