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夫を買った女王は愛を知らない~あなたを夫として買ったはずなのに、どうして私の心まで奪うの?  作者: 葵雀


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2.初めての朝食――夫になった王子の意外な要求

 翌朝、セレスティーヌはいつもより少し早く目を覚ました。


 昨夜、ベンジャミンと食事を共にしたことが、思いのほか心に残っていたからだ。


 彼は捕虜として連れてこられたにもかかわらず、卑屈になることも、彼女に媚びることもなかった。それどころか、まるで以前から知り合いだったかのように自然に話しかけてきた。


「陛下、本日は王配殿下と朝食を共にされるご予定ですね」


 侍女長のマリアが、朝の支度を手伝いながら告げた。


「ええ。昨日、約束しましたから」


「王配殿下は、朝から庭園をご覧になっているそうです」


「庭園を?」


「はい。夜明けとともに起きられたとか」


 セレスティーヌは少し驚いた。


 昨夜の食事が終わったのは遅い時間だった。それなのに、ベンジャミンはもう起きているらしい。


「彼を朝食の間へ案内してちょうだい。私もすぐに行きます」


 朝食の間に入ると、ベンジャミンは窓辺に立っていた。


 朝日を浴びた黒髪が艶やかに光り、窓の外に広がる庭園を眺めている。昨夜の礼服ではなく、落ち着いた濃紺の上着を身につけていた。


「おはようございます、陛下」


「おはようございます。早いのですね」


「戦場では夜明け前に起きるのが習慣でした。敵がいつ襲ってくるか分かりませんから」


「今は戦場ではありません」


「そうですね。ですが、長年の習慣は簡単には変わりません」


 ベンジャミンは微笑んで椅子を引いた。


「どうぞ、お掛けください」


「あなたが私に椅子を引く必要はありません」


「夫が妻に椅子を引くのは、そんなにおかしなことですか?」


 セレスティーヌは答えず、席に着いた。


 テーブルには焼きたてのパン、卵料理、果物、チーズ、温かなスープが並んでいた。


 ベンジャミンは料理を一通り眺めてから、パンを手に取った。


「美味しそうですね」


「王宮の料理人は優秀ですから」


「あなたは、いつもこれほどの朝食を?」


「必要なものを食べているだけです」


「なるほど。では、今日から少し変えてみませんか?」


「何をです?」


 ベンジャミンはパンを置き、真剣な顔で彼女を見た。


「私の要求を聞いていただきたい」


 セレスティーヌは眉を上げた。


「要求?」


「はい。三つあります」


「聞きましょう」


「一つ目。朝食と夕食は、できる限り一緒に取っていただきたい」


「それは昨日も申し上げた通り、あなたが望むなら構いません」


「二つ目。私のことを王子ではなく、ベンジャミンと呼んでください」


「それは……」


「もう私は、あなたの夫になるのです。いつまでも王子と呼ばれるのは、少々他人行儀でしょう」


「分かりました。ベンジャミン」


 彼は満足そうに笑った。


「ありがとうございます。では、三つ目です」


「どうぞ」


「あなたは週に一度、政務を完全に休んでください」


 セレスティーヌは手にしていたカップを置いた。


「それは無理です」


「どうしてです?」


「私は女王です。休んでいる間にも国は動いています」


「国を治める者が倒れてしまえば、国そのものが困るでしょう」


「私は健康です」


「昨夜、あなたは食事をほとんど召し上がらなかった。今朝も、私が来るまで書類に目を通していたそうですね」


「誰から聞いたのです?」


「侍女の方です。あなたは食事より仕事を優先することが多いと」


 セレスティーヌは困ったように眉を寄せた。


「私の健康を心配しているのですか?」


「夫として当然でしょう」


「契約結婚ですよ。あなたは私を愛する必要も、私の世話をする必要もありません」


 ベンジャミンは、しばらく黙って彼女を見つめた。


