第八話 名前を取り戻す
E‐183が目を覚ましたのは、三日後だった。
クルトはその場にいるつもりはなかった。ヘルとも父のこととも、まだ話したくなかったからだ。
だがマヤが食堂へ飛び込んできた。
「起きた!」
「誰が」
「番号の人!」
それで分かった。
*
医務室のベッドで、男は天井を睨んでいた。
マリエンが水を少しずつ飲ませる。
「ここは?」
「ラスタ号ですぅ」
「……帝都か」
「帝都じゃないです」
男の肩から力が抜けた。ほんの少しだけ。
右手首には古い拘束具の跡が二重に残り、左の親指だけ爪が短い。眠る前、外すために何度も金具を探ったのだろうと、マリエンがあとで説明した。
マヤがノートを持って近づく。
「あなたは《チェイン・リンク07》から救出されました。収容番号E‐183。お名前を――」
「番号で呼ぶな」
掠れた声だ。それでも怒りははっきりしていた。
「E‐183は、あいつらがつけた札だ」
マヤがすぐノートを閉じる。
「すみません。では何と呼べば」
男は考えた。長い時間をかけて、自分の中を探すように。
「……エイ」
「エイ?」
「Eの音だけ借りる。本名は、もう思い出せねえ」
マヤはページを開き直した。E‐183の横へ「エイ」と書く。
「これでいい?」
「ああ」
「あとで変えてもいいですよ」
「名前って、そんな簡単に変えていいのか」
「わたしは医療ユニットと同じ名前でした」
エイが初めて笑った。
「そりゃ勝てねえな」
マリエンが吸い口を外し、代わりに小さな氷片を唇へ当てる。
「お話はそこまで。喉がまだ起きてませんよぅ」
「医者は昔から偉いな」
エイは氷片を舌の上で転がした。
「番号で呼ばれる人よりは、たぶん」
「言うねえ」
エイは目を閉じたが、口元にはまだ笑いが残っていた。名前を一つ決めただけで、ベッドの上の人間が少し近くなった。
*
体力が戻るにつれ、エイは少しずつ話した。
――もとは護送する側だったこと。
――終戦前、ある日突然「要監視対象」にされたこと。
――理由は最後まで知らされなかったこと。
「護送船には、変なのが混ざるようになった」
「変なの?」
マヤが訊く。
「人間を人間として書かない荷物だよ。逃げ鉱の研究者。融合種。天使化の実験から外れた奴ら。書類じゃ“資源”になってた」
『補給扱い、という分類もありましたか』
壁のスピーカーからラスが訊いた。
「あった。生きてるのに、食料や部品と同じ欄だった。最初のうちは俺も、そういう書類を受け取って運んだ」
エイは水差しへ手を伸ばしかけ、マリエンに止められて顔をしかめた。
「そのうち、運ぶ相手の顔を見た。見たあとで上へ聞きに行った。返ってきたのは異動命令で、その次が収容番号だ」
「質問したから?」
マヤの声が強くなる。
「たぶんな。ほかにも何かあったかもしれねえが、教えちゃくれなかった。人間を荷物に替えるのに、本人の納得はいらないらしい」
クルトは第一話の接舷口で、自分も荷物と呼ばれたことを思い出した。
同じ言葉でも、ヘルは条件を言い、こちらの返事を待った。護送船にはそれがない。
クルトは壁際で聞いていた。
「父の署名を見た」
自分から言った。エイの目がこちらを向く。
「冬の星の王子か」
「元、だ」
「そうか」
「父は、あの船をどうした」
ミハエルが少し動く。止めようとしたのかもしれない。
エイは長く息を吐いた。
「知らねえよ」
「……知らない?」
「俺らみたいな下っ端に、総督の考えなんか分かるか。署名は見た。航路変更もあった。だからって、それが処分命令だったか、移送命令だったか、俺は知らねえ」
クルトは口を閉じた。
「知りたい気持ちは分かるがな」
エイが続ける。
「分からねえものを、自分に都合よく悪くするな。後で困るぞ」
ヘルと同じことを言われた。それがまた腹立たしくて、でも今度は怒鳴れなかった。
「……分かった」
「分かってねえ顔だな」
「分からないままにしておく」
「それなら上等」
エイはそこで疲れ、目を閉じた。マリエンが毛布を直す間に、マヤはノートへ「元輸送隊」とだけ書き足す。
「質問したことも書かないのか」
クルトが小声で訊いた。
「本人が、たぶんと言ったから」
確かなことだけを書き、分からないところは空ける。マヤはもう、そのやり方を船の中へ持ち込んでいた。
*
その夜、クルトは一人で貨物区画へ行った。
E‐001のカプセルが、臨時電源につながれている。
ヘルが先にいた。
「何だよ」
「こっちの台詞だ」
「俺は仕事」
「オレは見に来た」
二人とも、しばらくカプセルを見た。
「この中、誰なんだ」
「知らねえ」
「本当に?」
「本当に」
ヘルが面倒そうに頭を掻く。
「ただ、旧総統府のコードが使われてる。ラスの解析じゃ、俺の個人鍵に近い」
「開ける?」
「いつかな」
「逃げるのか」
「保留する」
クルトが笑った。
「同じじゃないか」
「違う。逃げる奴は、戻る日を決めねえ」
ヘルは端末を叩いた。
「こいつは次の補給港まで保留。その間にログを洗う。オマエの親父の署名もな」
クルトは少し黙った。
「昨日は悪かった」
「どれが」
「あなたに言われたくない、と言った」
「正しいだろ」
「そうなのか」
「昔の俺なら、死人の署名一つで何人も処分したかもしれねえ」
あまりに淡々としていて、クルトは何も言えなかった。
「だから今、やらないようにしてる」
ヘルがカプセルから離れる。
「オマエも好きにしろ。ただし、急ぐな」
貨物区画に一人残され、クルトはE‐001の霜に触れた。
冷たい。でも、生きている。
空欄は空欄のまま、まだそこにあった。
*
翌日の昼、エイには薄い豆のスープが出た。
「肉は」
「三日後」
マリエンが即答する。
「酒」
「三十日後」
エイは露骨に眉を寄せた。
「長えな」
「飲めるとは言ってませんよぅ」
医務室へスープを運んだレオが笑い、エイはようやく船の名を聞いた。
「ルーシッドリ・ラスタ。長いな」
「ドギーさんはルーシって呼びます」
船内放送の回線が勝手に開いた。
「勝手に略してるだけですよ」
船内放送でドギーが抗議した。
「いいじゃねえか、ルーシ。覚えやすい」
エイはスプーンを持ち直した。名簿へ戻れないと言った男にも、次に覚える名前はあった。




