第五話 凍った朝
S‐14からのビーコンは、救難信号ですらなかった。
『在室表示です』
ラスが言った。
「在室?」
『古い病院や役所で使っていたやつですね。“まだ誰かいます”というだけの信号』
前方スクリーンには、小さな軌道ステーションが映っている。
外殻は灰色。照明はほとんど落ち、ドッキングポートのそばで弱い灯りが一つだけ点滅していた。
「記録では?」
ドギーが尋ねる。
『仮設難民収容ステーションS‐14。終戦後に閉鎖。収容者は全員移送済み。職員も撤収済み』
「じゃあ誰が在室してるんだ」
クルトの問いに、ラスは数秒黙った。
『それを見に行く仕事です』
S‐14は終戦直後、帰る場所をなくした者を一時的に収容するために作られたものだ。
設計上は三年。実際には十年以上使われ、最後の責任者が処分されたあとは、担当部署そのものが二度変わっている。
「閉鎖確認をした人間は?」
『書面では三名。現地へ行った記録はありません』
ラスが三人分の承認印を並べる。
「収容者を全員移した根拠は」
『移送完了の一行だけ。人数も、移送先もなし』
ヘルが鼻で笑った。
「閉じたことにした施設か」
「また名簿の穴ですか」
クルトは、数字だけの収容者一覧を見た。どこかにいる誰かの名前を、彼らはこれから拾いに行くのだ。
ヘルが椅子から立った。
「マリエン、カイ。準備。クルトとミハも来い」
「また殿下を?」
ミハエルが眉をひそめる。
「嫌なら残れ」
「私が残るとは言っていません」
「じゃあ決まりだ」
ヘルはもう歩き出している。クルトはミハエルの顔を見た。
「オレが行かなければ安心か」
「ものすごく」
「でも行く」
「知っています」
ミハエルは諦めの早い男だった。
*
S‐14の中には、人が暮らしていた痕跡だけが残っていた。
壁に貼られた子供の絵。
壊れた給水機。
食堂の入口に「水曜はパンの日」と手書きされた紙。
クルトは足を止めた。
給水機の横には、背丈を測った線が何本も残っている。低い位置に同じ名が三度あり、日付のたびに少しずつ上へ伸びていた。仮設の三日ではつかない跡だ。
「子供がいた」
「大人もいましたよぅ」
マリエンは壁際の椅子を指した。脚の一本だけ別の金属で継いであり、座面には何度も張り直した布が被せてある。
「長く暮らすと、物のほうが先に教えてくれます」
「仮設難民収容所、だったんだよな」
「仮設って言葉は便利ですからねぇ」
マリエンが言う。
「三日でも三十年でも、作った人がそう呼べば仮設です」
廊下の先に、医療区画があった。扉は半分開き、その内側だけ電源が残っている。
『生命反応、一』
ラスの声がイヤピースに響いた。
『ただし、かなり低いです』
中央に一基だけ、低温睡眠カプセルが立っていた。
中には若い女が眠っている。痩せていた。年齢は分からない。
「名札は?」
ヘルが訊く。カプセルの脇に、小さなプレートがあった。
――マヤ・フローレス。
「帝都の収容者名簿には?」
『いません』
「職員名簿」
『いません』
「死亡者」
『いません』
ヘルが舌打ちした。
そのとき、天井のスピーカーから音がした。
《……来訪者……確認》
一同が顔を上げる。
《S‐14医療補助ユニット…… マヤ。エラー継続…… 患者、一名。退院処理、未了……》
クルトはカプセルとスピーカーを交互に見た。
「同じ名前?」
『おそらく、人間のマヤ・フローレスが医療補助ユニットを拡張して、自分の名前をつけたんでしょうね』
「自分が眠ったあとも?」
《名簿…… 空白。患者…… 未処理》
古い機械は、それだけを繰り返した。
ヘルがカプセルへ手を置く。
「先生。起こせるか」
「起こすことはできますが」
マリエンはモニターを見た。
「生きられるかは、別です」
「確率」
「数字にします?」
「やめとく」
ヘルは即座に言う。クルトは少しだけ驚いた。
値札の話をした男にも、数字にしないものがあるらしい。
*
S‐14の電力では、覚醒処置と環境維持を同時に続けられない。ラスが使っていない区画を一つずつ落とす。
『居住区C、停止』
廊下の照明が消える。
『食堂、停止』
「水曜はパンの日」の紙が暗闇へ沈む。
『託児区画、停止』
クルトは反射的に振り返った。さっき見た子供の絵が、もう見えない。
「消すのか」
「電気は有限です」
カイが言う。