「愛する必要がないことと、心配してはいけないことは別でしょう?」


 その言葉に、セレスティーヌは何も返せなかった。


 彼女の周囲には、健康を気遣うふりをして、王位継承や後継者の話を持ち出す者ばかりだった。彼女自身のために休めと言う人間など、母を亡くして以来、一人もいなかった。


「週に一度というのは、難しいかもしれません」


「では、半日から始めましょう」


「交渉がお上手ですね」


「戦場では、敵と交渉するよりも味方を説得する方が難しいのです」


 セレスティーヌは思わず笑った。


 ほんの小さな笑みだったが、ベンジャミンはそれを見逃さなかった。


「今の方が素敵ですよ」


「何がです?」


「その笑顔です。女王の威厳も美しいですが、あなた自身の笑顔はもっと美しい」


「……朝から何をおっしゃるのです」


 彼女の頬がわずかに赤くなる。


 ベンジャミンは楽しそうに笑った。


「本当のことを申し上げただけです」


 朝食の後、二人は庭園へ向かった。


 王宮の南側に広がる庭園には、白い薔薇や青いデルフィニウム、季節の花々が咲き誇っていた。


 セレスティーヌは普段、政務の合間にここを訪れることはほとんどない。


「ここは母が好きだった場所です」


 彼女は白い薔薇の前で足を止めた。


「母は毎朝、ここで花を眺めていました。私が幼い頃には、一緒に散歩をしたものです」


「今もお好きなのですか?」


「ええ。でも、忙しくてなかなか来られません」


 ベンジャミンは白い薔薇を一輪見つめた。


「あなたのお母様は、きっと喜ばれるでしょうね」


「何をです?」


「娘が、これほど立派な女王になったことを」


 セレスティーヌは視線を落とした。


「立派な女王かどうかは分かりません。私のことを認めない貴族も大勢います」


「それでも、あなたはここまで国を守ってきたのでしょう?」


「……ええ」


「ならば、十分に立派です」


 彼は慰めるような言葉を並べることなく、ただ事実を認めるように言った。


 セレスティーヌは、彼の横顔を見つめた。


 この男は不思議だ。


 王宮の権力争いに巻き込まれた捕虜でありながら、彼女に何かを要求するより先に、彼女のことを知ろうとしている。


「ベンジャミン」


「はい」


「あなたは、どうして私の提案を受け入れたのですか?」


 彼は足を止めた。


「祖国に戻ることもできない。王族としての地位も奪われた。そんな私にとって、あなたの提案は悪くない取引だったからです」


「それだけですか?」


「今は、それだけです」


 彼は正直に答えた。


「ですが、一つだけ申し上げておきます。私はあなたの夫になりますが、あなたの王冠を狙うつもりはありません。あなたが望むなら、私は剣を持ってあなたの隣に立ちます」


「ありがとう」


「ただし、あなたが無理をして倒れたときには、遠慮なく叱ります」


「それは困りますね」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 そのときだった。


 庭園の入口から、慌ただしい足音が近づいてきた。


「陛下! お話し中、申し訳ございません!」


 現れたのは、宰相だった。


 その表情は険しい。


「オズワルド公爵が、王宮へお越しになりました」


 セレスティーヌの笑顔が消えた。


「叔父上が?」


「はい。王配殿下との婚姻について、重大な異議があるとおっしゃっています。すでに貴族たちを集め、陛下に説明を求める構えです」


 ベンジャミンは静かにセレスティーヌの前へ進み出た。


「どうやら、私たちの結婚を歓迎していない方がいらっしゃるようですね」


「叔父は私の結婚相手を自分で決めるつもりだったのでしょう」


「では、ご挨拶に参りましょう」


「あなたが行く必要はありません。私が対処します」


「いいえ。私はあなたの夫です。あなたが一人で戦う必要はありません」


 セレスティーヌは彼を見上げた。


 彼の瞳には、昨日と変わらぬ強い意志があった。


「分かりました。一緒に来てください」


 謁見の間には、すでに大勢の貴族が集まっていた。


