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宇宙の帳尻合わせ屋 ルーシッドリ・ラスタ号  作者: さんけい


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6/12

第六話 食堂に席がひとつ増える

 マヤが医務室を出られるようになったのは、S‐14から十日後だった。


「走らない」


 マリエンに言われながら、食堂まで来た。


「走ってません」

「歩くのが速いですぅ」

「先生が遅いんです」

「患者に言われたくないですねぇ」


 マーサが椅子を引いた。


「座りな。働くのは食べてから」

「働くんですか?」

「船賃払える?」

「払えません」

「じゃあ働く」


 この船の理屈は、だいたい短い。

 マヤに用意された服は、マーサの古い作業着をレオが詰めたものだった。袖だけ折り返しが厚く、靴はカイが中敷きを切って合わせている。

 S‐14から持ち出せた私物は一冊のノートと、髪を束ねる紐だけだった。


「あとで港に着いたら買えばいい」


 マーサが粥の椀を置く。


「払えるようになったら返します」

「返す相手をいちいち探してたら、服が腐るよ。次に要る人へ回しな」


 マヤは椀を両手で持った。

 最初の三日はスープだけ、その次は柔らかく煮た根菜。粒の残った粥は十年以上ぶりらしく、一口ごとに妙な顔をする。


「おいしくない?」


 レオが心配そうに訊いた。


「おいしい。噛むのを忘れてただけ」


 食堂の手がいくつか止まり、すぐまた動いた。マーサは何も言わず、粥の横へ薄く焼いたパンを半枚置いた。


「S‐14へ来る前は、どこにいたんだい」


 マーサが鍋を拭きながら訊いた。


「リング・セブンです。外縁軌道のコロニー」

「じゃあ、ここの重力はきついね」


 マヤは膝の上で片脚を軽くさすった。


「歩くだけで足が重いです」


 医療区画の手伝いとしてS‐14へ入り、閉鎖が延びるうちに、帰る便も帰る場所もなくなった。

 説明はそれだけだった。マーサも、それ以上は聞かない。


     *


 最初の仕事は皿洗いだった。

 マヤは三枚割った。


「すみません!」

「三枚までは新人割引」


 マーサは平然としている。


「四枚目から給金引くよ」

「えっ」

「嘘だよ」

「びっくりした……」


 隣でレオが、割れた皿を厚い布へ包んだ。


「ここ、重力がS‐14より少し強いから。持ち上げるときは軽いのに、落ちると速いんだ」

「先に言って」


 レオは包み終えた破片を屑入れへ置く。


「一枚目で言おうと思ってた」

「もう三枚目です」


 二人の間へマーサの肘が入り、洗いかけの鍋が追加された。


「喋る余裕があるなら、こっちも」


 新人二人は揃って黙り、カウンターでパンを取っていたクルトが笑う。


「オレは一枚も割ってない」

「あんた皿洗ったことあるんですか」

「昨日」

「王子様なのに?」

「この船、それ言うとだいたい仕事が増えるぞ」


 マヤは口を閉じた。少し考えてから、小声で訊く。


「じゃあ、王子様って呼ばないほうがいい?」

「クルトでいい」

「クルトさん」

「さんもいらない」

「じゃあクルト」


 決まるのは早い。ミハエルが横から言う。


「私はまだ殿下と呼びますからね」

「誰も止めてない」

「そのうち、この船全員が呼び捨てにしそうで」

『すでに半数は呼び捨てですね』

「ラスは数えるな」


     *


 マヤは、S‐14から一冊のノートを持ってきていた。医療ユニットに残した記録とは別の、紙のノートだ。

 食後、彼女はよく食堂の隅でそれを開いた。ページには名前が並んでいる。


「何してる」


 クルトが覗くと、マヤは少し隠すように手を置いた。


「整理です」

「見ちゃまずい?」

「まずくはないです。……でも、面白くないですよ」


 S‐14にいた人の名前。

 死んだ人――どこへ移されたか分からない人。

 公式記録と照合できた人には丸がついている。

 丸の横には、移送先の施設名や、見つかった家族の名が小さく続く。確認できなかった者には線を引かず、余白が残してあった。


「戻せなかった人は?」

「残します」

「どこに」

「ここに」


 マヤがノートを指した。


「それだけ?」

「それだけです」


 クルトは椅子を引いて向かいに座った。


「意味あるのか」

「分かりません」


 マヤは正直に言った。


「でも、消すよりは嫌じゃない」

「医療ユニットの記録だけでは足りないのか」

「あれは状態と処置が中心です。これは、その人が何を好きだったかとか、誰といつも一緒だったかとか」


 マヤは一つの名を指で押さえた。横には「梨は食べない。焼いた林檎なら半分」とある。


「そんなことまで」

「食べられない物を毎回出されたら、名簿に載ってても困るでしょう」


 クルトは反論できなかった。冬の惑星の報告書には、配給量はあっても、誰が何を食べられないかまでは載らない。


「ラス。こういう項目もファンドへ渡すのか」

『全部は渡しません。行政が欲しがるのは生年月日と移送先くらいですから』


 クルトは梨の行をもう一度見た。


「じゃあ、残りは?」

『うちで持ちます。マヤさんが嫌でなければ』


 マヤはノートを閉じる前に、梨の行をもう一度確かめた。


「お願いします」


 クルトは黙った。

 ヘルの値札とは逆だ。あちらは動かすために数字をつけ、こちらは動かせないものを、消さないために名前を書く。


「殿下」


 いつの間にかミハエルが後ろにいた。


「また考え込んでますね」

「考えてない」

「その顔は考えています」

「うるさいな」


 マヤが笑った。


     *


 その日の夜、船内警報が一度だけ鳴った。

 緊急ではなく、ブリッジ招集の短い音だ。

 食堂にいたクルトとミハエルが行くと、ヘルとドギーはすでにスクリーンを見ていた。


『古い救難ビーコンです』


 ラスが波形を拡大する。


『識別、旧帝都海軍式護送船。《チェイン・リンク07》』


 ヘルの顔から、さっきまでの気だるさが消えた。


「それ、いつの船だ」

『終戦前。公式記録では行方不明』

「乗ってたのは」

『収容者。人数不明。途中で名簿が切れています』


 マヤが、抱えてきたノートをぎゅっと持った。


「また、名簿ですか」

『今度はもっと大きな穴ですね』


 ヘルはしばらく黙っていた。


「座標」


 ラスが示す。


 ――旧前線宙域の外側。


 クルトはヘルの横顔を見る。背中の火傷を見たときと同じ、何かを閉じるような顔だった。


「知ってる船なのか」

「型は知ってる」

「それだけ?」

「今はな」


 ヘルは立ち上がった。


「コース変更。見に行く」


 マヤも立つ。


「私も行きます」

「医者が許せばな」

「行きます」

「だから先生が」

「行きます」

「分かったから座れ。まだ患者だろ」


 ヘルに言われて、マヤは渋々座る。

 クルトはそのやり取りを見ながら思った。

 食堂に席が一つ増えただけで、船の人数が一人増えたわけではない。

 この船が持っていく過去が、一つ増えたのだ。

 そして今度は、もっと大きな何かが、暗闇からこちらを呼んでいる。



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