無知という名の罪 第12話
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青年はハープを胸に抱いたまま、しばらく動かなかった。
音だけが、その距離を教えていた。
恐怖はなかった。
むしろ、その音の正体を思い出そうとするほどに、胸の奥が静かに落ち着いていく。
「……おかしいな」
誰に向けた言葉でもなく、青年は小さく呟いた。
目が見えないことは、彼にとって世界の不確かさだった。
けれど今、この海の前だけは違う。
“そこにいる”という確信だけが、妙に揺るがない。
彼はハープの表面を指でなぞった。
装飾された彫り。
その指先の感触が、何かを呼び起こす。
――あれは、まだ幼い頃のことだった。
「お前には、まだ早い」
そう言って祖父は、このハープに決して触れさせなかった。
宮中で弾くために仕立てられた特別な楽器は、家の中でも別格として扱われていた。
「わしが死んだら譲ってやろう」
そう言い残し、祖父はこの世を去った。
⸻
青年はゆっくりと顔を上げた。
海へ向けて、静かに言葉を落とす。
「このライアーハープは、僕にとってとても大切な物なんだ」
少し間が空く。
波の音だけが返ってくる。
「……君が拾ってくれなかったら、僕はもう、これに触れることもできなかった」
その声は責めるものではなく、ただ事実を確かめるような響きだった。
そっとハープを横へ置く。
そして、ためらいながらも海へ手を伸ばす。
そこにいる“何か”へ、確かめるように。
セレナは、伸ばされたその手に、そっと触れた。
次の瞬間、青年の指がわずかに震える。
水の冷たさではない。——誰かの手だった。
——小さな手
かすかに、甘い香りがした。
潮の匂いに混じる、それとは異なるやわらかな香り。
青年の呼吸が、ほんのわずかに乱れる。
その手をそっと引き寄せ――
自分の頬へと当てた。
その瞬間、
熱が伝わるように、瞼がじわっと温かくなっていく。
かすかな光の気配を感じた。
だが、それが何なのかは分からない。
視界は、しばらく揺れていた。
光と影が溶け合い、形を持たない。
やがて――
その揺らぎの中に、ひとつの輪郭が浮かび上がる。
月明かりを受けて揺れる髪。
そして――
こちらを見つめる、瞳。
青年は、息を呑んだ。
その姿は――
何度も違うと否定したものだった。
それでも、視界はまだ揺れている。
確かめるように、青年は目を凝らした。
触れているその手首に、細い光が絡んでいるのが見えた。
月明かりを受けて、かすかにきらめく。
刻まれた文字は、まだはっきりとは読めない。
もう一度、目を凝らす。
視線が、重なった。
次の瞬間――
手の中から、すべてが消えた。
「え」
***
セレナの胸が、弾けた。
——見られた。
手を振りほどき、海の奥へと逃げる。
息が苦しい。
心臓がうるさい。
それでも、止まらない。
ただ、逃げる。
——それなのに。
あの瞳が、離れない。
光を宿したばかりのように揺れていた。
灰色とも、淡い青ともつかない色で。
触れていた頬は、あたたかくて。
手にも、その温もりが残っている。
胸の奥が、ぎゅっと――痛んだ。
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