3.王配への侮辱――女王が初めて夫のために怒った日
ベンジャミンが王宮で暮らし始めてから、一週間が過ぎた。
彼は王配としての正式な戴冠式をまだ終えていなかったが、女王の夫として王宮の一角に居室を与えられ、少しずつ新しい生活に馴染んでいた。
もっとも、歓迎されているとは言い難い。
貴族たちは彼と顔を合わせても挨拶をせず、王宮の使用人たちの中にも、敵国の捕虜だった男が王配になることを快く思わない者がいた。
しかし、ベンジャミンは気にしていないようだった。
「殿下、本日の昼食は大広間でございます。貴族の方々も出席されます」
侍従の報告に、ベンジャミンは読んでいた書物を閉じた。
「そうか。女王陛下も出席されるのか?」
「はい。ただし、陛下は少し遅れていらっしゃるとのことです」
「分かった。では、先に行こう」
彼は立ち上がり、濃紺の上着を整えた。
その胸元には、女王から贈られた王家の紋章が輝いていた。
捕虜だった頃の粗末な衣服とは違う。しかし、どれほど立派な衣装を与えられても、彼の誇りは変わらなかった。
大広間では、すでに多くの貴族が席についていた。
ベンジャミンが入室すると、何人かが露骨に顔をしかめた。
「敵国の王子が、我々と同じ食卓につくとはな」
「女王陛下も、ずいぶん大胆なことをなさったものだ」
聞こえるように囁く声を、ベンジャミンは聞き流した。
彼は王配の席に向かい、静かに腰を下ろした。
そのとき、向かいに座っていた侯爵が、わざとらしく笑った。
「これはこれは、ベンジャミン殿。王配殿下とお呼びした方がよろしいのでしょうかな?」
「どちらでも構いません」
「ほう。ずいぶん余裕がおありだ」
侯爵の隣にいた伯爵が口を挟んだ。
「しかし、いささか奇妙な話ですな。祖国から追放された王子が、別の国で王配になるとは。いったい、どれほどの価値があるというのでしょう」
「少なくとも、あなたがたが考えているよりは役に立つと思いますよ」
ベンジャミンは穏やかに答えた。
その態度が気に入らなかったのか、侯爵の表情が険しくなった。
「元捕虜の分際で、口の利き方に気をつけたまえ」
「私の身分については、女王陛下が判断されることです」
「女王陛下も、あなたのような男に騙されているのではありませんかな?」
周囲から小さな笑いが漏れた。
ベンジャミンはグラスを置いた。
「私を批判するのは構いません。しかし、女王陛下を侮辱するのはおやめなさい」
「何だと?」
「あなたがたが私を王配として認めないのは自由です。ですが、彼女が私を選んだという事実まで否定する権利はありません」
その言葉に、侯爵は顔を赤くした。
「黙れ! 戦争に敗れ、祖国にも見捨てられた男が、何を偉そうに!」
「ええ。私は敗れました」
ベンジャミンは静かに認めた。
「しかし、敗北したことと、誇りを失うことは同じではありません」
「ならば、その誇りとやらを見せてもらおうではないか」
侯爵は立ち上がると、手元のワイングラスを持ち上げた。
そして、ベンジャミンの胸元へ赤いワインを浴びせた。
広間に悲鳴が上がった。
濃紺の上着に、赤い染みが広がる。
「これは失礼。捕虜には、ワインより水の方がお似合いでしたかな」
侯爵が嘲笑した。
ベンジャミンは動かなかった。
ただ、胸元の染みを見下ろし、ゆっくりと顔を上げた。
「今の行為について、謝罪するつもりはありますか?」
「なぜ私が謝罪しなければならない?」
「分かりました」
ベンジャミンは静かにナプキンを手に取った。
「では、後ほど女王陛下にご報告しましょう」
「女王陛下に泣きつくつもりか! やはり、王配という地位にしがみついているだけの男だな!」
そのときだった。
「何をしているのです!」
凛とした声が大広間に響いた。
入口に立っていたのは、セレスティーヌだった。
彼女は一目で状況を理解した。
ワインで汚れた夫の上着。
床に落ちたグラス。
そして、勝ち誇ったように立っている侯爵。
「陛下、これは少々行き違いがございまして……」
侯爵が言い訳を始める前に、セレスティーヌはベンジャミンのもとへ歩み寄った。
「ベンジャミン、怪我はありませんか?」
「ありません。ワインをかけられただけです」
「そうですか」
彼女は夫の胸元に広がる赤い染みを見つめた。
その上着は、数日前に彼女が選んだものだった。
彼が王配として初めて公の場に出るときに着てほしいと思い、仕立てさせた衣装だった。
それを、こんな形で汚された。
セレスティーヌは侯爵に向き直った。
「誰がやったのですか?」
「陛下、私は少し冗談を……」
「誰がやったのかと尋ねているのです」
「わ、私でございます」
「では、侯爵。今すぐ夫に謝罪しなさい」
侯爵の顔から笑みが消えた。
「陛下、しかし、この男は敵国の王子です。王家の血を引いているとはいえ、我が国にとっては危険な存在。私たちは陛下をお守りするために……」
「私を守る?」
セレスティーヌの声が低くなった。
「夫にワインを浴びせることが、私を守ることなのですか?」
「それは……」
「あなた方は、私が選んだ夫を侮辱しました。それは私の判断を侮辱したということです」
大広間が静まり返った。
セレスティーヌは侯爵の目をまっすぐに見つめた。
「私は女王です。あなた方の機嫌を取るために結婚相手を選んだのではありません。私自身の意思で、ベンジャミンを夫に迎えたのです」