「こっちへ回さないと、この人が起きない」
分かっている。
でも、ひとつの命を戻すたびに、暮らしの跡が一つずつ暗くなるのは妙な光景だった。
やがてカプセルの霜が解けた。マリエンが酸素と循環液を調整し、マヤの胸が細く上下し始める。
「……さむい」
最初の声は、それだった。
「寒いですねぇ」
マリエンが毛布をかける。
「でも、もうちょっとだけ頑張ってください」
「ここ……」
「S‐14」
マヤの目が大きく開いた。
「まだ?」
「まだ、です」
ヘルが答える。
「ただし、今日で閉める」
マヤの目が、ゆっくり彼へ向く。
「誰……」
「ラスタ号。後片づけ屋だ」
「後……」
「オマエを連れていく。嫌なら言え」
マリエンが小さく眉を寄せた。
「ヘルさん、起きたばっかり」
「後で聞いても答えが変わるとは限らねえ」
マヤは、かすかに笑った。
「ひどい、人」
「よく言われる」
「……行く」
声は弱かったが、聞き間違えようがなかった。
「ここ、もう…… 誰もいないから」
クルトは思わず口を開く。
「医療ユニットがいる」
「それ、わたし」
マヤは目を閉じたまま言った。
「わたしが、忘れないように…… 作った」
医療補助ユニットが、天井から途切れ途切れに応じた。
《患者…… 本人確認。マヤ・フローレス。職員権限…… 失効。患者権限…… 継続》
「自分を患者として残したのか」
クルトが訊くと、ベッドの上のマヤはほんの少し顎を動かした。
「最後に…… ひとり、必要だったから」
誰かが残っていなければ、医療区画も、名簿も、ここにいた者の記録も止まる。だから自分を眠らせ、自分の名前をつけたユニットへ続きを任せた。
「ひどい分業だな」
「そうですねぇ」
マリエンは毛布の中へ温度計を差し直した。
「でも、二人とも今日まで仕事を続けました」
*
移送準備の間、ラスがS‐14のローカル記録を吸い上げた。
公式名簿に載らなかった人間のメモが、何百件もあった。
名前だけのもの――顔の特徴――好きな食べ物――子供が泣くときの癖。
死んだ日付すら分からず、「春の前」とだけ書かれたもの。
「これ、全部マヤが?」
『人間のほうと、医療ユニットの共同作業ですね』
クルトは画面を見続けた。
「公式に戻せるのか」
『一部は。残りは無理でしょう』
「なぜ」
『戻す先がもうありません。家族も行政区も消えている人がいる』
「じゃあ、この記録は」
『ラスタ号で持ちます』
ラスは簡単に言った。
『少なくとも、捨てる理由はありませんから』
「全部救えない」という言葉より、クルトはそのほうが納得できた。
最後に医療区画の電源を落とす前、ラスは補助ユニットへ問いかける。
『引き継ぎを受領しました。停止して構いません』
《名簿……》
最後の表示灯が不規則にまたたく。
『持っていきます』
《患者……》
ストレッチャーの上で、マヤの呼吸モニターが鳴った。
『ラスタ号へ移しました』
数秒おいて、天井の表示灯が消えた。返事の代わりに、古い送風機がゆっくり止まる。
医療区画を出たところで配管が裂け、冷却液が霧になって吹き出した。ヘルがストレッチャーの前へ腕を出し、背中で受ける。
「ヘルさん!」
「止まるな。先に運べ」
防護上着の背に濃い染みが広がった。裾がめくれ、白く縮れた火傷が一瞬だけ見える。
医務室で見たものと同じだったが、今度はそれが誰かの前へ出た結果だと分かった。
*
ラスタ号へ帰ると、マーサが暖かいスープを用意していた。
マヤはまだ医務室から出られない。
クルトたちは食堂で遅い夕食を取った。
ヘルの上着には、S‐14で漏れた冷却液の染みがついていた。
「それ、洗濯しな」
マーサが言う。
「あとで」
「いま」
「飯食ってから」
「染みになる」
「総統だった男を洗濯で詰めるなよ」
「総統だったから何だい。染みは染みだよ」
クルトはスプーンを止めた。
――総統。
知っていた。もちろん知っていた。
ヘルという名と、レーゲンボーゲンの戦争を結びつけられないほど、王家の教育は甘くない。
だが本人が口にしたのは、初めてだった。
ヘルはクルトの視線に気づいた。
「何だ」
「いや」
「聞きたいなら聞け」
「今日はいい」
「そうか」
またスープを飲む。それだけだった。
クルトは少し拍子抜けして、そして少し安心した。
この船では、聞かない自由もあるらしい。




