1.女王が買った男
「陛下、隣国から捕虜の王子が送られてきました」
王宮の執務室に、宰相の低い声が響いた。
セレスティーヌは、手にしていた書類から顔を上げた。大きな窓から差し込む午後の日差しが、金色の髪を淡く照らしている。二十六歳という若さで王冠を戴いた彼女の表情には、年齢に似合わぬ威厳があった。
「捕虜の王子?」
「はい。ベンジャミン王子です。先の戦争で敗北した隣国の王族で、現在は反乱の罪を着せられ、祖国からも見捨てられた身だとか」
「血塗られた獅子と呼ばれた男ね」
「ご存じでしたか」
「戦場での武勇は聞いています。敵兵を何人も退けたという話もね」
セレスティーヌは椅子から立ち上がり、窓辺へ歩いた。
彼女が女王になって二年。
父王が急逝し、世継ぎの兄も病で亡くなったため、王位を継ぐことになった。しかし、女性である彼女の即位を快く思わない貴族は少なくない。
なかでも、王位継承権を持つ叔父のオズワルド公爵は、女王を退位させ、自らが王位に就く機会を窺っていた。
最近では、地方貴族を味方につけ、王宮内でも公然と女王の政策に反対するようになっている。
「陛下、まさかベンジャミン王子を処刑なさるおつもりですか?」
「いいえ」
セレスティーヌは振り返った。
「彼を私の夫にします」
「……は?」
宰相が目を見開いた。
「聞き間違いでしょうか」
「いいえ。私は彼と結婚します」
「お待ちください! 彼は敵国の王子です。それも、戦場で数々の武勲を立てた危険な人物。そんな男を王配に迎えるなど、あまりにも無謀です!」
「だからこそです」
セレスティーヌは机に戻り、一枚の地図を広げた。
「叔父は私に王配を持たせようとしています。自分の息のかかった貴族を選び、私の夫という立場から王宮を支配するつもりでしょう」
「それは……」
「彼らが望んでいるのは、私を愛する夫ではありません。操り人形の女王を作るための、都合のいい男です」
彼女は地図の上に置かれた隣国の印を指でなぞった。
「ならば、誰の派閥にも属さず、私の国に恩を売る必要もない男を選べばいい。ベンジャミン王子なら、私の後ろ盾を必要としているはずです」
「しかし、彼が陛下に従う保証はありません」
「従わせるのではありません。取引をするのです」
セレスティーヌは冷静に告げた。
「彼に自由と王配の地位を与える。その代わり、私の夫となり、この国を守るために力を貸してもらう。彼が望むものを与え、私が必要とするものを得る。それだけです」
「陛下は……愛のない結婚をなさるおつもりですか?」
その問いに、セレスティーヌはわずかに目を伏せた。
「愛など、王に必要なものではありません」
そう言い切った声には、微かな寂しさが滲んでいた。
彼女は知っていた。
愛する者を信じれば、裏切られたときに傷つく。人を信じれば、その者に弱みを握られる。王冠を戴く者に許されるのは、感情ではなく決断だけなのだと。
「彼を王宮へ連れてきなさい」
「かしこまりました」
宰相が退室すると、セレスティーヌは窓の外を見つめた。
春の庭園では、白い薔薇が咲き始めていた。
かつて母が好きだった花だ。
母は父王に愛されていたが、王宮の陰謀に巻き込まれ、若くして命を落とした。父もまた、愛する妻を失ってからは人を信じることができなくなった。
セレスティーヌは、そんな両親の姿を見て育った。
だから、愛など信じない。
そう決めていた。
その日の夕刻、王宮の謁見の間にベンジャミンが連れてこられた。
両手には拘束具がはめられ、黒い衣服はところどころ破れていた。頬には薄い傷があり、長い黒髪は乱れている。
それでも、彼の立ち姿には敗北者の卑屈さなど微塵もなかった。
背が高く、広い肩幅を持つ男だった。鍛え上げられた身体は、豪華な衣装を纏わずとも人目を引く。鋭い青灰色の瞳は、目の前にいる女王をまっすぐに見据えていた。
「ベンジャミン王子。顔を上げなさい」
「最初から下げてはいませんが」
不遜な返答に、周囲の騎士たちが顔を強張らせた。
しかし、セレスティーヌは気にした様子もなく、彼を観察した。
噂に聞くほど恐ろしい男には見えない。ただ、簡単に屈服することのない強い意志が、その瞳には宿っていた。
「あなたに提案があります」
「処刑の宣告ではないのですか?」
「あなたを私の夫に迎えたいのです」
一瞬、謁見の間が静まり返った。
ベンジャミンは眉を上げたあと、ゆっくりと笑った。
「……面白いことをおっしゃる女王陛下だ」
「冗談ではありません」
「敵国の捕虜を夫にする? あなたの国には、まともな貴族はいないのですか」
「います。ですが、彼らは私の夫になるには不適切です」
「なるほど。つまり、あなたの貴族たちは信用できないということですね」
「理解が早くて助かります」
セレスティーヌは玉座から立ち上がった。
「私はあなたに自由を与えます。王族としての待遇も、王配としての地位も保証しましょう。あなたの祖国に戻ることを望むなら、それも将来的には検討します」
「その代わり、あなたの夫になれと?」
「ええ」
「私に何を求めるのです?」