「陛下、どうかお考え直しください。このような男を王配として認めることは、王家の権威を損ないます」
「王家の権威を損なっているのは、あなたの行為です」
彼女は宰相へ視線を向けた。
「この侯爵の王宮への出入りを、私の許可があるまで禁じなさい。また、王家の行事における役職も解任します」
「お、お待ちください! それほどの処分はあまりにも……」
「まだ不服があるのですか?」
侯爵は言葉を失った。
セレスティーヌはもう一度、夫の胸元に目を向けた。
「ベンジャミン。部屋に戻りましょう」
「陛下、私は大丈夫です」
「あなたが大丈夫かどうかを決めるのは、あなた自身です。ですが、私が夫を侮辱されたままにしておくことはありません」
彼女は彼の腕にそっと手を添えた。
そして、貴族たちの前を堂々と歩いていった。
王配の居室に戻ると、セレスティーヌは侍女に新しい衣服を用意させた。
「申し訳ありません。私がもう少し早く来ていれば……」
「あなたが謝る必要はありません」
ベンジャミンは上着を脱ぎながら答えた。
「私が王配になった以上、こうしたことは起こると思っていました」
「それでも、許せません」
セレスティーヌは珍しく感情を隠さなかった。
「あなたは私の夫です。私が選んだ人です。それなのに、彼らはあなたをまるで価値のない人間のように扱った」
「私は気にしていません」
「私は気にします」
その言葉に、ベンジャミンの手が止まった。
セレスティーヌは彼の顔を見つめた。
「あなたは私のために、あの場で反論してくれました。私の判断を否定するなと、そう言ってくれました。だから今度は、私があなたを守りたかったのです」
ベンジャミンは、彼女の前まで歩いてきた。
「セレスティーヌ」
「何ですか?」
「あなたは、私のために怒ってくださったのですね」
「当然です。夫なのですから」
「契約上の夫でも?」
彼女は一瞬、言葉に詰まった。
「……そうです」
ベンジャミンは、彼女の手を取った。
「ありがとうございます。今日のことは、一生忘れません」
「大げさです」
「私にとっては、大げさではありません」
彼は彼女の手の甲に唇を寄せた。
セレスティーヌの頬が熱くなる。
「ベンジャミン……」
「あなたが私のために怒ってくださったことが、嬉しいのです」
「私は、ただ正しいことをしただけです」
「ええ。ですが、あなたは今まで誰かのために、こんなふうに怒ったことがあったのですか?」
彼女は答えられなかった。
女王になってから、誰かを守るために怒ることはあっても、自分の気持ちを理由に怒ったことはなかった。
ベンジャミンは彼女の手を離さず、静かに言った。
「私は、あなたの夫になれてよかったと思います」
その言葉に、セレスティーヌの胸が大きく揺れた。
その夜、ベンジャミンは新しい上着に着替え、セレスティーヌの部屋を訪れた。
「どうしたのですか?」
「一つ、お伝えしたいことがあります」
彼は持っていた書類を机の上に置いた。
「これは、私が祖国を追われる直前に調べていたものです」
セレスティーヌは書類を手に取った。
そこには、隣国の王族と軍部の人間の名前、そして多額の資金の流れが記されていた。
「これは……」
「私の祖国では、王位を狙う者たちが軍部と結託していました。私が反逆者として捕らえられたのも、その証拠を見つけたからです」
「あなたは反逆者ではなかったのですね」
「もちろんです。私は国を裏切ってなどいません」
ベンジャミンの声には、抑えきれない苦さがあった。
「私を陥れた者たちは、今も祖国で権力を握っています。私が生きていると知れば、必ず口封じをしようとするでしょう」
「それなら、なおさらあなたを守らなければなりません」
「私があなたを危険に巻き込むかもしれません」
「私は女王です。危険を恐れていては、王冠など戴けません」
ベンジャミンは彼女を見つめた。
そして、初めて彼の表情から余裕が消えた。
「セレスティーヌ。あなたは本当に強い女性ですね」
「そうでなければ、生き残れませんでしたから」
「これからは、私にもあなたを守らせてください」
彼は彼女の手を取り、今度は両手で包み込んだ。
「あなたが私を選んでくださったことを、決して後悔させません」
セレスティーヌは、その言葉を聞きながら彼を見つめていた。
この男は、彼女が想像していた以上に誇り高く、優しい。
そして、誰よりも深い傷を抱えている。
彼を夫として迎えたのは、国を守るためだった。
けれど今、彼女は初めて思った。
この男性の心も、いつか守ってあげたいと。
その頃、オズワルド公爵の屋敷では、別の動きが始まっていた。
「侯爵が王宮への出入りを禁じられた?」
「はい。女王陛下は王配殿下への侮辱を理由に、かなり厳しい処分を下されたようです」
オズワルド公爵は、手元のグラスを強く握った。
「まさか、あの女がそこまで男に入れ込むとはな」
「いかがいたしましょう?」
「ベンジャミンを調べろ。あの男には、祖国で何か問題があったはずだ。弱みを見つけて、女王の隣から引きずり下ろしてやる」
公爵は冷たく笑った。
しかし、彼が調べようとしている男は、ただの敗軍の王子ではなかった。
かつて敵国の軍を率い、わずかな兵で三倍の敵を退けた男。
そして、裏切りによって王位を奪われた、正統な王位継承者だった。
ベンジャミンが再び剣を取る日は、そう遠くなかった。




