第六話 食堂に席がひとつ増える
マヤが医務室を出られるようになったのは、S‐14から十日後だった。
「走らない」
マリエンに言われながら、食堂まで来た。
「走ってません」
「歩くのが速いですぅ」
「先生が遅いんです」
「患者に言われたくないですねぇ」
マーサが椅子を引いた。
「座りな。働くのは食べてから」
「働くんですか?」
「船賃払える?」
「払えません」
「じゃあ働く」
この船の理屈は、だいたい短い。
マヤに用意された服は、マーサの古い作業着をレオが詰めたものだった。袖だけ折り返しが厚く、靴はカイが中敷きを切って合わせている。
S‐14から持ち出せた私物は一冊のノートと、髪を束ねる紐だけだった。
「あとで港に着いたら買えばいい」
マーサが粥の椀を置く。
「払えるようになったら返します」
「返す相手をいちいち探してたら、服が腐るよ。次に要る人へ回しな」
マヤは椀を両手で持った。
最初の三日はスープだけ、その次は柔らかく煮た根菜。粒の残った粥は十年以上ぶりらしく、一口ごとに妙な顔をする。
「おいしくない?」
レオが心配そうに訊いた。
「おいしい。噛むのを忘れてただけ」
食堂の手がいくつか止まり、すぐまた動いた。マーサは何も言わず、粥の横へ薄く焼いたパンを半枚置いた。
「S‐14へ来る前は、どこにいたんだい」
マーサが鍋を拭きながら訊いた。
「リング・セブンです。外縁軌道のコロニー」
「じゃあ、ここの重力はきついね」
マヤは膝の上で片脚を軽くさすった。
「歩くだけで足が重いです」
医療区画の手伝いとしてS‐14へ入り、閉鎖が延びるうちに、帰る便も帰る場所もなくなった。
説明はそれだけだった。マーサも、それ以上は聞かない。
*
最初の仕事は皿洗いだった。
マヤは三枚割った。
「すみません!」
「三枚までは新人割引」
マーサは平然としている。
「四枚目から給金引くよ」
「えっ」
「嘘だよ」
「びっくりした……」
隣でレオが、割れた皿を厚い布へ包んだ。
「ここ、重力がS‐14より少し強いから。持ち上げるときは軽いのに、落ちると速いんだ」
「先に言って」
レオは包み終えた破片を屑入れへ置く。
「一枚目で言おうと思ってた」
「もう三枚目です」
二人の間へマーサの肘が入り、洗いかけの鍋が追加された。
「喋る余裕があるなら、こっちも」
新人二人は揃って黙り、カウンターでパンを取っていたクルトが笑う。
「オレは一枚も割ってない」
「あんた皿洗ったことあるんですか」
「昨日」
「王子様なのに?」
「この船、それ言うとだいたい仕事が増えるぞ」
マヤは口を閉じた。少し考えてから、小声で訊く。
「じゃあ、王子様って呼ばないほうがいい?」
「クルトでいい」
「クルトさん」
「さんもいらない」
「じゃあクルト」
決まるのは早い。ミハエルが横から言う。
「私はまだ殿下と呼びますからね」
「誰も止めてない」
「そのうち、この船全員が呼び捨てにしそうで」
『すでに半数は呼び捨てですね』
「ラスは数えるな」
*
マヤは、S‐14から一冊のノートを持ってきていた。医療ユニットに残した記録とは別の、紙のノートだ。
食後、彼女はよく食堂の隅でそれを開いた。ページには名前が並んでいる。
「何してる」
クルトが覗くと、マヤは少し隠すように手を置いた。
「整理です」
「見ちゃまずい?」
「まずくはないです。……でも、面白くないですよ」
S‐14にいた人の名前。
死んだ人――どこへ移されたか分からない人。
公式記録と照合できた人には丸がついている。
丸の横には、移送先の施設名や、見つかった家族の名が小さく続く。確認できなかった者には線を引かず、余白が残してあった。
「戻せなかった人は?」
「残します」
「どこに」
「ここに」
マヤがノートを指した。
「それだけ?」
「それだけです」
クルトは椅子を引いて向かいに座った。
「意味あるのか」
「分かりません」
マヤは正直に言った。
「でも、消すよりは嫌じゃない」
「医療ユニットの記録だけでは足りないのか」
「あれは状態と処置が中心です。これは、その人が何を好きだったかとか、誰といつも一緒だったかとか」
マヤは一つの名を指で押さえた。横には「梨は食べない。焼いた林檎なら半分」とある。
「そんなことまで」
「食べられない物を毎回出されたら、名簿に載ってても困るでしょう」
クルトは反論できなかった。冬の惑星の報告書には、配給量はあっても、誰が何を食べられないかまでは載らない。
「ラス。こういう項目もファンドへ渡すのか」
『全部は渡しません。行政が欲しがるのは生年月日と移送先くらいですから』
クルトは梨の行をもう一度見た。
「じゃあ、残りは?」
『うちで持ちます。マヤさんが嫌でなければ』
マヤはノートを閉じる前に、梨の行をもう一度確かめた。
「お願いします」
クルトは黙った。
ヘルの値札とは逆だ。あちらは動かすために数字をつけ、こちらは動かせないものを、消さないために名前を書く。
「殿下」
いつの間にかミハエルが後ろにいた。
「また考え込んでますね」
「考えてない」
「その顔は考えています」
「うるさいな」
マヤが笑った。
*
その日の夜、船内警報が一度だけ鳴った。
緊急ではなく、ブリッジ招集の短い音だ。
食堂にいたクルトとミハエルが行くと、ヘルとドギーはすでにスクリーンを見ていた。
『古い救難ビーコンです』
ラスが波形を拡大する。
『識別、旧帝都海軍式護送船。《チェイン・リンク07》』
ヘルの顔から、さっきまでの気だるさが消えた。
「それ、いつの船だ」
『終戦前。公式記録では行方不明』
「乗ってたのは」
『収容者。人数不明。途中で名簿が切れています』
マヤが、抱えてきたノートをぎゅっと持った。
「また、名簿ですか」
『今度はもっと大きな穴ですね』
ヘルはしばらく黙っていた。
「座標」
ラスが示す。
――旧前線宙域の外側。
クルトはヘルの横顔を見る。背中の火傷を見たときと同じ、何かを閉じるような顔だった。
「知ってる船なのか」
「型は知ってる」
「それだけ?」
「今はな」
ヘルは立ち上がった。
「コース変更。見に行く」
マヤも立つ。
「私も行きます」
「医者が許せばな」
「行きます」
「だから先生が」
「行きます」
「分かったから座れ。まだ患者だろ」
ヘルに言われて、マヤは渋々座る。
クルトはそのやり取りを見ながら思った。
食堂に席が一つ増えただけで、船の人数が一人増えたわけではない。
この船が持っていく過去が、一つ増えたのだ。
そして今度は、もっと大きな何かが、暗闇からこちらを呼んでいる。