「王配として私の隣に立ち、王宮の秩序を守ること。そして、私を政治的に利用しようとする者たちに、あなたが私の味方であると示すことです」
ベンジャミンはしばらく彼女を見つめていた。
やがて、彼は低い声で尋ねた。
「あなたは、私に愛されたいとは思わないのですか?」
予想していなかった質問だった。
セレスティーヌは一瞬だけ言葉を失ったが、すぐに冷静さを取り戻した。
「必要ありません」
「ずいぶんと自信がおありだ」
「愛情を条件に結婚するつもりはありません。あなたも私を愛する必要はない。互いに利害が一致する限り、夫婦として振る舞えばいいのです」
「それで、あなたは満足なのですか?」
「女王に必要なのは満足ではなく、国の安定です」
ベンジャミンは彼女の顔をじっと見つめた。
美しい女性だった。
王冠に飾られた宝石よりも、金色の髪よりも、その青い瞳が印象に残る。冷静で、気高く、誰にも心を許さないような瞳だった。
しかし彼には、彼女が完全に冷たい人間には思えなかった。
言葉の端々に、長い間ひとりで戦ってきた人間の疲労が見え隠れしていたからだ。
「一つ、条件があります」
「聞きましょう」
「私をあなたの所有物にしないことです」
「当然です」
「私には私の意思があります。あなたの夫になったとしても、私の誇りまで売り渡すつもりはありません」
「私も、あなたの誇りを奪うつもりはありません」
「ならば、もう一つ」
ベンジャミンは拘束された両手を軽く持ち上げた。
「まず、この鎖を外していただきたい。あなたの夫になる男に、いつまで捕虜の扱いをするおつもりですか?」
セレスティーヌは騎士に目配せした。
金属の音が響き、拘束具が外される。
ベンジャミンは手首を軽く回すと、彼女の前で片膝をついた。
「セレスティーヌ女王陛下。あなたの提案を受け入れましょう」
初めて名前を呼ばれ、彼女の胸がかすかに揺れた。
「ただし、覚えておいてください。私は一度、愛する祖国に裏切られました。もう二度と、誰かの都合で利用されるつもりはありません」
「分かっています」
「それから、私はあなたに嘘をつきません。あなたにも、私に嘘をつかないでいただきたい」
「約束します」
ベンジャミンは立ち上がり、彼女の手を取った。
「では、これからよろしくお願いします。私の女王陛下」
その手は大きく、温かかった。
セレスティーヌは、なぜかその感触をいつまでも意識してしまった。
その夜、セレスティーヌは一人で食事を取っていた。
女王になってから、食卓を誰かと囲むことはほとんどない。側近たちと食事をすることもあったが、皆が彼女の顔色を窺うため、気の休まる時間ではなかった。
「陛下、ベンジャミン王子が夕食を辞退されました」
侍女の報告に、セレスティーヌは顔を上げた。
「理由は?」
「王配となる以上、陛下と食事を共にしたいとおっしゃっています」
「……それなら、こちらへお連れしなさい」
しばらくして、ベンジャミンが姿を現した。
身支度を整えた彼は、捕虜だったときとは別人のようだった。黒い礼服がよく似合い、乱れていた髪も丁寧に整えられている。
「お招きいただき、ありがとうございます」
「こちらへどうぞ」
彼が向かいの席に座ると、料理が運ばれてきた。
豪華な食卓には、焼きたての肉料理、香草を使った温野菜、澄んだスープ、そして王宮の料理人が腕を振るった菓子が並んでいる。
しかし、ベンジャミンはほとんど料理に手をつけず、セレスティーヌを見つめていた。
「何か?」
「いえ。あなたはいつも一人で食事を?」
「そうですが」
「寂しくありませんか?」
「食事は栄養を取るためのものです。寂しいかどうかは関係ありません」
「そうですか」
ベンジャミンは小さく笑った。
「では、今日から私が一緒に食べましょう」
「あなたは私の夫になるからといって、そこまで気を遣う必要はありません」
「気を遣っているのではありません。私がそうしたいのです」
セレスティーヌは返事に困った。
これまで、彼女の食事に関心を持つ者などいなかった。皆が気にするのは、女王が何を決め、どの貴族に何を与えるかということばかりだった。
「あなたは変わった方ですね」
「よく言われます」
ベンジャミンはようやく食事に手を伸ばした。
そして、彼は何気なく告げた。
「ところで、明日の朝は庭園を案内していただけませんか?」
「庭園?」
「ええ。あなたの国を知りたいのです。あなたがどのような場所を守ろうとしているのか、見ておきたい」
セレスティーヌは彼を見つめた。
彼は王宮の政治に関わるためではなく、この国を知るためにそう言っているようだった。
「分かりました。案内しましょう」
「ありがとうございます」
その夜、セレスティーヌは久しぶりに、食事を最後まで味わうことができた。
そして、彼女はまだ知らなかった。
ベンジャミンが食事の席で見せた穏やかな笑顔の裏に、彼女を守るためならば再び剣を取ることも厭わない、強い決意が隠されていることを。
また、ベンジャミンも知らなかった。
自分がこの王宮で、かつて失ったものとは違う、本当の居場所を見つけることになるとは。
二人の契約結婚は、まだ始まったばかりだった。