 その中央に立つのは、オズワルド公爵。六十歳を過ぎた男だが、まだ十分な威圧感を持っている。


「陛下。これは一体どういうことですか!」


 セレスティーヌが入室すると、彼は大きな声を上げた。


「敵国の捕虜だった男を王配に迎えるなど、王家の名誉を損なう行為です!」


「彼は捕虜ではありません。私が正式に王配として迎えました」


「そのような結婚を、貴族たちが認めるとお思いですか?」


「認めさせます」


「陛下!」


 オズワルド公爵は、隣に立つベンジャミンを睨みつけた。


「そもそも、あなたは何者ですか。祖国に見捨てられた敗軍の王子が、この国の王配になろうなど、身の程を知りなさい!」


 その言葉に、ベンジャミンは表情一つ変えなかった。


「なるほど。私の身分を問題にされるのですね」


「当然だ!」


「では、お尋ねします。あなたは、この国の王配に何を求めているのですか?」


「王家を支え、国の安定に寄与することだ!」


「それならば、私にも務まるでしょう」


「何だと?」


「私は軍を率いた経験があります。外交にも軍事にも通じています。あなたがたが私の出自を問題にするのは、私が王配にふさわしくないからではなく、あなたがたの思い通りにならないからではありませんか?」


 貴族たちがざわめいた。


 オズワルド公爵の顔が赤くなる。


「無礼者! 陛下の夫になったからといって、何を言っても許されると思うな!」


「許しを請うつもりはありません」


 ベンジャミンは一歩前へ出た。


「私は女王陛下と契約を交わしました。彼女を侮辱する者がいるなら、私は夫として、その言葉に異議を唱えます」


「あなたに発言する資格などない!」


「資格を与えたのは、ここにいらっしゃる女王陛下です」


 ベンジャミンはセレスティーヌへ向き直った。


「陛下。私はあなたの隣に立ってもよろしいでしょうか?」


 セレスティーヌは静かに頷いた。


「もちろんです。あなたは私の夫なのですから」


 その瞬間、ベンジャミンの瞳がわずかに和らいだ。


 そして彼は、女王の隣に並んだ。


「オズワルド公爵。私の夫を侮辱することは、女王である私を侮辱することと同じです」


「陛下……!」


「この話は終わりです。今後、私の婚姻に不当な干渉をすることは許しません」


 謁見の間に、静寂が訪れた。


 オズワルド公爵は悔しげに唇を噛んだが、これ以上の反論はできなかった。


 その夜、セレスティーヌは自室の窓辺に立っていた。


 今日の出来事を思い返すと、胸の奥が不思議なほど温かい。


 自分の隣に立ち、堂々と味方だと宣言した男性。


 それは、彼女が今まで一度も持ったことのない存在だった。


「陛下、まだお休みにならないのですか?」


 声をかけてきたのは、ベンジャミンだった。


「少し考え事をしていました」


「今日のことですか?」


「ええ。あなたには感謝しています」


「礼を言われるほどのことではありません。私は夫として当然のことをしただけです」


「契約上の夫なのに?」


 ベンジャミンは、彼女の前まで歩いてきた。


「契約から始まった夫婦であっても、あなたが私を夫と呼んでくださるなら、私はその言葉に恥じない男でありたいと思っています」


 彼は彼女の手を取った。


「おやすみなさい、セレスティーヌ」


「おやすみなさい、ベンジャミン」


 彼が部屋を出た後も、セレスティーヌはしばらく手を見つめていた。


 誰かに手を取られることが、こんなにも温かいものだとは知らなかった。


 一方、王宮の別の場所では、オズワルド公爵が側近に命じていた。


「ベンジャミン王子の身辺を徹底的に調べろ。あの男が王配の座に居座る前に、排除する方法を見つけるのだ」


 公爵の目には、憎悪が浮かんでいた。


 しかし、彼はまだ知らない。


 自分が敵国から連れてこられた男を軽く見たことが、やがて自らの破滅を招くことになるとは。


 そして、ベンジャミンが女王の隣に立つために、どれほどの覚悟を持っているのかも。



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