vol.2 太客、まさかの婚約者
帰宅したのは、夜の十一時を少し回った頃だった。
メイクは半分落ちて、髪はスプレーでバキバキ。
足の小指は、もう完全に壊死しかけている。
家に着くなり、あたしは玄関でヒールを脱ぎ捨てた。
「ただいまー」
返事はない。
うちは、芸能事務所を経営している。
といっても、大手ではない。むしろ中小も中小ってとこ。
地下アイドルや若手俳優、配信者を抱えて、なんとか食いつないでいるような会社だ。
昔はもっと羽振りがよかったらしいけど、今は違う。
社長であるパパは、毎日資金繰りに追われているし、ママはママで、昔の華やかだった頃の話ばかりする。
家の中には、いつもさびしい匂いがする。
何かが燃え尽きた後のーーさびしい匂い。
***
「璃々花。帰ったならちょっと話があるから、こっちに来なさい」
リビングからパパの声がした。
リビングに入ると、パパとママが並んで座っていた。
テーブルの上には、やたら分厚い封筒がある。
嫌な予感がして、あたしは眉をひそめた。
「なに。借金?離婚?」
二人は気まずそうに黙り込む。
「璃々花。お前に、婚約の話がある」
一瞬、意味がわからなかった。
「……は?婚約?」
「小鳥遊家から正式に申し入れがあったんだ」
ーー小鳥遊家。
その名前は、世間知らずのあたしでも知っている。
不動産、金融、流通ーーいろんな場所に名前が出てくる巨大財閥だ。
つまりーー金持ちの中の金持ち。大金持ちってこと。
「……え、ちょっと待って。何時代の話?今、令和だよ?」
「もちろん、すぐに結婚という話ではない。まずは婚約という形だ」
「いやいや……。てか、あたし、アイドルだし。恋愛禁止どころか婚約発表とか、炎上どころの話じゃないじゃん!アイドル生命絶たれるって!」
「先方は、お前のアイドル活動を考慮して、この婚約を公にはしないそうだ」
「ういう問題じゃないっしょ」
「璃々花……頼む。事務所のためでもあるんだ」
「……つまり、あたしを売るってこと?」
「……そんな言い方するな。小鳥遊家の支援が入れば、事務所は持ち直すことができるし、お前たちの活動環境も今よりずっと良くなるはずだ」
パパは疲れた顔で言った。
ーーそれはずるいじゃん。
あたしだって、メンバーと一緒にもっと大きなステージに立ちたい。
それは本当だけどーーこれは違うでしょ。
その時、インターホンが鳴った。
母が立ち上がる。
「あら、ちょうどいらしたわ」
「……誰が?」
母は答え図に、玄関に向かう。
しばらくして、リビングの扉がそっと開く。
そこに立っていたのは、黒いスーツの青年だった。
黒い髪。整いすぎた顔。
数時間前、ライブハウスの特典会で、あたしの隣に立っていた男ーーRINRIさんだった。
「……は?RINRI……さん?」
RINRIさんは、あたしを見る。
ステージを見る時と同じ目だ。
熱のない、どこか冷めた目。
「数時間ぶりですね、リリカさん」
彼は丁寧に頭を下げた。
「小鳥遊透夜です。どうぞよろしく」
「……ねえ、嘘でしょ?」
あたしは勢いよく立ち上がった。
右足の小指がひどく痛んだ。
***
反射的に顔が歪む。
やばい。
今日イチ盛れてない顔を、顔面偏差値バグ男に見られた。
メイクはボロボロだし、髪はスプレーで固まっている。
靴ずれで足は死んでるし、ほんとに最悪。
最悪。地獄。
でも、それより何よりーー意味がわからない。
数時間前まで、特典会の列に並んでいた古参ファンが、今はうちのリビングに立っている。
しかもーー婚約者として。
「ちょ、待って待って待って!情報量が渋滞してる」
あたしは片手で額を押さえた。
「RINRIさんが、小鳥遊透夜?小鳥遊透夜が、RINRIさん?で、その小鳥遊透夜が、あたしの婚約者?」
「はい」
透夜さんが微笑む。
あたしの中の警戒アラームが、爆音で鳴っている。
ーーRINRIさん。
ーー小鳥遊透夜。
ーー古参ファン。
ーー婚約者。
この男に関する単語を並べるだけで、脳がバグりそうだ。
「改めまして、あなたの婚約者の小鳥遊透夜です。これからよろしくお願いしますね」
「……いやいや、よろしくできる空気じゃないんだけど」
「そのようですね」
透夜さんが再び微笑む。
その笑顔は、まるで作り物のようだった。
「リリカ、まずは落ち着きなさい」
パパが割って入る。
「いや、パパ。落ち着ける要素が一個もないんだけど?さっきまであたしのライブにいたファンが、うちのリビングで婚約者名乗ってんだよ!?普通にホラーじゃん!!」
「璃々花」
パパが低い声で言った。
「まずは、落ち着いて話を聞きなさい」
「だから、聞いてるじゃん!聞いた結果、脳がバグってるだけで……。ねえ、パパ。あたしをファンと婚約させようとしてる自覚ある?」
パパは言葉に詰まった。
ママは困ったように笑う。
「でもね、璃々花。透夜さんは、とても誠実な方よ。あなたのことを、きっと大切にしてくださるはずよ」
「……ママまで……」
しばらくの間、沈黙の時間が流れた。
「しかも、あたし今、ライブ終わりでメイクはボロボロだし、髪バキバキだし……婚約者に見せるコンディションじゃないんですけど?」
「今のあなたも十分綺麗だと思いますよ。メイクが崩れていることと、あなたの魅力が損なわれていることは同義ではありませんので」
さらっと透夜さんが言った。
あたしは固まった。
パパとママも固まった。
透夜さんだけが、平然としている。
「……は?」
「……なんだか、私たちはお邪魔みいたいね。ね、あなた?」
ママがあたふたしながら言い、パパが頷く。
「璃々花、透夜さんと少し二人で話してみたら?透夜さんだって、私たちがいると話しずらいでしょうし」
「いやいやいや、無理無理無理!」
「そうだわ!璃々花のお部屋で少し話したら?」
「そうだな。それがいい」
ママの意見にパパがすかさず同意する。
「パパもママもおかしいでしょ!それに、自室にファン入れるとかーーアイドル的にアウトだわ!」
とは言ったもののーーたしかにパパとママの前でこれ以上話しても、余計にややこしくなる気がした。
あたしは透夜さんを見る。
透夜さんは、相変わらず穏やかな顔をしていた。
「僕は、どこで話しても構いませんよ」
「……もういいや。わかった。とりあえず……色々聞きたいこともあるし、二階に行こ」
そうして、あたし達ははそのままリビングを出て、二階のあたしの部屋へ向かったのだった。




