満月の下で 第8話
ご覧いただきありがとうございます。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。
満月の夜が待ち遠しかった。
セレナはあのデッキの下へと泳いでいた。
近づくにつれ、ポロン、ポロンと心地よい音色が降りてくる。
(やっぱりいた)
胸の奥がじわりと温かくなるのを感じながら、そっと耳を澄ませた。
気づけばまた、唇からメロディが零れていた。
「んんん~んんん~んん~」
波の音に溶け込むように、静かに、自然に。
するとーー音が、止まった。
デッキの床板がきしむ。
ギシ、ギシ、ギシ。
手すりのそばに人影が現れた。
「今晩は……誰か、そこにいるのかな?」
セレナは息をのんだ。
——もしかして……
岩陰からそっと覗き込む・・・。
月明かりに照らされた青年の顔は、驚くほど端正だった。
(わあ……)
心臓がドキッと跳ねて、思わず岩陰に身を引いた。
でも、目が離せない。
青年はデッキの手すりに手を置き、海面をゆっくりと見渡している。
セレナは岩陰からじっと、その様子を見つめていた。
ためしに、尾鰭で水面を撫でるように叩いてみる。
パシャ、と小さな音が夜の海に響いた。
「そこにいるのかい?」
青年の顔がこちらを向いた。
でも——その瞳は、月明かりの中でどこも見ていなかった。
セレナは息をのんだ。
波音だけが、静かに続いていた。
しばらくの沈黙の後、青年はゆっくりと口を開いた。
「僕は目が見えないんだ。だから…君の姿を見ることができない」
穏やかな、静かな声だった。
「でも、声はちゃんと届いてる」
青年は月明かりの中で、まっすぐこちらに顔を向けたまま続けた。
「君さえよければ——また、ここに来てくれないか?」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるように熱くなっていく。
セレナは岩陰に隠れたまま、尾鰭で水面をそっと打った。
その日の夜は、高鳴る胸を鎮める事ができず眠ることができなかった。
***
朝目覚めても、ぼんやりとした頭の中にあの声が残っている。
——あれは、誰だったのだろう。
青年はふと、そんな疑問を抱いた。
確かに、海の方から聞こえていた。
水面を叩く返事もあった。
けれど、それが人なのか、聞き間違いなのか分からない。
***
一階に降りると、小麦の焦げたパンの香りがほのかに香っている。
「おはよう。父さんと兄さんは工房に行ったわよ」
母が声をかけながら朝食を差し出す。
パンと固く焼かれた目玉焼。
「おはよう」
青年は挨拶を交わすと
パンを手に取り口に運んだ。
満月の夜のことを思い出し母に尋ねてみた。
「海から歌声が、聞こえてきた気がしたんだ」
「港や岸壁の音が反響してそう聞こえたんじゃないかしら」
母はナッツの皮を剥きながら手元に目をやる。
「そっか…」
指先がフォークを捉え、目玉焼きに手をつける。
「気になるなら、港で誰かに聞いてみたら?」
母は少し考えてから、ふと思い出したように言った。
「そうだ!もし港の方へ行くなら、夕飯用にイワシを買ってきてくれる?
今日はいいのが入っているかもしれないわ。」
***
青年の家は、楽器職人の町を見渡せる少し高い場所にあった。
坂を下っていくと、その先には港が広がっている。
青年は朝食を食べ終わるとササっと身支度を整えて、家から少し離れた工房へと向かった。
工房の扉を開けると、木の香りと削る音が一気に押し寄せてきた。
「おはよう」
青年が声をかけると、職人たちは手を軽く上げたり、短く「うす」とだけ返した。
作業の手は止まらない。
奥から父の声がする。
「おう、きたか」
それだけで十分だった。
青年の仕事は、ライアーハープに弦を張り調律をする。
色々な音が混じる中、弦を指で弾いては音を確かめ合わせてゆく。
弦を張る時は慣れた手つきで程よい強さで張っていく。指先の迷いはない。
一頻り、仕事を終えると父に声をかけた。
「父さん、今日はもう上がるよ。母さんにイワシを買ってくるよう言われてるんだ。」
青年は工房での手伝いを早めに切り上げると、港へ向かった。
青年は壁伝いに手で確認しながら、坂道を下ると潮の香りをより強く感じ、魚市場が近いことを示していた。
市場では聴き慣れた売り込み文句の聞こえてくる方へと向かう。
「よう!坊主、元気か?」
「やあ、親父さん。イワシを1ダースくれないか。それと…昨晩、この辺りで船を出していたかい?」
「それがどうしたんだ?」
魚市場の店主は、不思議そうに青年を見た。
青年は昨晩の出来事を話した。
店主はしばらく考えたあと。肩をすくめるように言った。
「それはイルカか鳥の鳴き声を聞き間違えたんじゃないかね?」
「この辺りの海は豊かでね。いろんな生き物がいるから、そういうこともあるさ。」
そして少し笑いながら付け加えた。
「海からの歌声は、人魚なんていう伝承もあるが……あれはおとぎ話さ」
青年は差し出された袋を、確かめるように両手で受け取り、代わりに銀貨を渡した。
だが、それ以上は聞かなかった。
なぜかその言葉だけが、海底に沈む碇のように心に残った。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
引き続きお楽しみいただけたら嬉しいです。




